私が尊敬する人生の大先達、情勢判断学・脳力開発提唱者/故城野 宏師。その師に今を去る33年前の1982年(昭和57年)当時、47歳のわが人生で出会えたチャンスがなければ、いまのわが身はとても『生涯現役社会づくり』などという、先の見えない人生戦略を決断し、猪突猛進的蛮勇への変身はしなかったに違いない。

 そのご本尊・故城野 宏師のご経歴は、頂戴した城野利江夫人の非売ご出版本『在りし日の城野 宏』掲載年表から転載させていただくと、大略以下のご紹介になる。1913年(大正2年)8月31日長崎県西山町出生、長崎師範付属小学校から東京府立第四中学(現都立外山高校)、名古屋八高履歴、1938年(昭和13年)東京帝大法学部政治学科卒業の超秀才だった。

 1935年(昭和10年)当時の旧制東大史を通じ中国語を学んだ最初の学生といわれ、大学2年次に中国に興味を抱いて中国語を履修。卒業と同時に野村合名会社調査部へ唯1名の新入社員として入社半年後徴兵により、東京第1師団歩兵第1連隊所属で中国に派兵された。

 1941年(昭和16年)陸軍中尉に昇進、第1軍参謀部に転進、山西産業の河本大作と出会う。山西省政府顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管したが、1945年(昭和20年)第二次世界大戦終結。戦後『祖国復興・山西独立』をスローガンに、同地の資源確保のため閻錫山・山西野戦軍(約6万人・5個師団)を指揮、日本軍の残留部隊(約1万5千人・1個師団)とともに毛沢東の中国人民解放軍と交戦。

 1949年(昭和24年)米ヘラルドトリビューン紙シモンズ記者の山西省郡都の太原訪問で、閻錫山との会見が米国ライフ誌に掲載。日本で読売新聞が翻訳記事を掲載。同年4月の太原陥落で、中国人民解放軍捕虜となり、特別軍事法廷で禁固18年の判決。太原・北京・太原・撫順と15年間監獄生活収監中も中国語による三国志講談など、多忙な牢名主経験後に、1964年(昭和39年)4月最後の中国3戦犯として、51歳で帰国。

 1969年(昭和44年)城野経済研究所発足で情勢判断学・脳力開発を提唱。日本トップ企業団長として経済使節団を率い4度アラブ諸国歴訪。当時エジプトのサダト大統領など各国首脳と会談、日本アラブ協会理事長として親善・経済発展に尽力。当時ユーゴスラビアのチトー大統領との親交等両国経済発展に寄与。(財)日本教育文化協会理事長、産業新潮社会長就任。

 1975年(昭和50年)(財)スポーツ会館理事長就任。1980年(昭和55年)米国第5空軍佐官に演題「3つのシークレッツ」講演。1984年(昭和59年)日本工業倶楽部で「人間学シリーズ」講演会開始。その後「三国志の人間学」「古今東西人間学」「戦略の人間学」書籍・テープで発刊。

 1985年(昭和60年)(財)スポーツ会館会長就任。同年12月21日逝去。享年72歳。同年春には情勢判断学会東京本部が主催した、長篠設楽原古戦場(織田・徳川連合軍と武田勝頼軍の有名な合戦場)での現地見学会で、城野師から得難い実戦解説を参加者一同拝聴できた年でもあった。

 しかも同年5月、私の処女出版『ライフ・ベンチャーのすすめ/チャンスをつかみとる “ 人生三段跳び ” 戦略』(KKベストブック)に、はからずも城野師が関わられたご生涯最後のご推薦をわが幼稚な著書に頂戴できたのも、奇しきご縁と心から感謝している次第である。  つづく