1960年代日本技術年代史:下條顧問登場
2014年11月23日 お仕事 エンジニアライフ応援サイト/Tech
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001133
私たち日本生涯現役推進協議会の下條武男名誉顧問は1931年、大阪・天王寺で菓子製造を営む家に生まれ、1958年、大阪大学理学部数学科を出た。計算機の仕事を選んだのは「大学で学んだ数学理論を生かせる」と考えたからだった。「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックでした」と下條は話す。
「入社当時、日本レミントン・ユニバックの社員は250人ほど、新入社員は15人か16人で、その半分がソフト部隊に配属されました」
採用は大阪支店だったが、下條は研修のため上京し、そのまま東京で勤務することになった。
「プログラミング教育なんてなかった。ドン、と英文のテキストを渡されるんです。あとは独学で習得するしかなかった」
そこで下條は先輩が教えてくれたことを手がかりに、ほかの部分に自分なりの理論を当てはめ、テキストの図表を参照しながら電子計算機の構造やプログラムの原理を理解していった。英語の文章を翻訳するより、理論で理解したほうが早いし正確だった。
翌59年、山一證券のシステム開発チームに配属された。山一證券はこの年、磁気ドラムを装備したトランジスタ式電子計算機「UFC」にレベルアップしたばかりだった。機械語で記述したコードをカードにパンチして読み取らせ、内蔵メモリに蓄える新しい方式だった。このため下條は、機械語の文法と、頻繁に使用するコードを覚えなければならなくなった。
「よく使うコードは手引書を参照すればいい。そう考えたら楽になりました。そしてより重要なのは、どのようなプログラムを作ればいいか、ロジックの組み立てだということに気がついたわけです」
ほかの技術者が1本のプログラムを完成させるのに、例えば4週間かかるとする。ユーザーの業務を調べ、要望を理解するのに1週間、プログラムを組むのに1週間、マシンにかけて不具合を調整するのに2週間。下條の場合は、ユーザーの業務や要望を理解するのにほかの人の1.5倍をかけた。またプログラムを組むのに1週間半かかる。ここまでで既に3週間。周りから見ると、ひどく遅れているように思えるが、修正がほとんどなかった。
「私が作るプログラムには、論理的な矛盾やコーディングのミスが皆無でした。初期の設計さえ正確であれば、早く仕上げることができるんです。自分はプログラマよりシステム設計のほうが向いている、という自信がつきました」と言う。
S E か ら コ ン サ ル タ ン ト へ
入社4年目の1961年、30歳の下條に転機が訪れた。社団法人日本能率協会から「電算機の講師になってほしい」と誘いの声がかかったのである。
「日本能率協会の新居崎邦宜という常務理事は、たいへんな勉強家でした。それに先見性があった」
先見性とは、すなわち電子計算機だった。新居崎は1961年、協会にスペリーランド社の最新鋭機「USSC」を導入すると、EDP(Electronic data processing)研究所を設立。電子計算機の導入を考えている企業の担当者に、業務の電算化によってどれほどの生産性、効率性、省力化が実現するかを実証することを目指した。
下條はそこでシステム設計の「先生」として仕事をすることになった。情報システムの基礎知識を教える傍ら、アメリカでの電算機利用動向や最新の技術動向を伝えるシンポジウムなどのイベントの進行役も務めた。協会の職員や協会所属のコンサルタントでは、専門的な話に対応できなかったのだ。小野田セメントの南沢宣郎、東京海上火災の山口大二、野村證券の大野達男といった人々が講演や討論会を行い、受講者は常に500人を超えた。
また、大手企業の電子計算機導入に関する調査や指導を担当した。東洋ベアリング、日本電装、汽車製造、住友機械工業、日本放送協会(NHK)といった企業に対して、事務の機械化の相談に乗った。
「EDP研究所でテスト用に作ったプログラムは、そのまま本番で使うこともできました。受講生が勤める会社の実務を分析して、実際に動くシステムを作ったんです」
ただし、テスト用に処理するデータは実際よりはるかに少なかった。データ処理の時間は極端に短く、あっという間に終わってしまうのだが、その前に、長大なプログラムをパンチし、それを電子計算機に読み取らせる間、テストを見にきたクライアントを延々と待たせることになる。
「そこで、プログラムを磁気テープに格納することを思いついたんです」
当時、磁気テープはデータと処理結果を記録するもので、プログラムの格納には用いられていなかった。のちにこの方式は「プログラム・ライブラリ」として一般的になる。また、アプリケーション・プログラムと処理データを分け、相互に同期させながら一貫処理を行っていく手法は、米スペリーランド社に紹介され、やがてUNIVAC機のOS「OS/11」の一部に組み込まれていった。
D B M S の 基 礎 理 論 に
日本能率協会時代の下條が作ったプログラムでは、「バイナリー・サーチ」が最も名高い。もっともこの名称は、のちに米国の学会が名付けたもので、当時、下條は「区間縮小法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。
「例えば辞書から特定の単語を探し出す場合、おおよその見当をつけて辞書を開くでしょう? パッと開いたところが目的の言葉の前か後かを見る。そこで不要な部分を捨てる。残った部分をまた大ざっぱに見当をつけて開く。その前か後か、さらに前か後か。そうすることで3回か4回で目的の言葉を見つけることができる。そういう理屈です」
システムに格納されているデータには、辞書のような並び順のルールはない。格納されているデータを一つひとつチェックしていくので、データの件数分だけ計算機は動き続け、必要なデータを探し出すだけで時間がかかってしまう。
そこで下條は、人間の「見当をつける」という行為を観察し分析して、システムにも同じプロセスを実行させる方法を考案したのだった。データにキーとなるコードを付け、コード順に並べておく。探したいデータのキー・コードと、並べたデータの真ん中のコードとの大小を比較すれば、次に探すべきなのが前半分か後ろ半分かがわかる。次はわかった半分の真ん中にあるコードと照合、というふうに合致するまで二分・照合を繰り返す。「半日以上かかっていたデータ検索の作業が15分で終わった」という記録が残されている。
1964年の秋、米コンピュータ学会で全く同じ手法が「バイナリー・サーチ理論」として発表され、データベース管理システム(DBMS)の基礎理論となった。それを知った中嶋朋夫(当時日本能率協会、のち情報処理振興事業協会開発振興部長、青山学院大学講師)が、アメリカの学会誌に発表するよう勧めたのにと下條の論文嫌いに腹を立てる一方で、そのおおらかな人柄に苦笑したと伝えられる。
たった二人で創業したNCDは、40年後の今、グループ従業員600人に拡大した。2000年9月にはJASDAQに上場もしている。下條は現在76歳だが、口癖は「生涯現役」だ。
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001133
私たち日本生涯現役推進協議会の下條武男名誉顧問は1931年、大阪・天王寺で菓子製造を営む家に生まれ、1958年、大阪大学理学部数学科を出た。計算機の仕事を選んだのは「大学で学んだ数学理論を生かせる」と考えたからだった。「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックでした」と下條は話す。
「入社当時、日本レミントン・ユニバックの社員は250人ほど、新入社員は15人か16人で、その半分がソフト部隊に配属されました」
採用は大阪支店だったが、下條は研修のため上京し、そのまま東京で勤務することになった。
「プログラミング教育なんてなかった。ドン、と英文のテキストを渡されるんです。あとは独学で習得するしかなかった」
そこで下條は先輩が教えてくれたことを手がかりに、ほかの部分に自分なりの理論を当てはめ、テキストの図表を参照しながら電子計算機の構造やプログラムの原理を理解していった。英語の文章を翻訳するより、理論で理解したほうが早いし正確だった。
翌59年、山一證券のシステム開発チームに配属された。山一證券はこの年、磁気ドラムを装備したトランジスタ式電子計算機「UFC」にレベルアップしたばかりだった。機械語で記述したコードをカードにパンチして読み取らせ、内蔵メモリに蓄える新しい方式だった。このため下條は、機械語の文法と、頻繁に使用するコードを覚えなければならなくなった。
「よく使うコードは手引書を参照すればいい。そう考えたら楽になりました。そしてより重要なのは、どのようなプログラムを作ればいいか、ロジックの組み立てだということに気がついたわけです」
ほかの技術者が1本のプログラムを完成させるのに、例えば4週間かかるとする。ユーザーの業務を調べ、要望を理解するのに1週間、プログラムを組むのに1週間、マシンにかけて不具合を調整するのに2週間。下條の場合は、ユーザーの業務や要望を理解するのにほかの人の1.5倍をかけた。またプログラムを組むのに1週間半かかる。ここまでで既に3週間。周りから見ると、ひどく遅れているように思えるが、修正がほとんどなかった。
「私が作るプログラムには、論理的な矛盾やコーディングのミスが皆無でした。初期の設計さえ正確であれば、早く仕上げることができるんです。自分はプログラマよりシステム設計のほうが向いている、という自信がつきました」と言う。
S E か ら コ ン サ ル タ ン ト へ
入社4年目の1961年、30歳の下條に転機が訪れた。社団法人日本能率協会から「電算機の講師になってほしい」と誘いの声がかかったのである。
「日本能率協会の新居崎邦宜という常務理事は、たいへんな勉強家でした。それに先見性があった」
先見性とは、すなわち電子計算機だった。新居崎は1961年、協会にスペリーランド社の最新鋭機「USSC」を導入すると、EDP(Electronic data processing)研究所を設立。電子計算機の導入を考えている企業の担当者に、業務の電算化によってどれほどの生産性、効率性、省力化が実現するかを実証することを目指した。
下條はそこでシステム設計の「先生」として仕事をすることになった。情報システムの基礎知識を教える傍ら、アメリカでの電算機利用動向や最新の技術動向を伝えるシンポジウムなどのイベントの進行役も務めた。協会の職員や協会所属のコンサルタントでは、専門的な話に対応できなかったのだ。小野田セメントの南沢宣郎、東京海上火災の山口大二、野村證券の大野達男といった人々が講演や討論会を行い、受講者は常に500人を超えた。
また、大手企業の電子計算機導入に関する調査や指導を担当した。東洋ベアリング、日本電装、汽車製造、住友機械工業、日本放送協会(NHK)といった企業に対して、事務の機械化の相談に乗った。
「EDP研究所でテスト用に作ったプログラムは、そのまま本番で使うこともできました。受講生が勤める会社の実務を分析して、実際に動くシステムを作ったんです」
ただし、テスト用に処理するデータは実際よりはるかに少なかった。データ処理の時間は極端に短く、あっという間に終わってしまうのだが、その前に、長大なプログラムをパンチし、それを電子計算機に読み取らせる間、テストを見にきたクライアントを延々と待たせることになる。
「そこで、プログラムを磁気テープに格納することを思いついたんです」
当時、磁気テープはデータと処理結果を記録するもので、プログラムの格納には用いられていなかった。のちにこの方式は「プログラム・ライブラリ」として一般的になる。また、アプリケーション・プログラムと処理データを分け、相互に同期させながら一貫処理を行っていく手法は、米スペリーランド社に紹介され、やがてUNIVAC機のOS「OS/11」の一部に組み込まれていった。
D B M S の 基 礎 理 論 に
日本能率協会時代の下條が作ったプログラムでは、「バイナリー・サーチ」が最も名高い。もっともこの名称は、のちに米国の学会が名付けたもので、当時、下條は「区間縮小法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。
「例えば辞書から特定の単語を探し出す場合、おおよその見当をつけて辞書を開くでしょう? パッと開いたところが目的の言葉の前か後かを見る。そこで不要な部分を捨てる。残った部分をまた大ざっぱに見当をつけて開く。その前か後か、さらに前か後か。そうすることで3回か4回で目的の言葉を見つけることができる。そういう理屈です」
システムに格納されているデータには、辞書のような並び順のルールはない。格納されているデータを一つひとつチェックしていくので、データの件数分だけ計算機は動き続け、必要なデータを探し出すだけで時間がかかってしまう。
そこで下條は、人間の「見当をつける」という行為を観察し分析して、システムにも同じプロセスを実行させる方法を考案したのだった。データにキーとなるコードを付け、コード順に並べておく。探したいデータのキー・コードと、並べたデータの真ん中のコードとの大小を比較すれば、次に探すべきなのが前半分か後ろ半分かがわかる。次はわかった半分の真ん中にあるコードと照合、というふうに合致するまで二分・照合を繰り返す。「半日以上かかっていたデータ検索の作業が15分で終わった」という記録が残されている。
1964年の秋、米コンピュータ学会で全く同じ手法が「バイナリー・サーチ理論」として発表され、データベース管理システム(DBMS)の基礎理論となった。それを知った中嶋朋夫(当時日本能率協会、のち情報処理振興事業協会開発振興部長、青山学院大学講師)が、アメリカの学会誌に発表するよう勧めたのにと下條の論文嫌いに腹を立てる一方で、そのおおらかな人柄に苦笑したと伝えられる。
たった二人で創業したNCDは、40年後の今、グループ従業員600人に拡大した。2000年9月にはJASDAQに上場もしている。下條は現在76歳だが、口癖は「生涯現役」だ。