あけましておめでとうございます。 
 旧年中はご迷惑をおかけしましたが、右手の痛みは、まだ残っているものの徐々に快方に向かっていますので、今年は再起します。宜しくお願いいたします。
 さて、下記添付にありますように、本年は東京五輪と共に、新幹線開業50年です。「そのとき私は」と題して、あのときの思い出を書きました。恐縮ですがご覧ください。
                                  高 橋  育 郎
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 東  海  道  新  幹  線  5  0  周  年 / そ の と き 私 は        
                                  高 橋  育 郎

  1964年(昭和39)10月1日 東海道新幹線東京~新大阪間が開業しました。
 
  あれから半世紀。そのとき私は、国鉄関東支社広報係にいて、世紀の出発式に報道マンとして、カメラ片手に立ち会いました。29歳でした。

  夢の超特急新幹線の出発式は、東京駅に新しく出来た専用ホームで石田礼助総裁のくす玉割りで行われました。
 
  総裁は高さ1メートルの壇上に立ちましたが、それより4~5メートル離れた前面に、半円型になって新聞テレビ各社の報道マンが並び、私はほぼ中央部の前面に立ちました。

  前日、本社広報部からカメラを渡され、この任をまかされたのです。撮影済みのカメラは、その場で待機していた広報部の方に手渡しました。ですから、どのような出来栄えかは確認することなく過ぎてしまいましたが、あの開通式の写真は歴史的なものとして、何かの折に眼に触れています。

  ただ、それが果たして私の撮影したものなのか、それすら確認できないまま、いつしか50年の歳月が流れました。

  広報には前年の4月に、それまでの新しく出来た職務分析(国鉄が職務給を導入するための基礎資料)の仕事が、ほぼ片付いたとき移りました。

  ここでの仕事は2年間でしたが、私は変わり者(ユニークな個性)を認められたのです。いま思えば、その後の人生を決定づけ出来事でした。

  とにかく翌年の開業に即席でPRをしなくてはならないので、待ったなしの仕事です。すぐに文章を書かされ、字を書かされ、ついには絵を描かされ、これらは、新幹線PRモデルコース(鴨川地区の新幹線試運転区間に各界の方々を招いての試乗会)の案内役という役目。

  そして、ここで試乗されたお客様への記念品の贈呈。それは、新幹線列車を模したネクタイピン、カフスボタンでしたがデザインを担当しました。実はこの記念品は高級なもので大好評を博すと言った裏話がありました。 

  また、管理者向けの経営月刊誌の発行で、これの企画編集で、座談会を記事にし、またカットを描き、(若干のお小遣いが貰えた)役立ちました。

  更に変わったところでは、業界新聞に鉄道ファンの方から寄せられた、そのころから徐々に消えて行く「機関士」の哀歓を描いた詞に作曲し、NHKテレビで発表され、私は作詞の方とスタジオによばれ放送されたことでした。

  ネクタイピンはお宝として持っていたかったのですが、なくしてしまったことは惜しまれます。

  新幹線50年に当たって、私の輝かしい記憶と、その後の人生を示唆してくれた出来ごとに感謝をこめて書きとめました。