「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:30
2015年4月21日 お仕事◎ キ リ ス ト 教 と の 出 会 い
最初から私は、親の仕送りに頼らず自力で大学を出るつもりだった。だから、大学の掲示板に張り出されるアルバイト募集には、全部、目を通していた。
工場の深夜業(当時は夜勤三交代制もあった)や宛名書きはもちろんのこと、新聞配達に加えて、季節ごとにはデパートの配達にも手を染めたりした。
なかでも、いちばん割のいいアルバイトが家庭教師であった。家庭教師といっても、小・中学生に、まさかインド語を教えることはなかったが、週二、三回通うだけで、安定的な収入になったし、たいていは晩飯つきというのが嬉しかった。
一刻も休まず身体を動かし、絶えず“ 背伸び ”した行動をとろうとする私の性格は、すでにこの頃から身に備わっていったに違いない。
肝心の大阪外語大インド語科の学生としては、私は、背伸びしたところで、語学では決してデキのいい学生ではなかった。私にとっては“ 不本意 ”な二期校であるという意識がしばらく作用していたし、ウルドウ語やヒンディー語にいたっては、怠けてばかりで、徹底して学ぼうという意識が生まれないのであった。むしろ、当時の大学校舎は高槻兵舎跡の木造だったので、壁に穴をあけて隣のアラビア語教室に通う美女を競い合って盗み見たり、たまたまインド語会話担当の教授が高齢で目も耳も悪いのを幸いに、テストになると大っぴらにカンニングをやったりといった“ イカサマ勉学 ”を繰り返していた。そのせいかどうか、私のインド語は、「ナマステ(こんにちは)」
と、教科書の冒頭にある言葉を喋ることができる程度のものである。
けれども、大阪外国大の四年間は、それ以上に得がたいものを、私に与えてくれた。それは、親友に導かれながらキリストに邂逅したことであった。 つづく
最初から私は、親の仕送りに頼らず自力で大学を出るつもりだった。だから、大学の掲示板に張り出されるアルバイト募集には、全部、目を通していた。
工場の深夜業(当時は夜勤三交代制もあった)や宛名書きはもちろんのこと、新聞配達に加えて、季節ごとにはデパートの配達にも手を染めたりした。
なかでも、いちばん割のいいアルバイトが家庭教師であった。家庭教師といっても、小・中学生に、まさかインド語を教えることはなかったが、週二、三回通うだけで、安定的な収入になったし、たいていは晩飯つきというのが嬉しかった。
一刻も休まず身体を動かし、絶えず“ 背伸び ”した行動をとろうとする私の性格は、すでにこの頃から身に備わっていったに違いない。
肝心の大阪外語大インド語科の学生としては、私は、背伸びしたところで、語学では決してデキのいい学生ではなかった。私にとっては“ 不本意 ”な二期校であるという意識がしばらく作用していたし、ウルドウ語やヒンディー語にいたっては、怠けてばかりで、徹底して学ぼうという意識が生まれないのであった。むしろ、当時の大学校舎は高槻兵舎跡の木造だったので、壁に穴をあけて隣のアラビア語教室に通う美女を競い合って盗み見たり、たまたまインド語会話担当の教授が高齢で目も耳も悪いのを幸いに、テストになると大っぴらにカンニングをやったりといった“ イカサマ勉学 ”を繰り返していた。そのせいかどうか、私のインド語は、「ナマステ(こんにちは)」
と、教科書の冒頭にある言葉を喋ることができる程度のものである。
けれども、大阪外国大の四年間は、それ以上に得がたいものを、私に与えてくれた。それは、親友に導かれながらキリストに邂逅したことであった。 つづく
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:31
2015年4月22日 お仕事 生 き る 力 で あ り 喜 び と な っ た “ 賭 け ”
京都出身の私の友人が、あるとき私に身の上話を語りはじめた。彼は、自分の複雑な家庭のこと、先斗町の家業のこと、そして人間いかに生きるべきかという精神的な苦しみの末、キリストの神を教会に見い出し、KGK(キリスト者学生会)で活躍していたが、私は彼の手引きによって、昼食後に行なう毎日の聖書研究会に出席するようになったのである。
当初、その例会のはじめに、まだ信者でもない私のためにメンバー全員が必ず祈ってくたが、それが実にこそばゆい気持ちだったことをよく覚えている。そうした会員の好意に応えるべく、私はコツコツと義理堅く出席を続けた。
そして、捨て切れない自己の“ 我 ”について、人間について、神や哲学について、真面目に考え悩むようになっていた。そんな折り、迷える私を見かねたように、通っていた塚口教会の牧師が、真情を溢らせて語ってくれた。
「人生は賭けである。神に賭けるのか。それとも賭けないのか。神はあるのかないのかといって、プールのまわりをぐるぐる巡っているばかりではだめだ。泳ぎ方は理屈では習えない。まずプールに跳び込んでみよ!」
その言葉によって、私は決断した。
クリスチャンとして洗礼を受けたのは、大学四年生の時だった。
私は、大学で語学こそ身を入れて勉強はしなかったが、インド哲学史によって、東西世界の思想的な接点であるインドの立場を学ぶことができた。そして、目を閉じて“ プール ”に跳び込むことによって、いつの間にか変わっていく自分を具体的に実感できた。これは、私にとって生きる力であり、喜びであり、新たな自分への挑戦でもあった。
私の卒論は、『世界史における現代インドの思想と行動/東西世界をつなぐ思想的・実践的きづなとしての現代インド』という大仰なものではあったが、東西両世界での東洋思想と西欧の宗教を知り、その融合をめざした私の青春の“ 記念碑 ”だったのかも知れない。
私はまた、聖書を読むにしたがって、いろいろなことを考えるようになった。
例えば、「クリスチャンに金庫番をさせとけば安心だ」とよくいわれるが、日本でのクリスチャンにベンチャーを志す実業家が少ないのはなぜだろうかとしばらく考え込むことがある。また、信仰というものは、“ 罪人意識 ”
ばかりが強調されてどこか“ ネクラ ”なるものを感じてしまうが、本来の信仰は“ ネアカ ”で、福音的喜びをもって生き生きとした部分が本流であってしかるべきだと思ったりもした。
“ 兄弟たちよ、あなたが召されたのは実に自由を得るためである ”といわれているように、自由に、自分のもてる能力をフルに活用することも、実は神に祝福されていることなのにちがいない、と確信した。
だから、専門の能力があればその力を発揮すればいいし、実業家の才あるものは、そのタラント(才能)を活かして、十全にその道を歩むことが神に祝福されることにつながっているような気がしてならない。
それも、ベンチャーの一つの証しであるように思えるのである。 つづく
京都出身の私の友人が、あるとき私に身の上話を語りはじめた。彼は、自分の複雑な家庭のこと、先斗町の家業のこと、そして人間いかに生きるべきかという精神的な苦しみの末、キリストの神を教会に見い出し、KGK(キリスト者学生会)で活躍していたが、私は彼の手引きによって、昼食後に行なう毎日の聖書研究会に出席するようになったのである。
当初、その例会のはじめに、まだ信者でもない私のためにメンバー全員が必ず祈ってくたが、それが実にこそばゆい気持ちだったことをよく覚えている。そうした会員の好意に応えるべく、私はコツコツと義理堅く出席を続けた。
そして、捨て切れない自己の“ 我 ”について、人間について、神や哲学について、真面目に考え悩むようになっていた。そんな折り、迷える私を見かねたように、通っていた塚口教会の牧師が、真情を溢らせて語ってくれた。
「人生は賭けである。神に賭けるのか。それとも賭けないのか。神はあるのかないのかといって、プールのまわりをぐるぐる巡っているばかりではだめだ。泳ぎ方は理屈では習えない。まずプールに跳び込んでみよ!」
その言葉によって、私は決断した。
クリスチャンとして洗礼を受けたのは、大学四年生の時だった。
私は、大学で語学こそ身を入れて勉強はしなかったが、インド哲学史によって、東西世界の思想的な接点であるインドの立場を学ぶことができた。そして、目を閉じて“ プール ”に跳び込むことによって、いつの間にか変わっていく自分を具体的に実感できた。これは、私にとって生きる力であり、喜びであり、新たな自分への挑戦でもあった。
私の卒論は、『世界史における現代インドの思想と行動/東西世界をつなぐ思想的・実践的きづなとしての現代インド』という大仰なものではあったが、東西両世界での東洋思想と西欧の宗教を知り、その融合をめざした私の青春の“ 記念碑 ”だったのかも知れない。
私はまた、聖書を読むにしたがって、いろいろなことを考えるようになった。
例えば、「クリスチャンに金庫番をさせとけば安心だ」とよくいわれるが、日本でのクリスチャンにベンチャーを志す実業家が少ないのはなぜだろうかとしばらく考え込むことがある。また、信仰というものは、“ 罪人意識 ”
ばかりが強調されてどこか“ ネクラ ”なるものを感じてしまうが、本来の信仰は“ ネアカ ”で、福音的喜びをもって生き生きとした部分が本流であってしかるべきだと思ったりもした。
“ 兄弟たちよ、あなたが召されたのは実に自由を得るためである ”といわれているように、自由に、自分のもてる能力をフルに活用することも、実は神に祝福されていることなのにちがいない、と確信した。
だから、専門の能力があればその力を発揮すればいいし、実業家の才あるものは、そのタラント(才能)を活かして、十全にその道を歩むことが神に祝福されることにつながっているような気がしてならない。
それも、ベンチャーの一つの証しであるように思えるのである。 つづく
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:32
2015年4月23日 お仕事◎ ベ ン チ ャ ー に は “ 家 族 の 協 力 ” が 不 可 欠
私、四十九歳。妻あり。高校生、中学生の娘あり。通算二十五年のサラリーマン現役選手であった。その私が、
深夜、額に“ 冷や汗 ”を浮かべながら必死になって妻に語りかけていた。
「男として生まれたからには、一度はベンチャーして“ 男子の本懐 ”を!」
「この“ 天の時 ”を逃しては・・・」
「本当の生き甲斐をもって、毎日を悔いなく生き生き生活するために・・・」
「ベンチャーこそ天から与えられた“ わが人生 ”!」
私は、長年のサラリーマン生活から男が“ 脱サラ ”や“ 転職 ”の決意をしようとする時、往々にして妻や家族がその足をひっぱることが少なくないことを知っていた。
数少ない熟年成功者の大先輩が“ ベンチャー成功条件 ”として私に教えてくれたものがある。それは、① 健康、② 人脈、③ 度胸、④ 忍耐、は勿論のこと、それ以外に何より強力な武器は“ 家族の協力 ”だと。実践体験の中でつかみとったこれらの言葉には真実味があった。
(この年になって、いまさら、何を“ 血迷 ”って・・・)
(安定した生活を乱されたくないの)
(夢だ、希望だ、挑戦だといったって、それじゃ食っていけないでしょ)
(私は“ 給料運搬人 ”と結婚したの。そうでなくちゃあ、別れてからにして!)
たいていは、こんな“ 女房族 ”のご託宣で“ 男の決意 ”は萎えてしまう。身内という足もとから、現実という“ 壁 ”にはばまれ、夢さめて再び下積みのサラリーマン生活を繰り返すことになる。男の夢をむしりとられ、希望を剥がされたサラリーマンが、その後どのように落胆して朽ちていったかという先輩や上司の例を、私は嫌というほど知っている。
だから、まずはじめに妻を説得する私の言葉は真剣だった。妻や家族の了解さえとれず、説得もできなくて何がベンチャーだという気持ちもあるにはあったが・・・。
もっとも私の場合、過去にこうした“ 膝詰談判 ”を通して妻を説得した体験が何度かあった。転勤のとき、また十五年勤め上げた証券会社から転職するときなどである。
「また、あなたの“ 背伸び ”がはじまったのね・・・」
結婚して二十年。やはり、妻がいちばんの私の理解者であったようだ。サラリーマン生活のなかで、絶えず“ 背伸び ”をし、自分自身に言い聞かせながら、夢中で驀進してきたことを、妻は言葉に出さなくともよくわかっていた。そして、この年齢になって新たなベンチャーを試み、“ 背伸び ”も構わず跳ぼうとしている私に、黙ってついてくるのだという。喋るのに疲れた私は、思わず目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。
(妻よ、子よ、ありがとう・・・)そんな感謝の気持ちと同時に、よぉーし、愛する妻といとしい子どものためにも、明日からは全身全霊を込めてベンチャーを成功させるんだという意欲が漲りはじめてきた。気力を充実させてベンチャーする気合と気魄・・・それは妻たちに支えられての、私の“ 祈り ”のようなものだったのかも知れない。 つづく
私、四十九歳。妻あり。高校生、中学生の娘あり。通算二十五年のサラリーマン現役選手であった。その私が、
深夜、額に“ 冷や汗 ”を浮かべながら必死になって妻に語りかけていた。
「男として生まれたからには、一度はベンチャーして“ 男子の本懐 ”を!」
「この“ 天の時 ”を逃しては・・・」
「本当の生き甲斐をもって、毎日を悔いなく生き生き生活するために・・・」
「ベンチャーこそ天から与えられた“ わが人生 ”!」
私は、長年のサラリーマン生活から男が“ 脱サラ ”や“ 転職 ”の決意をしようとする時、往々にして妻や家族がその足をひっぱることが少なくないことを知っていた。
数少ない熟年成功者の大先輩が“ ベンチャー成功条件 ”として私に教えてくれたものがある。それは、① 健康、② 人脈、③ 度胸、④ 忍耐、は勿論のこと、それ以外に何より強力な武器は“ 家族の協力 ”だと。実践体験の中でつかみとったこれらの言葉には真実味があった。
(この年になって、いまさら、何を“ 血迷 ”って・・・)
(安定した生活を乱されたくないの)
(夢だ、希望だ、挑戦だといったって、それじゃ食っていけないでしょ)
(私は“ 給料運搬人 ”と結婚したの。そうでなくちゃあ、別れてからにして!)
たいていは、こんな“ 女房族 ”のご託宣で“ 男の決意 ”は萎えてしまう。身内という足もとから、現実という“ 壁 ”にはばまれ、夢さめて再び下積みのサラリーマン生活を繰り返すことになる。男の夢をむしりとられ、希望を剥がされたサラリーマンが、その後どのように落胆して朽ちていったかという先輩や上司の例を、私は嫌というほど知っている。
だから、まずはじめに妻を説得する私の言葉は真剣だった。妻や家族の了解さえとれず、説得もできなくて何がベンチャーだという気持ちもあるにはあったが・・・。
もっとも私の場合、過去にこうした“ 膝詰談判 ”を通して妻を説得した体験が何度かあった。転勤のとき、また十五年勤め上げた証券会社から転職するときなどである。
「また、あなたの“ 背伸び ”がはじまったのね・・・」
結婚して二十年。やはり、妻がいちばんの私の理解者であったようだ。サラリーマン生活のなかで、絶えず“ 背伸び ”をし、自分自身に言い聞かせながら、夢中で驀進してきたことを、妻は言葉に出さなくともよくわかっていた。そして、この年齢になって新たなベンチャーを試み、“ 背伸び ”も構わず跳ぼうとしている私に、黙ってついてくるのだという。喋るのに疲れた私は、思わず目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。
(妻よ、子よ、ありがとう・・・)そんな感謝の気持ちと同時に、よぉーし、愛する妻といとしい子どものためにも、明日からは全身全霊を込めてベンチャーを成功させるんだという意欲が漲りはじめてきた。気力を充実させてベンチャーする気合と気魄・・・それは妻たちに支えられての、私の“ 祈り ”のようなものだったのかも知れない。 つづく
Sports報知:生涯現役「死ぬまで撮りたい」
2015年4月24日 お仕事【2015年4月24日6時0分 スポーツ報知】
ア ラ ー キ ー が
生 涯 現 役 宣 言 「 死 ぬ ま で 撮 り た い 」
「アラーキー」こと写真家の荒木経惟(のぶよし)氏(74)が23日、東京・表参道ヒルズでの写真展「男 アラーキーの裸ノ顔」(24日~5月6日、入場無料)の開催を前に取材会を開いた。
1997年から現在まで撮り続けた男性著名人約200人のポートレート展。ヌードなど女性の写真でも知られるが「男を撮らせたらいちばんうまいのは荒木だな。天からの才能を持っている」と豪快に笑い「男が隠しているものを引っ張り出したい。するとな、彼らは喜ぶんだ」。
2009年に前立腺がんを公表。一昨年には右目を失明し「昨日の検査でも大腸ポリープが2つも見つかっちゃった」と話すなど、満身創痍(そうい)だが「あと7、8年は生きたい。自分の写真に力つけられながら死ぬまで撮りたい」と生涯現役を宣言した。
ア ラ ー キ ー が
生 涯 現 役 宣 言 「 死 ぬ ま で 撮 り た い 」
「アラーキー」こと写真家の荒木経惟(のぶよし)氏(74)が23日、東京・表参道ヒルズでの写真展「男 アラーキーの裸ノ顔」(24日~5月6日、入場無料)の開催を前に取材会を開いた。
1997年から現在まで撮り続けた男性著名人約200人のポートレート展。ヌードなど女性の写真でも知られるが「男を撮らせたらいちばんうまいのは荒木だな。天からの才能を持っている」と豪快に笑い「男が隠しているものを引っ張り出したい。するとな、彼らは喜ぶんだ」。
2009年に前立腺がんを公表。一昨年には右目を失明し「昨日の検査でも大腸ポリープが2つも見つかっちゃった」と話すなど、満身創痍(そうい)だが「あと7、8年は生きたい。自分の写真に力つけられながら死ぬまで撮りたい」と生涯現役を宣言した。
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:33
2015年4月25日 お仕事第3章 ビ ジ ネ ス マ ン は 荒 野 を め ざ せ
◎ 未 知 の 世 界 へ 挑 戦 せ よ !
私がサラリーマンとしてスタートしたのは、昭和三十四年、準大手のN証券会社大阪支店であった。当時は、まだ “ 就職難 ”の時代で、ご多分にもれず、私も銀行や他の証券会社をめぐり歩いて面接を受けたり、とび込みで会社の役員に“ 面接 ”したりして、就職活動に奔走していた。昨今のように、「就職浪人」という言葉があるわけではなし、“ ダメでもともと ”の気概で、正面突破をはかろうとしていたのだ。
しかし、行く先々の会社で断られ、いんぎんに“ お引き取り ”を命じられてしまった。無理に頼んだ一次の筆記試験にはたいてい受かるのだが、二次の面接がなかなかパスできなかった。あとから考えると、どうやら、私という人間の“ PRが下手くそだった ”ことと、大学が国立二期校の経済専門外であったことが、面接試験失敗の原因ではなかったかとも思う。
そんな折りに、私の好きな聖書の句“ 求めよ、さらば与えられん ”にもある“ 窮すれば通ず ”で、うかびあがったのが、郷里の大先輩である当時のN証券会社のH社長である。私の父が若い頃、同社長の父君に世話になっていた関係もある。
その頃の証券界は、ちょうど勃興期にあたり、急成長の勢いと未知数の魅力があった。加えて、株式投資は、資本主義のメッカを形成するものである。“ 東洋のウォール街 ”に飛び込んで、未知の世界を極めながら力いっぱい活動することは、気性のはげしい部分のある私には似合っているような気がした。
思い立ったら吉日と、応募の締切日などわからないまま無頓着に、私はさっそく履歴書を書いて、入社試験の書類を提出。合間に、郷里の後輩ということで、東京までの夜行列車に飛び乗り、社長邸を訪問して、社長夫人によろしくと頼み込んでいた。同社長は私を暖かく迎え、私の祖父が商売センスに優れていたという話や、証券業は今後ますます発展する業界だ、などとこの青二才に熱っぽく語ってくれた。
短兵急な就職作戦が功を奏したのか、あるいは、郷里からの依頼状も力を発揮したのか、こうして私は、同期生六十余と一緒に、N証券株式会社に何とかフレッシュマンとして入社したのである。 つづく
◎ 未 知 の 世 界 へ 挑 戦 せ よ !
私がサラリーマンとしてスタートしたのは、昭和三十四年、準大手のN証券会社大阪支店であった。当時は、まだ “ 就職難 ”の時代で、ご多分にもれず、私も銀行や他の証券会社をめぐり歩いて面接を受けたり、とび込みで会社の役員に“ 面接 ”したりして、就職活動に奔走していた。昨今のように、「就職浪人」という言葉があるわけではなし、“ ダメでもともと ”の気概で、正面突破をはかろうとしていたのだ。
しかし、行く先々の会社で断られ、いんぎんに“ お引き取り ”を命じられてしまった。無理に頼んだ一次の筆記試験にはたいてい受かるのだが、二次の面接がなかなかパスできなかった。あとから考えると、どうやら、私という人間の“ PRが下手くそだった ”ことと、大学が国立二期校の経済専門外であったことが、面接試験失敗の原因ではなかったかとも思う。
そんな折りに、私の好きな聖書の句“ 求めよ、さらば与えられん ”にもある“ 窮すれば通ず ”で、うかびあがったのが、郷里の大先輩である当時のN証券会社のH社長である。私の父が若い頃、同社長の父君に世話になっていた関係もある。
その頃の証券界は、ちょうど勃興期にあたり、急成長の勢いと未知数の魅力があった。加えて、株式投資は、資本主義のメッカを形成するものである。“ 東洋のウォール街 ”に飛び込んで、未知の世界を極めながら力いっぱい活動することは、気性のはげしい部分のある私には似合っているような気がした。
思い立ったら吉日と、応募の締切日などわからないまま無頓着に、私はさっそく履歴書を書いて、入社試験の書類を提出。合間に、郷里の後輩ということで、東京までの夜行列車に飛び乗り、社長邸を訪問して、社長夫人によろしくと頼み込んでいた。同社長は私を暖かく迎え、私の祖父が商売センスに優れていたという話や、証券業は今後ますます発展する業界だ、などとこの青二才に熱っぽく語ってくれた。
短兵急な就職作戦が功を奏したのか、あるいは、郷里からの依頼状も力を発揮したのか、こうして私は、同期生六十余と一緒に、N証券株式会社に何とかフレッシュマンとして入社したのである。 つづく
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:34
2015年4月26日 お仕事 “ は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ”
その当時、同証券会社は、店舗数が全国で三十弱、資本金が五億円位で、社員数およそ七百人程度の規模ではなかったかと思う。
入社が“ 内定 ”すると、三月になって会社から、投資信託業務に進出したので、四月一日の入社日までに投資信託を集めるよう指令があった。今でいう、入社前の実地研修というやつである。
ピカピカのフレッシュマンにふさわしく、私は心身ともに張り切っていた。“ めくら蛇に怖じず ”で、恐いものなしの気もあった。
バカ正直に親類・知人宅を夢中で走り回り、動き回って、私は入社までに、二十万円の投資信託を集めていたのである。昭和三十三、四年の当時は、サラリーマンの平均給料は月額二、三万円ぐらい、入社後の私の初月給ですら一万三千円程度であった。
だから、当時の二十万円は、現在のサラリーマンの標準年収、五、六百万円以上に相当するのであろうか。それを、まだ大学生の若造が、わずか一か月足らずの期間で集めてしまったのである。同期生のなかで、会社の指示通り集めていったのは、自分ぐらいで、他の人たちは、ほんの申し訳程度の集め方であった。
そして、その二十万円のうち、およそ八万円は、私の身内が購入した金額だったが、それが入社後半年ののちに、五千円の基準価格が八千円に値上がりしたのである。
これは、驚きだった。結果を知って、むしろ私のほうが土器も度肝を抜かれてしまったのだ。
いまの投資信託ならば数年かけても値上がりできない額を、ほんのわずかの期間で稼ぎ出してしまったのだ。
周囲からは感謝されるし、上司からは褒められるしで、私は有頂天になっていた。
「 は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ! 」
この諺を、実社会入りの最初に、身体で知ることができたのは、私くらいであったろうか。
未知の世界を怖れず、積極果敢に挑戦することによって、幸先のよい“ 幸運の女神 ”を自分の手元に呼び込むことができるのだ。私がサラリーマンになって、最初に学びとったのが、このことだった。
未だ知らない世界を恐れることはない。むしろ知らないことによって、自ら厳しく勉強して学び、がむしゃらな行動と実践によって、自ずから道が拓けるというものである。
だからこそ、ベンチャー・チャンスは、サラリーマンにとって、その掌中にひそかに隠されていると思うのである。 つづく
その当時、同証券会社は、店舗数が全国で三十弱、資本金が五億円位で、社員数およそ七百人程度の規模ではなかったかと思う。
入社が“ 内定 ”すると、三月になって会社から、投資信託業務に進出したので、四月一日の入社日までに投資信託を集めるよう指令があった。今でいう、入社前の実地研修というやつである。
ピカピカのフレッシュマンにふさわしく、私は心身ともに張り切っていた。“ めくら蛇に怖じず ”で、恐いものなしの気もあった。
バカ正直に親類・知人宅を夢中で走り回り、動き回って、私は入社までに、二十万円の投資信託を集めていたのである。昭和三十三、四年の当時は、サラリーマンの平均給料は月額二、三万円ぐらい、入社後の私の初月給ですら一万三千円程度であった。
だから、当時の二十万円は、現在のサラリーマンの標準年収、五、六百万円以上に相当するのであろうか。それを、まだ大学生の若造が、わずか一か月足らずの期間で集めてしまったのである。同期生のなかで、会社の指示通り集めていったのは、自分ぐらいで、他の人たちは、ほんの申し訳程度の集め方であった。
そして、その二十万円のうち、およそ八万円は、私の身内が購入した金額だったが、それが入社後半年ののちに、五千円の基準価格が八千円に値上がりしたのである。
これは、驚きだった。結果を知って、むしろ私のほうが土器も度肝を抜かれてしまったのだ。
いまの投資信託ならば数年かけても値上がりできない額を、ほんのわずかの期間で稼ぎ出してしまったのだ。
周囲からは感謝されるし、上司からは褒められるしで、私は有頂天になっていた。
「 は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ! 」
この諺を、実社会入りの最初に、身体で知ることができたのは、私くらいであったろうか。
未知の世界を怖れず、積極果敢に挑戦することによって、幸先のよい“ 幸運の女神 ”を自分の手元に呼び込むことができるのだ。私がサラリーマンになって、最初に学びとったのが、このことだった。
未だ知らない世界を恐れることはない。むしろ知らないことによって、自ら厳しく勉強して学び、がむしゃらな行動と実践によって、自ずから道が拓けるというものである。
だからこそ、ベンチャー・チャンスは、サラリーマンにとって、その掌中にひそかに隠されていると思うのである。 つづく
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:35
2015年4月27日 お仕事◎ 人 生 の 達 人 か ら 積 極 的 に 学 べ
証券マンとして、新入社員の私が配属されたのは、最初から法人課であった。そこで、社債発行法人への引き受けシェアの交渉のほか、元利金払い指定などのセールス、さらに新規公開幹事参加セースルなどに、積極的に関わっていったのである。
何もかも、目新しく、新しい体験ばかりだった。毎日、人と会い、人の話を聞き、情報を提供し合うのが、証券営業マンの務めである。
連日、めまぐるしく人と接しながら、入社当時は、社内の同僚や上司よりも、むしろ社外の顧客から実体験に基づいた証券投資のイロハを教え込まれるほうが多かった。
私の場合、電話のかけかた一つとっても、外部の客を通じて訓練されたようなものだ。
私の顧客は、大部分が会社の役員クラスであり、自分の資産をフルに活用しようという事業家、経営者であり、商人たちであった。したがって、冗漫な電話や曖昧な会話は許されなかった。無駄のない、しかもスピーディで的確な情報を伝えることが最優先された。加えて、電話による最初と最後の挨拶には、不快感があってはならぬ。そして、なお、短い電話のやりとりのなかに、自分を印象づけ、自分のセールスマンとしての存在を相手にはっきりと覚えてもらわなければならない。
電話一つにも神経を使い、その一刻一刻も真剣であった。
入社後十何年にわたって、朝いちばんの“ 日課 ”が、顧客へ電話することだった。毎朝、規則的に“ 定期便 ”の電話を入れて、顧客の手持ち株の推移を報告し、併せて注目銘柄を伝えておくことは、もう私の習慣となっていた。
こんな社外の顧客とのふれあいを通して、私は営業マンやセールスマンとして“ 可愛がられるコツ ”といったものが自然と理解できるようになったような気がする。
客に可愛がられ、顧客に励まされる証券マンというものは、その人のために“ 骨身 ”を惜しまず努力するものである。顧客の利益と満足のために尽くす努力は電話一本、応対一つにしろ、それをバネに、やがて“ 実力 ” 証券マンに結びつくものなのである。 つづく
証券マンとして、新入社員の私が配属されたのは、最初から法人課であった。そこで、社債発行法人への引き受けシェアの交渉のほか、元利金払い指定などのセールス、さらに新規公開幹事参加セースルなどに、積極的に関わっていったのである。
何もかも、目新しく、新しい体験ばかりだった。毎日、人と会い、人の話を聞き、情報を提供し合うのが、証券営業マンの務めである。
連日、めまぐるしく人と接しながら、入社当時は、社内の同僚や上司よりも、むしろ社外の顧客から実体験に基づいた証券投資のイロハを教え込まれるほうが多かった。
私の場合、電話のかけかた一つとっても、外部の客を通じて訓練されたようなものだ。
私の顧客は、大部分が会社の役員クラスであり、自分の資産をフルに活用しようという事業家、経営者であり、商人たちであった。したがって、冗漫な電話や曖昧な会話は許されなかった。無駄のない、しかもスピーディで的確な情報を伝えることが最優先された。加えて、電話による最初と最後の挨拶には、不快感があってはならぬ。そして、なお、短い電話のやりとりのなかに、自分を印象づけ、自分のセールスマンとしての存在を相手にはっきりと覚えてもらわなければならない。
電話一つにも神経を使い、その一刻一刻も真剣であった。
入社後十何年にわたって、朝いちばんの“ 日課 ”が、顧客へ電話することだった。毎朝、規則的に“ 定期便 ”の電話を入れて、顧客の手持ち株の推移を報告し、併せて注目銘柄を伝えておくことは、もう私の習慣となっていた。
こんな社外の顧客とのふれあいを通して、私は営業マンやセールスマンとして“ 可愛がられるコツ ”といったものが自然と理解できるようになったような気がする。
客に可愛がられ、顧客に励まされる証券マンというものは、その人のために“ 骨身 ”を惜しまず努力するものである。顧客の利益と満足のために尽くす努力は電話一本、応対一つにしろ、それをバネに、やがて“ 実力 ” 証券マンに結びつくものなのである。 つづく
「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:36
2015年4月28日 お仕事“ わ れ 以 外 み な 師 な り ”
もうひとつ、私が選んだ証券市場の世界は、まさに“ 人生の縮図 ”であり、“ 人生の道場 ”面目躍如たるものがあった。証券市場のアップとダウンを舞台に演じられる喜怒哀楽の種々な人生は、すべてが貴重な参考となった。株式市場で“ 高くなれば買い、安くなれば売る”という周章狼狽する顧客は、注意すべき反面教師だったし、必ず儲ける顧客と損する人とのちがいを、さまざまな取引態度から実地に教えられたものである。
また、事業法人担当のセールスマンとして、いろいろなタイプの経営者から、その実力ぶりを直かに学ぶこともできた。とくに、入社初期に出会ったナニワ商人の王道をいく経営者の姿には、今でも鮮やかな印象が脳裡に残っている。
その顧客は、五十歳代半ばで、実に金儲けの上手な人だった。人生の成功を資産や地位の大小ではかるのではなく、人生で何が大事なものかを教えてくれる、いわゆるまともな生き方に徹して、常に堂々としていた。株式投資の際には、決して周囲に影響されずに、自分の目や耳を信じ、自己の信念に従って投資に力を発揮していた。なによりも、権威に頼らぬベンチャー精神の旺盛さに、私は心あこがれたものである。
有能な投資家に限って、その投資態度から、知らず知らずに証券セールスマンを指導してくれるものである。また、こちらの失敗や落ち込みのときでも、厳しい中にもやさしい言葉を忘れずに、暖かく励ましてくれる投資家であった。こうした外部の“ 達人 ”から逐一、学ばないという法はない。むしろ、社内だけでなく、社外にどれほど多くの“ 達人 ”や“ 先達 ”をもつことができるかが、証券マンやサラリーマンの本物になるかどうかの分かれ目であるような気がする。
私のとび込んだ証券界は、他人のお金で証券投資の醍醐味を体験できる“ 役得 ”もある。
いわば、他人の懐を利用して、貴重な人生のトレーニングを積むことができる場だ。
その人生の“ 修羅場 ”を十分に活かすためには、一にも二にも顧客を知り、顧客の人生体験から学び続けることなのである。
私がいま指導している証券マンには、これから大きく伸びる顧客をどう見つけられる、儲ける顧客をネットワークにどう紹介客を増やしていくか、顧客との共存共栄方針によるセールス・プロモートを心がけている。
「あの客が買えば、相場が必ずあがる!」
証券セールスマンとして、それが見分けられるようになるためには、やはり、顧客との人間的なふれあいを通じて、個々に、身をもって学びとる以外に方法はないようだ。
“ わ れ 以 外 み な 師 な り ”の精神で、いつでも学ぼうという柔軟な姿勢こそ、ベンチャー心得の第一条といえるような気がする。 つづく
もうひとつ、私が選んだ証券市場の世界は、まさに“ 人生の縮図 ”であり、“ 人生の道場 ”面目躍如たるものがあった。証券市場のアップとダウンを舞台に演じられる喜怒哀楽の種々な人生は、すべてが貴重な参考となった。株式市場で“ 高くなれば買い、安くなれば売る”という周章狼狽する顧客は、注意すべき反面教師だったし、必ず儲ける顧客と損する人とのちがいを、さまざまな取引態度から実地に教えられたものである。
また、事業法人担当のセールスマンとして、いろいろなタイプの経営者から、その実力ぶりを直かに学ぶこともできた。とくに、入社初期に出会ったナニワ商人の王道をいく経営者の姿には、今でも鮮やかな印象が脳裡に残っている。
その顧客は、五十歳代半ばで、実に金儲けの上手な人だった。人生の成功を資産や地位の大小ではかるのではなく、人生で何が大事なものかを教えてくれる、いわゆるまともな生き方に徹して、常に堂々としていた。株式投資の際には、決して周囲に影響されずに、自分の目や耳を信じ、自己の信念に従って投資に力を発揮していた。なによりも、権威に頼らぬベンチャー精神の旺盛さに、私は心あこがれたものである。
有能な投資家に限って、その投資態度から、知らず知らずに証券セールスマンを指導してくれるものである。また、こちらの失敗や落ち込みのときでも、厳しい中にもやさしい言葉を忘れずに、暖かく励ましてくれる投資家であった。こうした外部の“ 達人 ”から逐一、学ばないという法はない。むしろ、社内だけでなく、社外にどれほど多くの“ 達人 ”や“ 先達 ”をもつことができるかが、証券マンやサラリーマンの本物になるかどうかの分かれ目であるような気がする。
私のとび込んだ証券界は、他人のお金で証券投資の醍醐味を体験できる“ 役得 ”もある。
いわば、他人の懐を利用して、貴重な人生のトレーニングを積むことができる場だ。
その人生の“ 修羅場 ”を十分に活かすためには、一にも二にも顧客を知り、顧客の人生体験から学び続けることなのである。
私がいま指導している証券マンには、これから大きく伸びる顧客をどう見つけられる、儲ける顧客をネットワークにどう紹介客を増やしていくか、顧客との共存共栄方針によるセールス・プロモートを心がけている。
「あの客が買えば、相場が必ずあがる!」
証券セールスマンとして、それが見分けられるようになるためには、やはり、顧客との人間的なふれあいを通じて、個々に、身をもって学びとる以外に方法はないようだ。
“ わ れ 以 外 み な 師 な り ”の精神で、いつでも学ぼうという柔軟な姿勢こそ、ベンチャー心得の第一条といえるような気がする。 つづく
NPO ライフ・ベンチャー・クラブ会報115号
2015年4月29日 お仕事N P O 法 人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ
ホ ッ ト ラ イ ン ニ ュ ー ス
事 務 局 報 告 第 115 号 2015年 4月29日 発行
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ホ ッ ト ラ イ ン ニ ュ ー ス
事 務 局 報 告 第 115 号 2015年 4月29日 発行
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「日本生涯現役推進協議会」:会報 135号
2015年4月30日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会
ヘ ッ ド ラ イ ン ニ ュ ー ス
事務局報告 第135号 2015年 4月30日発行
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◎ 2 0 1 5 / 4 / 1 ~ 2 0 1 5 / 4 / 30 の当Blog「掲載テーマ一覧表」
日 付 タイトル
2015年4月30日 「日本生涯現役推進協議会」:会報 135号
2015年4月29日 NPO ライフ・ベンチャー・クラブ会報115号
2015年4月28日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:36
2015年4月27日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:35
2015年4月26日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:34
2015年4月25日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:33
2015年4月24日 Sports報知:生涯現役「死ぬまで撮りたい」
2015年4月23日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:32
2015年4月22日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:31
2015年4月21日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:30
2015年4月20日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:29
2015年4月19日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:28
2015年4月18日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:27
2015年4月17日 日本人事部Net/シニア就労応援情報
2015年4月16日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:26
2015年4月15日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:25
2015年4月14日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:24
2015年4月13日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:23
2015年4月12日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:22
2015年4月11日 生涯現役社会実現への課題:労働調協5
2015年4月10日 生涯現役社会実現への課題:労働調協4
2015年4月 9日 生涯現役社会実現への課題:労働調協3
2015年4月 8日 生涯現役社会実現への課題:労働調協2
2015年4月 7日 生涯現役社会実現への課題:労働調協1
2015年4月 6日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:21
2015年4月 5日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:20
2015年4月 4日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:19
2015年4月 3日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:18
2015年4月 2日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:17
2015年4月 1日 4/13(月)「第352回生涯現役塾」開催案内 以上
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事務局報告 第135号 2015年 4月30日発行
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2015年4月 4日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:19
2015年4月 3日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:18
2015年4月 2日 「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:17
2015年4月 1日 4/13(月)「第352回生涯現役塾」開催案内 以上
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