◎ “ マ ラ ソ ン 人 生 ” へ の 挑 戦
 
どちらかといえば、私は“ 長距離型 ”ランナーであったような気がする。

大学時代の学部対抗駅伝に出場して、区間賞を獲得したこともあるが、一気に、ゴールになだれ込む、短距離競
走よりも、マラソンのほうが得意であった。長時間かけてベース配分を守り、体力を持続させて、自分のがんばりを十二分に発揮することができるからである。

  大学を卒業するまでの私も、“ マラソン型 ”の歩みに近かったようだ。

  私は船長になりたいという“ 少年の夢 ”にも拘らず、中学・高校へ進むうちに、いつの間にか重傷を負った父と同じ商売は嫌だという思いにとらわれるようになっていた。私の“ 静かなる反抗期 ”であり、父の商売の苦労を半面教師と見立てはじめていたのかもしれないが、大学を出てサラリーマンになるんだという、平凡を求める道を踏み出していた。

  地元の高校を卒業すると、電気技士にでもなるつもりで神戸大学の工学部を受けた。滑り止めとして大阪府立大も受験したが、両方ともみごと失敗してしまった。

  島の高校でのんびり過ごしてきた私には、何より学力が不足していたし、神戸大の最初の数学の試験に遅刻するというハプニングに見舞われてしまったのだ。加えて、試験場では、緊張のあまりか、気が動転してしまう癖が私にはあったから、たまったものではない。無惨なものだった。

  私の不合格を両親に伝えると、父は世間体を気にしてか、ガックリと寂しそうな顔をしたが、母はそんな素ぶりを微塵もみせずに、かえって慰めてくれた。
「お前、何も大学にしがみつかなくたって、店員や“ 店番 ”になったっていいんだよ・・・」

  母の言葉を聞いて、私は救われた思いだった。一度は大学受験をあきらめて、実習で電気技士を志し、一時神戸の湊川のラジオ商店の店番をしたこともある。しかし、父や兄の強いすすめもあって、再度、大学受験目指して、一年間浪人生として神戸のYMCAに通った。     つづく