第3章   ビ ジ ネ ス マ ン は 荒 野 を め ざ せ         
◎  未 知 の 世 界 へ 挑 戦 せ よ !

  私がサラリーマンとしてスタートしたのは、昭和三十四年、準大手のN証券会社大阪支店であった。当時は、まだ “ 就職難 ”の時代で、ご多分にもれず、私も銀行や他の証券会社をめぐり歩いて面接を受けたり、とび込みで会社の役員に“ 面接 ”したりして、就職活動に奔走していた。昨今のように、「就職浪人」という言葉があるわけではなし、“ ダメでもともと ”の気概で、正面突破をはかろうとしていたのだ。
  
  しかし、行く先々の会社で断られ、いんぎんに“ お引き取り ”を命じられてしまった。無理に頼んだ一次の筆記試験にはたいてい受かるのだが、二次の面接がなかなかパスできなかった。あとから考えると、どうやら、私という人間の“ PRが下手くそだった ”ことと、大学が国立二期校の経済専門外であったことが、面接試験失敗の原因ではなかったかとも思う。

  そんな折りに、私の好きな聖書の句“ 求めよ、さらば与えられん ”にもある“ 窮すれば通ず ”で、うかびあがったのが、郷里の大先輩である当時のN証券会社のH社長である。私の父が若い頃、同社長の父君に世話になっていた関係もある。

  その頃の証券界は、ちょうど勃興期にあたり、急成長の勢いと未知数の魅力があった。加えて、株式投資は、資本主義のメッカを形成するものである。“ 東洋のウォール街 ”に飛び込んで、未知の世界を極めながら力いっぱい活動することは、気性のはげしい部分のある私には似合っているような気がした。

  思い立ったら吉日と、応募の締切日などわからないまま無頓着に、私はさっそく履歴書を書いて、入社試験の書類を提出。合間に、郷里の後輩ということで、東京までの夜行列車に飛び乗り、社長邸を訪問して、社長夫人によろしくと頼み込んでいた。同社長は私を暖かく迎え、私の祖父が商売センスに優れていたという話や、証券業は今後ますます発展する業界だ、などとこの青二才に熱っぽく語ってくれた。

  短兵急な就職作戦が功を奏したのか、あるいは、郷里からの依頼状も力を発揮したのか、こうして私は、同期生六十余と一緒に、N証券株式会社に何とかフレッシュマンとして入社したのである。  つづく