“ 海 の 男 ” ・父 が 教 え た  “ 厳 し さ ”

  私の父は、昭和三十五年、六十八歳で生涯を閉じたが、子どもの頃を思い浮かべると、きまって思い出すのは、赤銅色に陽焼けした逞しい父。精悍な顔と、筋骨隆々たる父の腕、そして二本マストに帆を満たして走る “ 千鶴丸(ちかくまる) ” という船である。

  北米航路の船員から、一転して小型機帆船オーナーとなって活躍した父は、常々、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺を座右の銘にしていた。雇われ船長よりも小型船オーナーの道を選んだのも、その一つの実践だったのにちがいない。そうした父の生きざまから、私は子ども心にもベンチャー精神の内実を感じていたような気がする。

  私の少年時代は、瀬戸内海の波に輝く船とともにあった。今から思えば、ちっぽけな古風な船一隻に過ぎないが、当時は、その船に乗せてもらって海上を往復することが、無上の喜びだった。凪いだ日など、父は船上でいろいろな話をしてくれた。瀬戸内海のかっての海賊の話、昔の壇ノ浦の戦いで那須余市が扇の的を射た話など、謡うような調子で語ってくれたものである。

  父は、よく本を読む習慣があったので、歴史話に詳しく、とりわけ幕末・明治維新の偉人伝、英雄伝が得意だった。話に詰まると、きまってナポレオンや乃木総将軍、西郷どんなどが登場して、船の操舵室を舞台に大活躍するのだった。

  そして、「男と生まれた以上、自分の思うとおりのことをやって生きよ。そして、世の中の役に立つ人間になること!」との人生訓話を垂れることが好きだった。

  後年、父は積荷の重油缶をもろに脚に落として重傷を負い、半年も満足に歩けず、やがて陸に上がったが、それまでの父は、“ 剛毅 ” を絵に描いたような人生ではなかったかと思う。

  “ 板子一枚下は地獄 ” といわれる海の生活もさることながら、海運業というある意味で自然の「運まかせ」、そして「投機」そのものの商売をやりおおせたことなど、そこに海の男の “ ベンチャー魂 ” が感じられてならない。

  陸に上がってからの父は、村の総代をやったり、まだ村にラジオがない頃、まっ先に購入して村民にラジオを聞かせたり(私はこのラジオを通して敗戦時の “ 玉音放送 ”を聞いたが)していたが、海で鍛えた剛直な精神と眼光鋭い面構えだけは晩年まで変わらなかった。

  そんな父からの “ 血 ”と感化を受けて、少年時代の私は、島の段々畑から目の前をゆっくりと通り過ぎる別府航路の大型船を見やりながら、子ども心に、外航船の高級船員か船長になることを夢見たものだった。それには、小規模の農・漁業だけに頼れず、国の内外航路の船員を志願する先輩・友人たちの影響と小豆島の現実が重くのしかかっていたように思うが・・・。

  けれども、同時にそこには、・・・何ものかに常に挑戦し、絶えず自分を乗り越えようとするベンチャー気質といったものが、まだまだ青く堅い種子のままだが、確実に芽生えていたような気がする。オリーヴの風薫る小豆島の自然と風土、そして父の “ 厳しさ ” から、私は幼くして “ ベンチャーの心 ” を学んでいたような気がする。  つづく