毎日News:「建築:安藤忠雄/投資:バフェット」
2014年6月18日 お仕事 厳 し い 現 実 に 直 面 し て も あ き ら め ず 、
し た た か に 生 き 抜 く
建 築 家 安 藤 忠 雄
「学歴がものをいう」──。こうした学歴偏重の考え方は、建築の世界にも当てはまる。
建築家を輩出することで知られる東大、早大、京大、東工大といった有名校。国内で大手設計事務所に入るには、こうした学校の卒業生が有利という。独立して仕事を得る際、卒業生のネットワークが大きく影響するからだ。
そんな世界で、大学を卒業せずとも世界にその名を知られ、東大名誉教授になった人物がいる。建築家、安藤忠雄だ。
1941年、大阪の下町に生まれ、間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。高校卒業後、大学に進学することなく就職したが、サラリーマン生活が性に合わず退職。設計事務所でのアルバイト経験と独学で、建築家を目指した。
安藤は、大学の教科書を買い集め、建築やインテリアの通信教育を受け、夜間のデッサン教室にも通った。大学に行けない“劣勢”を跳ね返すため何にでも挑戦し、アルバイトの昼休みや睡眠時間を削って勉強したという。
影響を受けたのは、世界的な建築家、ル・コルビュジエだった。彼の作品集を古書店で買い、すべての図面を覚えてしまうほど、建築の線をなぞった。20代初め、放浪の旅に出て世界の建築物を見て回り見聞を広め、数年後の1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。出世作となった「住吉の長屋」が日本建築学会賞を受賞するのが1979年、30代後半の時だ。安藤が建築家を志してから世に出るまで、実に20年近い歳月がかかった。
■人生に“光”を求めるなら、苦しい現実という“影”を見据えよ
事務所の設立当初、仕事はほとんどなかった。来る仕事と言えば、予算も規模も小さなものばかり。だが安藤にとっては創れるチャンスがあるだけで満足だった。予算の制約はあっても、時には施主があきれるほど“自分の色”を出した作品も作った。学閥の力を持たない一匹狼は、ゲリラ的に動いて存在をアピールするしかない。安藤の代名詞となる「コンクリート打ちっぱなし」建築は、そんな中から生まれた。
建築業界で安藤は今や世界的なカリスマだが、華やかな仕事にばかり従事しているわけではない。建築家の日常とは、建築コンペに挑戦する一方で、依頼主がいなくても自分の設計案を深めることに費やされる。コンペで落選し、日の目を見なかったアイデアは数知れない。
安藤は自伝『建築家 安藤忠雄』でこう語っている。
「仮に私のキャリアの中に何かを見つけるにしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは厳しい現実に直面しても、決してあきらめず、したたかに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」
「人生に“光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という“影”をしっかりと見据え、それを乗り越えるべく、勇気をもって進んでいくことだ。私は人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠くに見据えて、それに向かって懸命に走っている無我夢中の中にこそ、人生の充実があると思う」
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勝 ち 続 け る 「 投 資 の 神 様 」 も 、
受 験 ・ 就 職 の 失 敗 で 挫 折 を 知 る
投 資 家 ウ ォ ー レ ン ・ バ フ ェ ッ ト
ウォーレン・バフェットは5兆円以上の資産を持つ全米屈指の投資家で、米フォーブス誌の億万長者ランキングの常連として有名だ。だが、彼が世界的に存在感を高めたのは50代になってから。日本で注目されたのはさらに遅く、60代となってからの“遅咲き”だ。
バフェットは、その存在自体がユニークでもある。それは彼が史上初めて、個人投資家としてスタートして、株式投資だけで世界的な億万長者になった人物だからだ。
ロックフェラー、ビル・ゲイツといった資産家は、それぞれ石油、ソフトウエアという本業のビジネスがあり、そのビジネスが株式で評価されることによって資産を得た。だがバフェットは違う。「勝ち続けるのは困難」とされる株式投資の世界で40年以上成果を上げ続け、資産を築いたのだ。バフェットは「不可能を可能にした」希有な投資家なのである。
投資情報が集まるニューヨークのウォール街を拠点にしていないことも、注目に値する。彼の拠点は米ネブラスカ州オマハ。日本で言えば、東京の兜町や丸の内から遠く離れた地方都市にいながら、都心の投資エリートたちを向こうに回し、信じ難いほど高いパフォーマンスを上げていることになる。一方で生活は質素で、1958年に3万1500ドルで購入したオマハ郊外の住宅に今も暮らしている。
■人前で話すのは苦手、話し方教室に通ったことも
そんなバフェットも、若い頃に挫折を経験している。まず、米ハーバード・ビジネス・スクールに願書を出したが落とされたこと。その後、尊敬する投資家ベンジャミン・グレアムが教壇に立っていた米コロンビア大学のビジネススクールに入学することになる。
最初の就職にも失敗する。バフェットもかつては、ウォール街で働こうとしたことがあった。コロンビア大学大学院を修了後、グレアムのオフィスに職を求めた時だ。しかし、その希望はあえなく却下されてしまう。結局、故郷のオマハに戻り、父が経営する小さな証券会社に身を置いた。この頃、人前で話すのが苦手だったためデール・カーネギーの話し方教室に通ったり、『ムーディーズ・マニュアル』という日本の『日経会社情報』のようなデータブックを何度も読み込んで勉強したりした。
その後バフェットは、知り合いからお金を集めて小さな投資ファンドを作り資産を増やすが、30代の終わり頃に解消。買収した繊維会社、米バークシャー・ハザウェイを投資会社に衣替えし、投資手法をリセットする形で40代にして再スタートを切って、独自の手法で勝ちを積み上げていく。
驚かされるのは、彼が最先端の投資技術を駆使してきたわけではない点だ。米コカ・コーラやワシントン・ポストなど、誰もが知っている会社の株を購入し、長期間持ち続けることで財を成したのだ。
90年代後半以降、市場から注目されたインターネット企業に投資しなかったため、一時は過去の人のような扱いを受け「終わった投資家」とやゆされたこともあった。しかしその後ネットバブルは崩壊。バフェットは損を回避する結果となり、改めて彼の投資手法の正しさが称賛された。
バフェットは80歳を過ぎた今も第一線で、全米で最も注目される投資家として活躍している。(敬称略)
し た た か に 生 き 抜 く
建 築 家 安 藤 忠 雄
「学歴がものをいう」──。こうした学歴偏重の考え方は、建築の世界にも当てはまる。
建築家を輩出することで知られる東大、早大、京大、東工大といった有名校。国内で大手設計事務所に入るには、こうした学校の卒業生が有利という。独立して仕事を得る際、卒業生のネットワークが大きく影響するからだ。
そんな世界で、大学を卒業せずとも世界にその名を知られ、東大名誉教授になった人物がいる。建築家、安藤忠雄だ。
1941年、大阪の下町に生まれ、間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。高校卒業後、大学に進学することなく就職したが、サラリーマン生活が性に合わず退職。設計事務所でのアルバイト経験と独学で、建築家を目指した。
安藤は、大学の教科書を買い集め、建築やインテリアの通信教育を受け、夜間のデッサン教室にも通った。大学に行けない“劣勢”を跳ね返すため何にでも挑戦し、アルバイトの昼休みや睡眠時間を削って勉強したという。
影響を受けたのは、世界的な建築家、ル・コルビュジエだった。彼の作品集を古書店で買い、すべての図面を覚えてしまうほど、建築の線をなぞった。20代初め、放浪の旅に出て世界の建築物を見て回り見聞を広め、数年後の1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。出世作となった「住吉の長屋」が日本建築学会賞を受賞するのが1979年、30代後半の時だ。安藤が建築家を志してから世に出るまで、実に20年近い歳月がかかった。
■人生に“光”を求めるなら、苦しい現実という“影”を見据えよ
事務所の設立当初、仕事はほとんどなかった。来る仕事と言えば、予算も規模も小さなものばかり。だが安藤にとっては創れるチャンスがあるだけで満足だった。予算の制約はあっても、時には施主があきれるほど“自分の色”を出した作品も作った。学閥の力を持たない一匹狼は、ゲリラ的に動いて存在をアピールするしかない。安藤の代名詞となる「コンクリート打ちっぱなし」建築は、そんな中から生まれた。
建築業界で安藤は今や世界的なカリスマだが、華やかな仕事にばかり従事しているわけではない。建築家の日常とは、建築コンペに挑戦する一方で、依頼主がいなくても自分の設計案を深めることに費やされる。コンペで落選し、日の目を見なかったアイデアは数知れない。
安藤は自伝『建築家 安藤忠雄』でこう語っている。
「仮に私のキャリアの中に何かを見つけるにしても、それはすぐれた芸術的資質といったものではない。あるとすれば、それは厳しい現実に直面しても、決してあきらめず、したたかに生き抜こうとする、生来のしぶとさなのだと思う」
「人生に“光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という“影”をしっかりと見据え、それを乗り越えるべく、勇気をもって進んでいくことだ。私は人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠くに見据えて、それに向かって懸命に走っている無我夢中の中にこそ、人生の充実があると思う」
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勝 ち 続 け る 「 投 資 の 神 様 」 も 、
受 験 ・ 就 職 の 失 敗 で 挫 折 を 知 る
投 資 家 ウ ォ ー レ ン ・ バ フ ェ ッ ト
ウォーレン・バフェットは5兆円以上の資産を持つ全米屈指の投資家で、米フォーブス誌の億万長者ランキングの常連として有名だ。だが、彼が世界的に存在感を高めたのは50代になってから。日本で注目されたのはさらに遅く、60代となってからの“遅咲き”だ。
バフェットは、その存在自体がユニークでもある。それは彼が史上初めて、個人投資家としてスタートして、株式投資だけで世界的な億万長者になった人物だからだ。
ロックフェラー、ビル・ゲイツといった資産家は、それぞれ石油、ソフトウエアという本業のビジネスがあり、そのビジネスが株式で評価されることによって資産を得た。だがバフェットは違う。「勝ち続けるのは困難」とされる株式投資の世界で40年以上成果を上げ続け、資産を築いたのだ。バフェットは「不可能を可能にした」希有な投資家なのである。
投資情報が集まるニューヨークのウォール街を拠点にしていないことも、注目に値する。彼の拠点は米ネブラスカ州オマハ。日本で言えば、東京の兜町や丸の内から遠く離れた地方都市にいながら、都心の投資エリートたちを向こうに回し、信じ難いほど高いパフォーマンスを上げていることになる。一方で生活は質素で、1958年に3万1500ドルで購入したオマハ郊外の住宅に今も暮らしている。
■人前で話すのは苦手、話し方教室に通ったことも
そんなバフェットも、若い頃に挫折を経験している。まず、米ハーバード・ビジネス・スクールに願書を出したが落とされたこと。その後、尊敬する投資家ベンジャミン・グレアムが教壇に立っていた米コロンビア大学のビジネススクールに入学することになる。
最初の就職にも失敗する。バフェットもかつては、ウォール街で働こうとしたことがあった。コロンビア大学大学院を修了後、グレアムのオフィスに職を求めた時だ。しかし、その希望はあえなく却下されてしまう。結局、故郷のオマハに戻り、父が経営する小さな証券会社に身を置いた。この頃、人前で話すのが苦手だったためデール・カーネギーの話し方教室に通ったり、『ムーディーズ・マニュアル』という日本の『日経会社情報』のようなデータブックを何度も読み込んで勉強したりした。
その後バフェットは、知り合いからお金を集めて小さな投資ファンドを作り資産を増やすが、30代の終わり頃に解消。買収した繊維会社、米バークシャー・ハザウェイを投資会社に衣替えし、投資手法をリセットする形で40代にして再スタートを切って、独自の手法で勝ちを積み上げていく。
驚かされるのは、彼が最先端の投資技術を駆使してきたわけではない点だ。米コカ・コーラやワシントン・ポストなど、誰もが知っている会社の株を購入し、長期間持ち続けることで財を成したのだ。
90年代後半以降、市場から注目されたインターネット企業に投資しなかったため、一時は過去の人のような扱いを受け「終わった投資家」とやゆされたこともあった。しかしその後ネットバブルは崩壊。バフェットは損を回避する結果となり、改めて彼の投資手法の正しさが称賛された。
バフェットは80歳を過ぎた今も第一線で、全米で最も注目される投資家として活躍している。(敬称略)