昨日紹介の本田重道氏ご著書【なぜ、私の歳をきくの?/年齢不問社会の提言】の第九章:年齢不問の社会に向けて・・・(1)に「生涯現役は一石三鳥」を標題に掲げておられます。そこでその中身を以下に転載させていただき、『生涯現役プロデューサー』仮登録諸兄姉のご意見も承りたく存じます。
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 【なぜ、私の歳をきくの?/年齢不問社会の提言】

9章  年 齢 不 問 の 社 会 に 向 け て

生  涯  現  役  は  一  石  三  鳥

  ここまで、様々な角度から、現行の暦年制度の矛盾について検討してきた。
  未成年者は、教育をはじめ、家庭や社会から援助、保護を受けているので、年齢で制限を受けたり、管理されたりするのも仕方ないだろう。この時期は同年齢間の脳力さもさほど大きくないし、小中学校の入学年齢が、6歳や12歳と定められているのもある程度合理的といえよう。もっとも欧米では、特別の天才児には早期入学や飛び級も許しているが、日本では許されていない。
一方、成年になると、脳力の個人差は加齢とともに、大きく開く。実際は60歳でも50歳に見える人から、70歳を過ぎた老人に見える人まで、その差は実に大きい。
  さらに、一度成人になってしまうと、社会的責任と義務は、死ぬまで変わらず、年齢を区分する法的定義もない。このことは、20歳歳以後は年齢を問われる必要がない、という解釈が可能なことを示唆する。
  にもかかわらず、年齢で区分した定年とか、年功序列とか、前期・後期高齢者等の差別的制度が存在し、これに不満を持つものは多い。したがって、本書が提案する年齢不問の社会は、人生に前向きな人にとって、老若を問わず好ましいものであるはずだ。
  サラリーマンであっても、実力のある若者は、早くから企業の中心になって働くことが出来るし、高齢者も努力によって若さの維持ができれば、いつまでも社会参加できて、人生における行動の自由も獲得できる。
  「年齢不問」は何よりも、社会を活性化させる最有力手段となるだろう。

  以下、高齢者に焦点を当てて論ずるが、まず、間違っても、定年後は遊んで楽をしようなどと思わないことが肝要だ。家では飲酒と居眠り、この間テレビは一日中つけっぱなし、外出は近所のパチンコ屋・・・・こんな生活を続けていれば、体重は増え、成人病になるのは必然。当然、脳の老化も、社会に出て働いている人より早く進んでしまう。
  定年退社の挨拶文に「これからは当分、充電し・・・」などと書く人がいるが、「充電」どころか、一日中、テレビなどを観ているうちに「放電」、場合によっては知ららず知らずに「漏電」してしまい、ついには「停電」、再起できなくなる人も結構いる。「充電」などというものは現役時代から意識するもので、定年になってから、改めてするものではない。

   ≪ 年金で遊んで食って寝て過ごし、これで老け込み病院暮らし ≫

  これは筆者自作の狂歌だが、少子高齢化社会には、これだけで社会に迷惑をかけていることになる。それに、まじめに働くことしか知らなかった会社人間の、定年退職した末路がこれだとしたら、あまりにも寂しく、悲しすぎる。
  国から社会保障給付費をもらう権利があるからといって、多額の医療費を浪費して、毎日が病院暮らしだったら、一体、何のための長生きなのか、たとえ乏しい収入でも、仕事を終えて、若者たちと気楽に安酒を飲み交わし、陽気に騒げる方が、どれほど心身によいことだろうか。
  わが身を患い、入院し、政府に高額な医療費を支払わせるのと、手取りの年金は減らされても、働きながらほどほどの酒代を(自分で)払うのと、どちらが幸せな人生かは、誰にでも分ることだ。

  高齢者の生活習慣の違いによる比較研究は、数年単位の追跡調査が必要だし、厳密な結果はなかなか難しいが、ここでは二つの研究データーを紹介する。一つ目は、東京都健康長寿医療センターの長期研究プロジェクト「中年からの老化予防総合的長期追跡研究」。これは、同センター公刊の小冊子『サクセスフル・エイジングをめざして』(2000年3月発行)にまとめられているが、それによると、人との交流を持っている「社会活動性」型、および、探求や創作などで余暇活動をしている「知的能動性」型のグループに属する人々と、こうした活動の乏しいグループを、10年間追跡調査した結果、活動の乏しいグループは、活発なグループより「わずか3年間で、2倍以上の自立度低下の危険性が認められた」というのだ。 つづく