高橋育郎氏/奇跡を生みだす生涯現役便り
2014年3月24日 お仕事 奇 跡 を 生 み だ す 生 涯 現 役 第 5 弾
2014.03.20記 高橋 育郎
拝啓 生涯現役に携わっておられる皆様には、お元気でご活躍のこととお慶び申しあげます。
さて、私は3月26日に満79歳の誕生日を迎えます。同学年の大半は80歳です。ついに米寿の到来。思えば感無量。歴史を感じます。
21歳の時、板橋の国鉄独身寮に入りました。同室の方が、十河総裁の通訳で、クラシック音楽に通じており、入寮して間もなく誕生日でしたが、この方が驚きに声を発しました。
「あなたはベートーヴェンが亡くなった日に生まれた。わたしはベートーヴェンが生まれた日に生まれた」といったのです。そして「あなたにはベートーヴェンの遺伝子のひとかけらが入っているのですね」と続けました。
あまりにも恐れ多いことでしたから「いいえ」とはいいましたが、もしや宇宙の塵ほどのものが入っているのかなと思ったりしました。その頃、私は楽器も何もない6畳の間で五線紙を広げて音符を書きつけていたのです。
高校の3年生冬休み「冬が来た」という作詞に、おもちゃの木琴を使って曲を書きました。その経験が活きて、職場の先輩、現代詩人の詩に作曲をしてみてはと、すすめられて作曲に励んでいたのです。
ところで、目下、環境アメニティー月刊誌に「奇跡の作詞作曲家」を連載しています。なぜ奇跡かといえば、国民学校世代の私たちは音楽無教育の中で育ったからです。悲しいかな音楽コンプレックス世代です。
学校で音楽を教えられなかった私ですが、高校2年生になって、どうしてもの思いが叶い、合唱団の指揮者になりました。美術部にいたのに・・・。いきなりの事態に学校ではショッキングなニュースでした。
必要に迫られた私は図書室で楽典の本を借りて読みました。あたかも乾わいた砂に水がしみこむように知識が吸収されました。
卒業して国鉄に就職。憧れの合唱団に入団。更に習得していったのです。
一方、作詞についても学校時代、文学部に入ったことはありません。ただ、友人に短歌をやるものがいて刺激され、ノートに詩を綴ったことはありました。
昭和39年、まさに奇跡が起きました。当時、広報に就いていましたが、仕事柄新聞をよく見ました。業界紙に「機関士一代」の投稿詩が掲載され、木琴を叩いて曲をつけNHKへ送りました。「あなたのメロディー」に採用され、思いもよらないアンコール賞を受けました。
でも、このとき家族以外には誰にも話さなかったのです。自分で言うのは気が引けてしまったからです。PRの仕事をやりながら、自分のことにはかまけていたのです。今になれば大きな反省材料です。あのとき、もっと知られていれば、作曲のいい機会が訪れ、人生は違ったものになったかもしれません。
ところが、その時を境に、仕事は更に多忙になって、歌との縁は遠ざかってしまいました。合唱団もやめました。完全に仕事人間になって12年がたったとき、復活のチャンスは訪れました。とにかく東京~千葉間の快速電車運行のため線路増設工事がはじまり、これのプロジェクト・チームに入って駅舎改良の担当になったからです。ここで過労死寸前の苦難を味わいました。
昭55、工事が一段落した時、団体旅行のお手伝いを頼まれて、初の添乗員を体験。その体験を活かして「団体旅行音頭・シャンシャンいい旅夢の旅」を作詞、これがJTBの先輩の手からキングレコードにわたってレコード化され、全国発売の快挙となり、このニュースは直ちにマスコミにより大々的に報じられ、千葉テレビでは1週間連続放送され、千葉市のお祭りでは歌手と踊り手がオープンカーでパレード。長野県と観光姉妹提携を結ぶまでに至りました。
音楽著作権協会に入ったことが、次へのステップになって大きく羽ばたくことになり、千葉県作詞作曲家協会。更には各種同人誌に紹介され、人脈が広がりました。そこで迎えたチャンスは、昭60に千葉局が、さよなら国鉄グッズ お座敷電車を始める際、コマーシャルソング「なのはな号音頭」を依頼され、これがクラウンから発売。さらに房総の観光ソングを出し、これらのことが私の第二の人生、歌の道に踏み出すきっかけになりました。
そこからは第4弾でお話したとおり、偶然からLVCに巡り合い、イベント企画の仕事で紆余曲折を経ながら、平4年、人様の支援のもと、自分の歌の会を持てました。おかげさまで、ここでは私の本領発揮ができています。現在22年目になり、継続は力なりを実感している次第です。
歌の会に入って、ただちに憧れの日本童謡協会に入れました。プロ集団であり,錚々たる一流人の集まりに入れた奇跡に驚愕しました。
国鉄の組織にいたら道は安泰だったかも知れませんが、自分の個性をかくまで発揮することは出来なかったと思います。
これこそライフ・ベンチャー・人生冒険の道に入れたことによるもので、神の恵みを授かったとしか言いようがありません。この奇跡に、先ずは天を仰いで感謝の言葉を捧げる気持ちでいっぱいです。 敬具
2014.03.20記 高橋 育郎
拝啓 生涯現役に携わっておられる皆様には、お元気でご活躍のこととお慶び申しあげます。
さて、私は3月26日に満79歳の誕生日を迎えます。同学年の大半は80歳です。ついに米寿の到来。思えば感無量。歴史を感じます。
21歳の時、板橋の国鉄独身寮に入りました。同室の方が、十河総裁の通訳で、クラシック音楽に通じており、入寮して間もなく誕生日でしたが、この方が驚きに声を発しました。
「あなたはベートーヴェンが亡くなった日に生まれた。わたしはベートーヴェンが生まれた日に生まれた」といったのです。そして「あなたにはベートーヴェンの遺伝子のひとかけらが入っているのですね」と続けました。
あまりにも恐れ多いことでしたから「いいえ」とはいいましたが、もしや宇宙の塵ほどのものが入っているのかなと思ったりしました。その頃、私は楽器も何もない6畳の間で五線紙を広げて音符を書きつけていたのです。
高校の3年生冬休み「冬が来た」という作詞に、おもちゃの木琴を使って曲を書きました。その経験が活きて、職場の先輩、現代詩人の詩に作曲をしてみてはと、すすめられて作曲に励んでいたのです。
ところで、目下、環境アメニティー月刊誌に「奇跡の作詞作曲家」を連載しています。なぜ奇跡かといえば、国民学校世代の私たちは音楽無教育の中で育ったからです。悲しいかな音楽コンプレックス世代です。
学校で音楽を教えられなかった私ですが、高校2年生になって、どうしてもの思いが叶い、合唱団の指揮者になりました。美術部にいたのに・・・。いきなりの事態に学校ではショッキングなニュースでした。
必要に迫られた私は図書室で楽典の本を借りて読みました。あたかも乾わいた砂に水がしみこむように知識が吸収されました。
卒業して国鉄に就職。憧れの合唱団に入団。更に習得していったのです。
一方、作詞についても学校時代、文学部に入ったことはありません。ただ、友人に短歌をやるものがいて刺激され、ノートに詩を綴ったことはありました。
昭和39年、まさに奇跡が起きました。当時、広報に就いていましたが、仕事柄新聞をよく見ました。業界紙に「機関士一代」の投稿詩が掲載され、木琴を叩いて曲をつけNHKへ送りました。「あなたのメロディー」に採用され、思いもよらないアンコール賞を受けました。
でも、このとき家族以外には誰にも話さなかったのです。自分で言うのは気が引けてしまったからです。PRの仕事をやりながら、自分のことにはかまけていたのです。今になれば大きな反省材料です。あのとき、もっと知られていれば、作曲のいい機会が訪れ、人生は違ったものになったかもしれません。
ところが、その時を境に、仕事は更に多忙になって、歌との縁は遠ざかってしまいました。合唱団もやめました。完全に仕事人間になって12年がたったとき、復活のチャンスは訪れました。とにかく東京~千葉間の快速電車運行のため線路増設工事がはじまり、これのプロジェクト・チームに入って駅舎改良の担当になったからです。ここで過労死寸前の苦難を味わいました。
昭55、工事が一段落した時、団体旅行のお手伝いを頼まれて、初の添乗員を体験。その体験を活かして「団体旅行音頭・シャンシャンいい旅夢の旅」を作詞、これがJTBの先輩の手からキングレコードにわたってレコード化され、全国発売の快挙となり、このニュースは直ちにマスコミにより大々的に報じられ、千葉テレビでは1週間連続放送され、千葉市のお祭りでは歌手と踊り手がオープンカーでパレード。長野県と観光姉妹提携を結ぶまでに至りました。
音楽著作権協会に入ったことが、次へのステップになって大きく羽ばたくことになり、千葉県作詞作曲家協会。更には各種同人誌に紹介され、人脈が広がりました。そこで迎えたチャンスは、昭60に千葉局が、さよなら国鉄グッズ お座敷電車を始める際、コマーシャルソング「なのはな号音頭」を依頼され、これがクラウンから発売。さらに房総の観光ソングを出し、これらのことが私の第二の人生、歌の道に踏み出すきっかけになりました。
そこからは第4弾でお話したとおり、偶然からLVCに巡り合い、イベント企画の仕事で紆余曲折を経ながら、平4年、人様の支援のもと、自分の歌の会を持てました。おかげさまで、ここでは私の本領発揮ができています。現在22年目になり、継続は力なりを実感している次第です。
歌の会に入って、ただちに憧れの日本童謡協会に入れました。プロ集団であり,錚々たる一流人の集まりに入れた奇跡に驚愕しました。
国鉄の組織にいたら道は安泰だったかも知れませんが、自分の個性をかくまで発揮することは出来なかったと思います。
これこそライフ・ベンチャー・人生冒険の道に入れたことによるもので、神の恵みを授かったとしか言いようがありません。この奇跡に、先ずは天を仰いで感謝の言葉を捧げる気持ちでいっぱいです。 敬具