毎日News:「日本電産社長/オイシックス社長」
2014年6月17日 お仕事 資 金 繰 り に 苦 し ん だ 創 業 時
“ 死 に 場 所 ” を 決 め 、 失 敗 か ら 学 ぶ
日本電産社長 永 守 重 信
成功者と言われる人ほど、たくさんの失敗や挫折を経験している。
「彼らは恵まれた境遇、学歴、仕事を持っていたから成功した」と思っている人がいるかもしれない。だが実際には彼らも私たちと同じように、日々悩み、苦しみながら1つずつハードルをクリアしていったのだ。
松下幸之助は「成功の秘訣は?」と問われ「成功するまで続けることだ」と答えたというが、失敗や負けを認めて退場してしまえばそれで終わりだ。失敗や挫折を経験するたびに立ち上がらなければ、成果はつかめない。
京都ベンチャーを代表する世界ナンバーワンのモーターメーカー、日本電産を一代で築き育てた永守重信も、そんな1人だ。
終戦前年の1944年。永守は、京都の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。世間的に見れば、必ずしも恵まれた境遇とは言えない。そんな永守を叱咤(しった)激励したのが、母だった。
「人の2倍働いて成功しないことはない。倍働け」。母親は朝誰よりも早く起きて、夜は誰よりも遅くまで畑仕事をした。永守はこの教えを今も守り、元日の午前中を除いて1年365日働くという。朝6時50分には会社に出社、夜も10時まで働く“仕事人間”だ。
永守は京都府立洛陽工業高校電気科から、学費のかからない職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)に進んだ。ほかの学生と違ったのは、株式投資をしていたこと。日本経済新聞やラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)を見聞きし、株取引で蓄財。「あんぱん半分に牛乳」で生活を切り詰めることもあったという。
卒業後は、音響機器メーカーのティアックに就職。独立を考えていたため、就職はその足がかりだった。そんな永守は人の目に、個性が強く生意気と映ったのだろう。周囲とは衝突ばかりで、ついに精密工作機械メーカーの山科精器に転職する。ここで持ち前の負けん気を発揮してモーター部門を別会社化、取締役事業本部長に就任するが、またも経営方針で衝突。28歳で退職し、株投資などで得た2000万円を元手に、同志4人で日本電産をスタートさせた。
実績も知名度もない零細メーカーゆえ、スタートした後が大変だった。創業からの3年間で、3回も倒産の危機を迎えたのだ。
■自殺が「怖い」と思えるうちは、まだ頑張れる
中小企業の社長の多くが直面する難事は、資金繰りだ。資金不足に直面した際の、世界のすべてが自分の敵に思えるような苦しみは、実際に中小企業を経営した者にしか分からないかもしれない。永守も、当時の苦しみをこう吐露している。
「銀行から融資を受けようとしても担保がなく、生命保険に入れと言われた。その意味するところは、会社をつぶしたら自殺して返せ、ということだ」
死に場所も決めていた。会社が苦しくなった時には、死に場所と決めた京都・嵐山の渡月橋を見に行ったという。自殺するのは怖い。しかし「怖い」と思っているうちは頑張れると思った。
永守はいつも決してあきらめなかった。倒産の危機から、キャッシュフローの大切さを学んだ。受け取った手形を割り引きしないこと、月商2カ月分以上のキャッシュを持つことを肝に銘じた。こうして永守は、中小企業から大企業の社長へと飛躍していく。
成功者には必ず、「七転び八起き」のストーリーがある。失敗や挫折は、チャンスをつかむきっかけだ。そこから先に、人生の本当の“見どころ”が待っていることもある。苦労や失敗はやはり、「成功の母」なのだ。
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取 引 先 か ら の 門 前 払 い も な ん の そ の 、
地 道 に 信 頼 を 勝 ち 取 る
オイシックス社長 高 島 宏 平
エリート集団と言われるコンサルティング会社、マッキンゼー・アンド・カンパニー(以下マッキンゼー)。ここから独立して成功したオイシックス社長、高島宏平も、起業後は苦労の連続だった。
1973年生まれの団塊ジュニア世代。東京大学大学院修了後、マッキンゼーに入社した。2000年にはネットによる野菜の通販会社「オイシックス」を創業、今年東証マザーズに上場した。
マッキンゼー出身の優秀な経営コンサルタントだった高島が経営者となり、会社を経営するのだから「成功して当たり前」と思う人もいるだろう。だが、現実は違った。会社が軌道に乗るまでに約12年かかったのだ。経営者として「実際に企業経営をする」ことと、コンサルタントとして「企業経営を外から見て改善する」ことは似て非なるもの。業務の性質が全く異なるのだ。
高島は著書『ライフ・イズ・ベジダブル』で、当時の苦労を次のように語っている。
「『結論から言うと、当社が御社に出資するのは難しい』。ミーティングの冒頭に言われた。その後、いろいろとその理由を説明してもらったが、何も頭に入らず、ほとんど覚えていない。とても、そのまま会社に戻る気になれず、ふらふらと歩いているうちに芝公園にたどり着き、空いているベンチに座った。『会社、つぶれるかもしれないな』。会社を立ち上げてから、そんなことを感じたのは初めてだった。全身が脱力していることを実感した」
タイミングも悪かった。ネットバブル崩壊後に創業し、資金繰りは困難を極めた。そこで高島が考えたのが、自分の生活から「落ち込む時間をカットする」ことだった。落ち込んでいてもお金は増えない。持久力で動き続けるしかないと決めた。
小売業は激戦が続く厳しい業界だ。新参者が取引先を開拓していくには、大きな困難が伴った。商品を仕入れるためにと農家を訪問しても、門前払いされた。
「スタート当初、『ネットなんてうさんくさい』というイメージをもたれることが多く、苦労しました」。それでもあきらめず、農家を訪問しては説得に当たった。
■成長につながる“大きな転機”などなかった
視野が開けたのは、リピーター客がつき始めた時だ。「1回買った人が定価で継続的に買う」という現象は、サービスそのものにバリュー(価値)があって初めて起きる。数人にせよリピーター客が出てきたことで、高島は自分のビジネスの将来性を確信するようになったという。
しかし資金繰りはなかなか改善せず、倒産の危機は幾度となくやってきた。吐き気がするような1カ月を過ごすこともあった。そんな中、高島は、危機に陥る原因と再発防止策をノートに書き留めた。同時に、過酷な状況でも社員が明るくなるような雰囲気作りを心がけた。そんな努力の結果、オイシックスは12年かけて着実に成長していった。
「オイシックス」成長のきっかけは、どこにあったのか。実のところ、“大きな転機”と呼べるようなものはなかった。成長は日々実績を着実に積み上げた結果、ついてきたものだったのだ。
「急成長したことはありません。早く成長したいのはもちろんですが、私たちは扱う食材に対して厳しい基準を設けています。そのため、売り上げが増えたからといって、その分どこかから買ってくるというわけにはいかない。売り上げを増やすことと、生産者を増やすことを両輪でやっていかなければならないのです」
おいしい野菜を作るには手間がかかる。急に増やそうとしても、簡単には作れない。ネットの売り上げの増減に合わせて生産者からの仕入れを増減させれば、今度は生産者からの信用をなくしてしまう。高島は「おいしい野菜を顧客に確実に提供し続ける」という地道な作業を続けたからこそ、成功したのだ。
“ 死 に 場 所 ” を 決 め 、 失 敗 か ら 学 ぶ
日本電産社長 永 守 重 信
成功者と言われる人ほど、たくさんの失敗や挫折を経験している。
「彼らは恵まれた境遇、学歴、仕事を持っていたから成功した」と思っている人がいるかもしれない。だが実際には彼らも私たちと同じように、日々悩み、苦しみながら1つずつハードルをクリアしていったのだ。
松下幸之助は「成功の秘訣は?」と問われ「成功するまで続けることだ」と答えたというが、失敗や負けを認めて退場してしまえばそれで終わりだ。失敗や挫折を経験するたびに立ち上がらなければ、成果はつかめない。
京都ベンチャーを代表する世界ナンバーワンのモーターメーカー、日本電産を一代で築き育てた永守重信も、そんな1人だ。
終戦前年の1944年。永守は、京都の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。世間的に見れば、必ずしも恵まれた境遇とは言えない。そんな永守を叱咤(しった)激励したのが、母だった。
「人の2倍働いて成功しないことはない。倍働け」。母親は朝誰よりも早く起きて、夜は誰よりも遅くまで畑仕事をした。永守はこの教えを今も守り、元日の午前中を除いて1年365日働くという。朝6時50分には会社に出社、夜も10時まで働く“仕事人間”だ。
永守は京都府立洛陽工業高校電気科から、学費のかからない職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)に進んだ。ほかの学生と違ったのは、株式投資をしていたこと。日本経済新聞やラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)を見聞きし、株取引で蓄財。「あんぱん半分に牛乳」で生活を切り詰めることもあったという。
卒業後は、音響機器メーカーのティアックに就職。独立を考えていたため、就職はその足がかりだった。そんな永守は人の目に、個性が強く生意気と映ったのだろう。周囲とは衝突ばかりで、ついに精密工作機械メーカーの山科精器に転職する。ここで持ち前の負けん気を発揮してモーター部門を別会社化、取締役事業本部長に就任するが、またも経営方針で衝突。28歳で退職し、株投資などで得た2000万円を元手に、同志4人で日本電産をスタートさせた。
実績も知名度もない零細メーカーゆえ、スタートした後が大変だった。創業からの3年間で、3回も倒産の危機を迎えたのだ。
■自殺が「怖い」と思えるうちは、まだ頑張れる
中小企業の社長の多くが直面する難事は、資金繰りだ。資金不足に直面した際の、世界のすべてが自分の敵に思えるような苦しみは、実際に中小企業を経営した者にしか分からないかもしれない。永守も、当時の苦しみをこう吐露している。
「銀行から融資を受けようとしても担保がなく、生命保険に入れと言われた。その意味するところは、会社をつぶしたら自殺して返せ、ということだ」
死に場所も決めていた。会社が苦しくなった時には、死に場所と決めた京都・嵐山の渡月橋を見に行ったという。自殺するのは怖い。しかし「怖い」と思っているうちは頑張れると思った。
永守はいつも決してあきらめなかった。倒産の危機から、キャッシュフローの大切さを学んだ。受け取った手形を割り引きしないこと、月商2カ月分以上のキャッシュを持つことを肝に銘じた。こうして永守は、中小企業から大企業の社長へと飛躍していく。
成功者には必ず、「七転び八起き」のストーリーがある。失敗や挫折は、チャンスをつかむきっかけだ。そこから先に、人生の本当の“見どころ”が待っていることもある。苦労や失敗はやはり、「成功の母」なのだ。
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取 引 先 か ら の 門 前 払 い も な ん の そ の 、
地 道 に 信 頼 を 勝 ち 取 る
オイシックス社長 高 島 宏 平
エリート集団と言われるコンサルティング会社、マッキンゼー・アンド・カンパニー(以下マッキンゼー)。ここから独立して成功したオイシックス社長、高島宏平も、起業後は苦労の連続だった。
1973年生まれの団塊ジュニア世代。東京大学大学院修了後、マッキンゼーに入社した。2000年にはネットによる野菜の通販会社「オイシックス」を創業、今年東証マザーズに上場した。
マッキンゼー出身の優秀な経営コンサルタントだった高島が経営者となり、会社を経営するのだから「成功して当たり前」と思う人もいるだろう。だが、現実は違った。会社が軌道に乗るまでに約12年かかったのだ。経営者として「実際に企業経営をする」ことと、コンサルタントとして「企業経営を外から見て改善する」ことは似て非なるもの。業務の性質が全く異なるのだ。
高島は著書『ライフ・イズ・ベジダブル』で、当時の苦労を次のように語っている。
「『結論から言うと、当社が御社に出資するのは難しい』。ミーティングの冒頭に言われた。その後、いろいろとその理由を説明してもらったが、何も頭に入らず、ほとんど覚えていない。とても、そのまま会社に戻る気になれず、ふらふらと歩いているうちに芝公園にたどり着き、空いているベンチに座った。『会社、つぶれるかもしれないな』。会社を立ち上げてから、そんなことを感じたのは初めてだった。全身が脱力していることを実感した」
タイミングも悪かった。ネットバブル崩壊後に創業し、資金繰りは困難を極めた。そこで高島が考えたのが、自分の生活から「落ち込む時間をカットする」ことだった。落ち込んでいてもお金は増えない。持久力で動き続けるしかないと決めた。
小売業は激戦が続く厳しい業界だ。新参者が取引先を開拓していくには、大きな困難が伴った。商品を仕入れるためにと農家を訪問しても、門前払いされた。
「スタート当初、『ネットなんてうさんくさい』というイメージをもたれることが多く、苦労しました」。それでもあきらめず、農家を訪問しては説得に当たった。
■成長につながる“大きな転機”などなかった
視野が開けたのは、リピーター客がつき始めた時だ。「1回買った人が定価で継続的に買う」という現象は、サービスそのものにバリュー(価値)があって初めて起きる。数人にせよリピーター客が出てきたことで、高島は自分のビジネスの将来性を確信するようになったという。
しかし資金繰りはなかなか改善せず、倒産の危機は幾度となくやってきた。吐き気がするような1カ月を過ごすこともあった。そんな中、高島は、危機に陥る原因と再発防止策をノートに書き留めた。同時に、過酷な状況でも社員が明るくなるような雰囲気作りを心がけた。そんな努力の結果、オイシックスは12年かけて着実に成長していった。
「オイシックス」成長のきっかけは、どこにあったのか。実のところ、“大きな転機”と呼べるようなものはなかった。成長は日々実績を着実に積み上げた結果、ついてきたものだったのだ。
「急成長したことはありません。早く成長したいのはもちろんですが、私たちは扱う食材に対して厳しい基準を設けています。そのため、売り上げが増えたからといって、その分どこかから買ってくるというわけにはいかない。売り上げを増やすことと、生産者を増やすことを両輪でやっていかなければならないのです」
おいしい野菜を作るには手間がかかる。急に増やそうとしても、簡単には作れない。ネットの売り上げの増減に合わせて生産者からの仕入れを増減させれば、今度は生産者からの信用をなくしてしまう。高島は「おいしい野菜を顧客に確実に提供し続ける」という地道な作業を続けたからこそ、成功したのだ。