生 き る 力 で あ り 喜 び と な っ た “ 賭 け ”

  京都出身の私の友人が、あるとき私に身の上話を語りはじめた。彼は、自分の複雑な家庭のこと、先斗町の家業のこと、そして人間いかに生きるべきかという精神的な苦しみの末、キリストの神を教会に見い出し、KGK(キリスト者学生会)で活躍していたが、私は彼の手引きによって、昼食後に行なう毎日の聖書研究会に出席するようになったのである。

  当初、その例会のはじめに、まだ信者でもない私のためにメンバー全員が必ず祈ってくたが、それが実にこそばゆい気持ちだったことをよく覚えている。そうした会員の好意に応えるべく、私はコツコツと義理堅く出席を続けた。

  そして、捨て切れない自己の“ 我 ”について、人間について、神や哲学について、真面目に考え悩むようになっていた。そんな折り、迷える私を見かねたように、通っていた塚口教会の牧師が、真情を溢らせて語ってくれた。

「人生は賭けである。神に賭けるのか。それとも賭けないのか。神はあるのかないのかといって、プールのまわりをぐるぐる巡っているばかりではだめだ。泳ぎ方は理屈では習えない。まずプールに跳び込んでみよ!」

その言葉によって、私は決断した。

クリスチャンとして洗礼を受けたのは、大学四年生の時だった。

私は、大学で語学こそ身を入れて勉強はしなかったが、インド哲学史によって、東西世界の思想的な接点であるインドの立場を学ぶことができた。そして、目を閉じて“ プール ”に跳び込むことによって、いつの間にか変わっていく自分を具体的に実感できた。これは、私にとって生きる力であり、喜びであり、新たな自分への挑戦でもあった。

私の卒論は、『世界史における現代インドの思想と行動/東西世界をつなぐ思想的・実践的きづなとしての現代インド』という大仰なものではあったが、東西両世界での東洋思想と西欧の宗教を知り、その融合をめざした私の青春の“ 記念碑 ”だったのかも知れない。

私はまた、聖書を読むにしたがって、いろいろなことを考えるようになった。

例えば、「クリスチャンに金庫番をさせとけば安心だ」とよくいわれるが、日本でのクリスチャンにベンチャーを志す実業家が少ないのはなぜだろうかとしばらく考え込むことがある。また、信仰というものは、“ 罪人意識 ”
ばかりが強調されてどこか“ ネクラ ”なるものを感じてしまうが、本来の信仰は“ ネアカ ”で、福音的喜びをもって生き生きとした部分が本流であってしかるべきだと思ったりもした。

  “ 兄弟たちよ、あなたが召されたのは実に自由を得るためである ”といわれているように、自由に、自分のもてる能力をフルに活用することも、実は神に祝福されていることなのにちがいない、と確信した。

  だから、専門の能力があればその力を発揮すればいいし、実業家の才あるものは、そのタラント(才能)を活かして、十全にその道を歩むことが神に祝福されることにつながっているような気がしてならない。

  それも、ベンチャーの一つの証しであるように思えるのである。    つづく