「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:34
2015年4月26日 お仕事 “ は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ”
その当時、同証券会社は、店舗数が全国で三十弱、資本金が五億円位で、社員数およそ七百人程度の規模ではなかったかと思う。
入社が“ 内定 ”すると、三月になって会社から、投資信託業務に進出したので、四月一日の入社日までに投資信託を集めるよう指令があった。今でいう、入社前の実地研修というやつである。
ピカピカのフレッシュマンにふさわしく、私は心身ともに張り切っていた。“ めくら蛇に怖じず ”で、恐いものなしの気もあった。
バカ正直に親類・知人宅を夢中で走り回り、動き回って、私は入社までに、二十万円の投資信託を集めていたのである。昭和三十三、四年の当時は、サラリーマンの平均給料は月額二、三万円ぐらい、入社後の私の初月給ですら一万三千円程度であった。
だから、当時の二十万円は、現在のサラリーマンの標準年収、五、六百万円以上に相当するのであろうか。それを、まだ大学生の若造が、わずか一か月足らずの期間で集めてしまったのである。同期生のなかで、会社の指示通り集めていったのは、自分ぐらいで、他の人たちは、ほんの申し訳程度の集め方であった。
そして、その二十万円のうち、およそ八万円は、私の身内が購入した金額だったが、それが入社後半年ののちに、五千円の基準価格が八千円に値上がりしたのである。
これは、驚きだった。結果を知って、むしろ私のほうが土器も度肝を抜かれてしまったのだ。
いまの投資信託ならば数年かけても値上がりできない額を、ほんのわずかの期間で稼ぎ出してしまったのだ。
周囲からは感謝されるし、上司からは褒められるしで、私は有頂天になっていた。
「 は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ! 」
この諺を、実社会入りの最初に、身体で知ることができたのは、私くらいであったろうか。
未知の世界を怖れず、積極果敢に挑戦することによって、幸先のよい“ 幸運の女神 ”を自分の手元に呼び込むことができるのだ。私がサラリーマンになって、最初に学びとったのが、このことだった。
未だ知らない世界を恐れることはない。むしろ知らないことによって、自ら厳しく勉強して学び、がむしゃらな行動と実践によって、自ずから道が拓けるというものである。
だからこそ、ベンチャー・チャンスは、サラリーマンにとって、その掌中にひそかに隠されていると思うのである。 つづく
その当時、同証券会社は、店舗数が全国で三十弱、資本金が五億円位で、社員数およそ七百人程度の規模ではなかったかと思う。
入社が“ 内定 ”すると、三月になって会社から、投資信託業務に進出したので、四月一日の入社日までに投資信託を集めるよう指令があった。今でいう、入社前の実地研修というやつである。
ピカピカのフレッシュマンにふさわしく、私は心身ともに張り切っていた。“ めくら蛇に怖じず ”で、恐いものなしの気もあった。
バカ正直に親類・知人宅を夢中で走り回り、動き回って、私は入社までに、二十万円の投資信託を集めていたのである。昭和三十三、四年の当時は、サラリーマンの平均給料は月額二、三万円ぐらい、入社後の私の初月給ですら一万三千円程度であった。
だから、当時の二十万円は、現在のサラリーマンの標準年収、五、六百万円以上に相当するのであろうか。それを、まだ大学生の若造が、わずか一か月足らずの期間で集めてしまったのである。同期生のなかで、会社の指示通り集めていったのは、自分ぐらいで、他の人たちは、ほんの申し訳程度の集め方であった。
そして、その二十万円のうち、およそ八万円は、私の身内が購入した金額だったが、それが入社後半年ののちに、五千円の基準価格が八千円に値上がりしたのである。
これは、驚きだった。結果を知って、むしろ私のほうが土器も度肝を抜かれてしまったのだ。
いまの投資信託ならば数年かけても値上がりできない額を、ほんのわずかの期間で稼ぎ出してしまったのだ。
周囲からは感謝されるし、上司からは褒められるしで、私は有頂天になっていた。
「 は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ! 」
この諺を、実社会入りの最初に、身体で知ることができたのは、私くらいであったろうか。
未知の世界を怖れず、積極果敢に挑戦することによって、幸先のよい“ 幸運の女神 ”を自分の手元に呼び込むことができるのだ。私がサラリーマンになって、最初に学びとったのが、このことだった。
未だ知らない世界を恐れることはない。むしろ知らないことによって、自ら厳しく勉強して学び、がむしゃらな行動と実践によって、自ずから道が拓けるというものである。
だからこそ、ベンチャー・チャンスは、サラリーマンにとって、その掌中にひそかに隠されていると思うのである。 つづく