「彩」の仲間が自発的に「生涯現役社会づくり」を推進していけば、その仲間は全員が働き蜂の必要な要員なのです。人間は必要とされていることに応えるために、自らが自然と脳力を使う習慣もできます。だから全てが非常にいい循環になっている・・・と高石氏は説明されます。

  果たして「必要とされる自分」になっていると自覚できる高齢者は、この日本にいま現在どれくらい存在しているでしょうか?・・・これはただ横石氏だけではなく、私たち生涯現役仲間の皆様も同様に各地域で、それぞれ自身の周辺社会を含めていま問うているのです。

  何もしなくても何でもしてもらえる、与えられる、だから人に言われて始めて動く。そんな環境が高齢者の周辺環境が結構多くあり、それがかえって高齢者のやるべき表情を喪失させていくのではないか・・・と高石氏も私どもも危惧します。

  これは単に高齢者だけの問題だとは限りません。次世代の青壮年層にもいえることかも知れません。自分の姿は、いま本当に生きている表現に乏しい顔になってはいないか気付くことだ・・・と彼は云います。

  20年後、30年後に次世代がイメージで見習う立場にある高齢者、それは勿論私たち、皆さんも当然の未来像を現在提供しています。そして、いずれは次世代の青壮年たちも、人生先輩になる高齢者予備軍であり、いまは例え若者であっても、まず改めて自分自身を見直す人生目標を高所から俯瞰して欲しいのです。

  『生涯現役社会』は以上の事柄を要約すると、その社会の理想像は「全ての人が生涯現役の居場所において必要とされる人で成り立つ社会」だといえるのです。

  高齢者になれば現役の選択肢がないから、年金・介護の世話になるだけだ・・・と片面思考で考えるのは、余りにも脳力開発を諦めた思考短絡的な早とちりではないでしょうか。

  あなたの存在が周囲に夢と希望を生み出す笑顔一つでも役立ちます。病院で長期療養しながら、いつも見舞客が絶えず、お見舞いされるのは入院患者ではない、むしろ見舞客の側だってあり得るのです。

  見舞われる立場にある病人ご本人が、お見舞客一人ひとりの悩み事に親身な人生相談者となって、数多くの身体が健常者の、病んだ心の癒しで元気を与え続けていたといわれる、故三浦綾子女史のような方の事例など・・・を私たちは謙虚に学びたいものです。    つづく