横石知二氏の説明によると、今から34~35年も前の1979年(昭和54年)に営農指導員として、徳島県上勝町を初めて訪問した頃の同地域は、火が消えていくような活気のない山間の田舎風情で、これでは廃村まっしぐらに進んでいる思わざるをえない状態だったといいます。

  当時の上勝町主産業はミカンと林業、建設業。どれも産地間競争や海外の安い資材流入による衰退一方で、まともな所得にならないから、若者中心に人材も流失一方で、過疎化・高齢化が急速に進んでいたようです。

  雨の日は仕事にならないから男衆は、朝から一升瓶をさげて農協や役場に集まり、酒を飲んでは愚痴ばかり。農協や役場の職員の顔を見れば「補助金を取ってこい」と、将に人頼りのことばかりしか口にしないグループに成り下がっていたといいます。

  一方で女性たちは家事以外に自分たちの生業がある訳でもないので、いつも一家の主人である、父や夫の言いなりの行動で自主性がない。暇に任せて軒先の井戸端会議では、嫁や町の悪口や誰かのうわさ話を、朝から晩までしゃべりまくる始末で、まともな思考脳力の発揮などとても見込めないと横石氏は思い知らされたのです。

  高齢者医療費が当時無料だったため、暇な年寄りは診療所や病院をサロン化し、大都市での一流会社員の息子の自慢をしたり、自分は貧乏しても子どもを一流校・一流会社に合格させたい母親は、勉強できないと上勝町で一生うだつあがらぬ者となると説教するとか・・・何と自分の郷里に誇りの欠けらもないのか、と腹が立ったのは当り前です。

  みずから生まれた土地に最初からあきらめる負け組意識で、他人の批判ばかりする有様を見聞して当時20歳だった彼・横石氏は若造ながら「これではあかん」「何とかせないかん」と義憤を発奮したところが彼には、脳力発揮の天性を備えていたのでしょう。

  その脳力開発の素晴らしさは、まず地元の誇り創出対策に、いきなり「町おこし」や「地域活性化」という飛躍する発想を主張したのではありません。町の誇り云々以前に身近な町民の生活態度・悪慣習を抜け出す方法として、仕事のない女性や年寄りたちにも出番・居場所づくりが優先することに気づいていたことです。

  町民一人ひとりが「やること」を持つこと、「目標と生きがい」をもつことの大切さに気づき、女性や年配者でもできることに絞った起業開発に考えを集中したのです。

  そのため根気よく考え続けた脳力が発揮された結果が、いまある上勝町の条件を駆使できる『葉っぱビジネス』に天啓的な運命出逢いとなった脳力瞬発のスイッチONした・・・という具合です。  つづく