◎ 人 や 社 会 に 尽 く す 心 の 大 切 さ

  父からは人生の厳しさとベンチャー気質を直かに学んだとすれば、私は母からは、やさしさと慈しみ、そして他者を思いやる気持ちとを、その生活のなかから学び取ったような気がする。

  これも、ベンチャー精神に不可欠必要のことがらだと思えてならないのである。

  私の母は、明治三十三年生まれで、今年八十八歳だが、健在である。

  母は、いってみれば“ 昔風 ”で“ 古風 ”な教育を受けて育った部類の人間である。父には忠実にかしづき、奉仕の精神を旨として、毎日を言葉少なに生きてきた。父の船出中の留守を預かり、七人の子どもの世話を何くれとなく果たした上、春には段々畑に腰をかがめて麦を刈り取り、秋にはイモを収穫しては、ふかして子どもたちに与えてくれていた。

  勤勉で剛直な父と、“ 明治の女 ”の良質な部分を備えた母は、今から考えれば、お互いに補い合って仕事に当たった似合いの夫婦であったのかも知れない。

  私は、この母から、まともに叱られたという記憶は、一度たりともなかった。いつも、慈愛にみちた母の瞳に守られて育ったような思いがする。厳しい父から怒鳴られたり、頭を叩かれたりした思い出はいくつでもある。夕暮れまで遊び過ぎていて、家の鶏に餌をやることを忘れていたからといって、父からは何度も私は叱られ続けた。“ 晩飯抜き ”が、常に私への罰である。そんな時でも、母は必ず、父にはわからないようにこっそりと、私に夕飯をもってきてくれた。また、飼っていた牛の“ 飼葉 ”を切り忘れたといっては、父の怒りに触れ、私が牛小屋に投げ込まれそうになったときに、仁王立ちになって身体を張り止めたのは、ほかならぬ母だった。

  母は、寡黙ではあったが、しかし、人に対して決して小言はいわず、反対に他人の長所を心から誉めることに生き甲斐と喜びをもっていたようだ。自分の子どもたちに対しても、その子のもっている潜在能力を巧みにひき出し、いつの間にか自信を与える術とコツを、母は何気ない言葉と動作でいつも実証してくれていた。

  私に対しても、
「お前は、本気でやれば何でもできる子なんだ」
「お前は本当に手がかからず、何でもよくやってくれるよ・・・」
と、いつ、どんなときでも励まし続けてくれる母だった。    つづく