「生涯現役社会のつくり方」の意見・提言②
2013年12月6日 お仕事 “ ピ ン チ を チ ャ ン ス に !! ” というV底で奮起する言葉は、私たちがよく聞く逆転発想への名文句です。が、意外にどうしてどうして、私たちがイザ逆境の崖っぷちに立たされる当事者の立場になると、決して生易しいものではありません。
独り身でのピンチならいざ知らず、家族を路頭に迷わす土壇場や、企業主や団体責任者である限り、その進退決断のしどころは幾多の関係者にどれだけの影響を及ぼすか計り知れません。
私たち日本生涯現役推進評議会も創設10年目を2014年6月に迎える節目に幾多の有難い同志に支えられながら、超高齢社会日本の『生涯現役社会づくり』への苦しいピンチを実感しながらも、時流がまさにまたとない前進へのチャンスを提供してくれているのではないでしょうか・・・。
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災 い 転 じ て 、 福 と な す
あ き ら め な い 、 そ し て ひ ら め き を 仕 事 に
1981年2月、大寒波が上勝町を襲ったのだ。零下13℃という記録的な低温状態により、町の経済を支えるみかんの木が全滅してしまう。横石さんが着任して2年後のことだった。
とにかく、町の人々にとってはみかんに代わる収入源が必要。まずは、一日も早く現金収入が得られればと、農家が自家用に栽培していた青物野菜を市場に出荷することにしたのだ。横石さん自ら農家を回って野菜を集め、徳島市内の市場に出荷する。もちろんセリが行われるのは早朝。車の中で睡眠をとり、セリに立ち会う。その後、上勝町に戻って農協へ出勤する、横石さんの生活は上勝町のために必死で回っていた。
そんなある日、ある市場関係者に声を掛けられる。強力なアドバイザーとして上勝町復興の立役者の一人となった市場の産地部長、立石さんである。現状を話すと、新たな作物や栽培時期など相談に乗ってくれた。立石さんのアドバイスにより、切り干しイモやワケギ、ホウレン草と新たな作物の栽培に挑戦した。すると、みかんと違い栽培期間が短い作物は、現金収入になる日数が早く、意外なところで農家の方々の支持を得ることとなった。
「 売 り 場 の 人 に 聞 く の が 一 番 。立石さんは、いつ何を作ればいいかだけでなく、売り方まで親身になって教えてくれた」
上勝町を変えようと、あきらめない横石さんの姿は自然と応援する人を引き寄せていたのだろう。市場での立石さんとの出会いは、上勝町の転換に大きく拍車をかけた。翌年には、原木しいたけやタラ芽など栽培品目をさらに増やし、寒波からたった3年で、確実に上勝町は回復したのである。こうして大寒波をきっかけに、農業の再編がよい方向に動き出した。そして、気がつけば上勝町の人々との溝は埋まり、信頼関係が築かれていたのだった。
よそ者でありながら、上勝町を人々が誇れる町にしたいと思う気持ちはだれにも負けず、必死で働き続けた横石さん。伝わるまでにだいぶ時間はかかったが、その思いは人々に確実に届いていた。しかし、農業を支える人々の高齢化と少子化の勢いは、とどまることを知らない。いくら作付け転換に成功したとはいえ、町の活気が失われるのを止めることは難しかった。
「着任してからずっと考えていたこと、どうしたら町に活気がでるのか。上勝町に人がとどまり、上勝町に人が集まるようにしなければ。これを、どう実現するかでした。」
そこで横石さんが着目していたのは、女性の活躍である。女性が活躍できる場さえあれば、この町は変わることができると確信していた。
「とにかく女性はおしゃべりが好き。悪口もうわさ話も。そのおしゃべりがいい方向に向くようになればいいなと。自分のことを、家族を、町を自慢するおしゃべりを繰り広げてくれたら。町の一人ひとりが活躍するには、生きる場所を見出せるような仕事をつくるにはどうすればいいのか…。上勝町に来た頃のふるさとを悪く言う人々の姿が忘れられず、だれもが誇れる町にしたいと思っていました。」 つづく
独り身でのピンチならいざ知らず、家族を路頭に迷わす土壇場や、企業主や団体責任者である限り、その進退決断のしどころは幾多の関係者にどれだけの影響を及ぼすか計り知れません。
私たち日本生涯現役推進評議会も創設10年目を2014年6月に迎える節目に幾多の有難い同志に支えられながら、超高齢社会日本の『生涯現役社会づくり』への苦しいピンチを実感しながらも、時流がまさにまたとない前進へのチャンスを提供してくれているのではないでしょうか・・・。
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災 い 転 じ て 、 福 と な す
あ き ら め な い 、 そ し て ひ ら め き を 仕 事 に
1981年2月、大寒波が上勝町を襲ったのだ。零下13℃という記録的な低温状態により、町の経済を支えるみかんの木が全滅してしまう。横石さんが着任して2年後のことだった。
とにかく、町の人々にとってはみかんに代わる収入源が必要。まずは、一日も早く現金収入が得られればと、農家が自家用に栽培していた青物野菜を市場に出荷することにしたのだ。横石さん自ら農家を回って野菜を集め、徳島市内の市場に出荷する。もちろんセリが行われるのは早朝。車の中で睡眠をとり、セリに立ち会う。その後、上勝町に戻って農協へ出勤する、横石さんの生活は上勝町のために必死で回っていた。
そんなある日、ある市場関係者に声を掛けられる。強力なアドバイザーとして上勝町復興の立役者の一人となった市場の産地部長、立石さんである。現状を話すと、新たな作物や栽培時期など相談に乗ってくれた。立石さんのアドバイスにより、切り干しイモやワケギ、ホウレン草と新たな作物の栽培に挑戦した。すると、みかんと違い栽培期間が短い作物は、現金収入になる日数が早く、意外なところで農家の方々の支持を得ることとなった。
「 売 り 場 の 人 に 聞 く の が 一 番 。立石さんは、いつ何を作ればいいかだけでなく、売り方まで親身になって教えてくれた」
上勝町を変えようと、あきらめない横石さんの姿は自然と応援する人を引き寄せていたのだろう。市場での立石さんとの出会いは、上勝町の転換に大きく拍車をかけた。翌年には、原木しいたけやタラ芽など栽培品目をさらに増やし、寒波からたった3年で、確実に上勝町は回復したのである。こうして大寒波をきっかけに、農業の再編がよい方向に動き出した。そして、気がつけば上勝町の人々との溝は埋まり、信頼関係が築かれていたのだった。
よそ者でありながら、上勝町を人々が誇れる町にしたいと思う気持ちはだれにも負けず、必死で働き続けた横石さん。伝わるまでにだいぶ時間はかかったが、その思いは人々に確実に届いていた。しかし、農業を支える人々の高齢化と少子化の勢いは、とどまることを知らない。いくら作付け転換に成功したとはいえ、町の活気が失われるのを止めることは難しかった。
「着任してからずっと考えていたこと、どうしたら町に活気がでるのか。上勝町に人がとどまり、上勝町に人が集まるようにしなければ。これを、どう実現するかでした。」
そこで横石さんが着目していたのは、女性の活躍である。女性が活躍できる場さえあれば、この町は変わることができると確信していた。
「とにかく女性はおしゃべりが好き。悪口もうわさ話も。そのおしゃべりがいい方向に向くようになればいいなと。自分のことを、家族を、町を自慢するおしゃべりを繰り広げてくれたら。町の一人ひとりが活躍するには、生きる場所を見出せるような仕事をつくるにはどうすればいいのか…。上勝町に来た頃のふるさとを悪く言う人々の姿が忘れられず、だれもが誇れる町にしたいと思っていました。」 つづく