日野原重明さん召天:生涯現役大往生
2017年7月19日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
2017年7月18日 11時44分(最終更新 7月18日 13時21分)
毎日新聞NewsURL=https://mainichi.jp/articles/20170718/k00/00e/040/116000c
日 野 原 重 明 さ ん 召 天
命 は 人 の た め に ・ ・ ・
生 涯 現 役 を 貫 く
100歳を過ぎても現役の医師を続け、元気に活動できる高齢者の姿を体現してきた日野原重明・聖路加国際病院名誉院長が105歳で亡くなった。同病院に入ったのは、太平洋戦争が始まった1941年。戦中戦後の厳しい時代を若手医師として働いた経験から、一貫して平和の尊さや命の大切さを説いた。【下桐実雅子、永山悦子】
戦後70年を迎えた2015年、日野原さんは将来を担う子どもたちに向けて、著書「戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり」を出版した。自身の104歳の誕生日を前に車椅子に乗って記者会見し、「命と平和の尊さを次世代に語り継ぐことは大切な使命」と語っていた。
著書では、東京大空襲で大やけどを負った人々を診療したものの物資不足で救うことができなかった経験などをつづり「君たちも、戦争をしない平和な世界の実現を一緒に考えてほしい」と訴えた。
こうした経験を踏まえて決断したのが、95年の地下鉄サリン事件での迅速な負傷者受け入れ。外来の受け付けを止めて全職員が救急搬送される患者の手当てに当たり、軽症者には緊急事態に備えて酸素吸入ができるよう配管を整備していた廊下で処置をした。
87年から全国の小中学校で「いのちの授業」も続けており、200校以上を訪れた。子どもたちに、「命は生きている時間そのもの。大人になったら、自分の時間を誰かのために使ってほしい」と語り掛けてきた。
58歳の時には「よど号」ハイジャック事件(1970年)に巻き込まれて生き延びた。その経験から「命を人のために使おう」と考えるようになったという。
何歳になっても常に新しいことに挑戦する大切さも説いた。自身も88歳で、童話「葉っぱのフレディ」のミュージカル用の脚本を書き、ニューヨーク公演も実現させた。「医師になっていなければ、音楽の道に進んだかも」というほどの音楽好きでもあった。広島で指揮者の小澤征爾さん(81)と平和コンサートも開いた。
睡眠は1日4時間半ほど、食事は控えめという生活習慣を守り、講演や執筆、大学での講義、病院の回診も続けて生涯現役を貫いた。「医学部を作りたい。僕にはまだまだ夢がある」と語っていた。
*****************************************************************
2017年7月18日15時37分
朝日新聞デジタルURL=http://digital.asahi.com/articles/ASK7L36SMK7LUCLV003.html?rm=762
生 涯 現 役 の 日 野 原 さ ん
患 者 に 笑 顔 「 あ な た 、 大 丈 夫 ! 」
日野原さんは18日朝、東京・世田谷の自宅で、同居する次男の直明さん(69)、真紀さん(70)夫妻が見守るなか、息を引き取った。「延命治療を望まなかったので、胃ろうや呼吸器などは一切つけなかった。痛みも苦しみも全く訴えず、最期は静かに眠るように亡くなった」という。
特集:日野原重明さん
直明さんによると、日野原さんは3月23日の退院後、在宅で療養していた。その後は目玉焼きやトースト、嚥下食(えんげしょく)などを食べるなど元気を取り戻し、106歳の誕生日パーティーを自宅の庭で催すことを楽しみにしていたという。2日前までは家族が話しかけると返事ができていたが、「本人は医師だから、自分がまもなく他界するとはっきりわかっていたと思う。だから子どもたちや孫たちそれぞれと会話し、メッセージを託していた」と語る。
日野原さんは、名誉院長を務める聖路加国際病院で、100歳を超えた後も時間を見つけては入院病棟を回った。患者に気さくに声をかけ、末期がんの患者の人生の物語に丁寧に耳を傾ける。「あなた、大丈夫!」。笑顔とユーモアで死への不安をやわらげられた患者が、一時的にめざましい回復を見せることも少なくなかった。
多忙な日々を送りつつ、考え抜かれた食事法やストレッチを通じて筋力や姿勢の保持に努めた。2013年2月、背骨を構成する個々の骨、椎骨(ついこつ)が折れた。自ら先進技術であるセメント療法の被験者となり、2日後には歩き、数日後には講演へ。各地で高齢者に「骨折してもこの治療法がある」と薦めてみせた。
長寿と健康をテーマに、75歳以上の高齢者に呼びかけた「新老人の会」の活動は全国に広がった。会員らを前にした講演が年150回に及んだことも。聴衆との直接対話が「私という存在が多くの人に必要とされている証し。生きがいそのもの」と話していた。
小学校への「いのちの授業」の出前も10年以上に及んだ。聴診器を渡して子ども同士の心臓の鼓動を聞かせ、「命って何?」「なぜいじめはいけないの?」と語りかけ、未来を担う世代に命の尊さを教えた。同じ考えから、米国の絵本「葉っぱのフレディ」を、自ら企画・原案を手がけてミュージカル化したこともあった。
平和への思いも強かった。著書などで、日本国憲法、中でも9条の掲げる理念の重要性を説き、報復と暴力の連鎖を憂えた。沖縄の米軍基地撤退や日本の非武装化も訴えていた。旧海軍軍医としての経験もあり、「戦争への反省の気持ちが薄くなっている。戦争は破壊以外の何ものでもない。プラスのものは何も生じない」とはっきりした口調で語っていた。戦後70年の15年7月に朝日新聞のインタビューで、病院のロビーで終戦の玉音放送を聴いたときの体験を語った。「職員はみんなすすり泣いていた。『これで戦争が終わった』と実感した」と振り返った。首尾一貫した活動を支えたのが、プロテスタントとしての信念だ。父は幾度も米国に渡った牧師だった。
大事件に遭遇した体験が、前向きな生き方に拍車をかけた。人質となった1970年のよど号ハイジャック事件。解放後、壮絶なストレスをプラスに転化して「『再生』した」とつづった。95年の地下鉄サリン事件では、大勢の被害者が運び込まれた聖路加国際病院で陣頭指揮にあたった。
皇室とも長い交流があった。特に皇后さまとは母・正田富美子さんの主治医を務めた縁もあり、公私ともに親しかった。昨年7月、皇后さまは日野原さんがプロデュースしたコンサートに出席。並んで鑑賞し、終了後には日野原さんが感極まった表情で皇后さまと抱擁する場面もみられた。昨年11月、朝日新聞の取材に、過去に皇后さまにがん患者などへの対応の仕方をアドバイスしていたと明かした。「ベッドの上から見下ろすような態度はよくない。ひざをついて患者と目線を同じにしてあいさつをしたほうがいい」と助言し、皇后さまはその通りに実践していたという。
昨年10月に逝去した故・三笠宮さまとも親交が深かった。三笠宮さまは日野原さんが名誉院長を務める聖路加国際病院で亡くなったが、日野原さんは取材に「とにかく最後まで生きようとする意志が強かった。軍隊に行かれたり、色んなトレーニングを受けられたりした結果でしょう」と話していた。
01年には、著書「生きかた上手」がベストセラーに。朝日新聞の週末別刷り「be」には翌年から、エッセー「あるがまゝ行く」を連載してきた。昨年後半から口述筆記になるまでは、原稿用紙に細いペンで書き下ろし、ゲラにも自筆でチェックを入れた。
そのbeの10周年の記念講演会では、いつも講演でそうするように、ステージで立ちっぱなしだった。ステージを右に左に闊歩(かっぽ)。「生きている今このときの大切さ」を語りかけ、司会者の女性に感謝の「ハグ」をするちゃめっ気もみせた。「舞台に立つと、皆さんを喜ばせたくて、なぜかエンターテイナーのような気持ちになる」と語っていた。
最近は外出時に車いすを使うことが増えた。それでも、10年分書き込める「10年日記」を愛用し、東京五輪が開かれる20年までの予定を書き込んでいた。今年3月に体調を崩し、本人や家族の申し出により、beの毎週の連載は6月以降、4週間に1度になっていた。
「不思議だね、年を取ると、心が子どもの頃に戻るの」。そう目を輝かせ、書きためてきた詩や俳句を足がかりに新著を世に出し、童話作家、童謡作家、俳人になるという夢を追いかけていた。
*****************************************************************
2017年7月19日ニュース・解説
YOMIURI ONLINE URL=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170719-OYTET50005/
[日野原重明さん死去]
残 っ た 命 、 人 の た め に・・・
「 よ ど 号 」 拘 束 経 て 決 意
生涯現役を志し、高齢社会に光を与え続けた105歳の内科医、日野原重明さんが18日、亡くなった。療養を続けていた自宅では、家族や関係者が最後の日々の様子を語り、知人からは悼む声が寄せられた。
家族によると、日野原さんは今年3月中旬に 誤嚥性ごえんせい 肺炎が見つかり、約1週間入院した。自宅で過ごしたいとの希望を受け、在宅で療養し、本人の意思で栄養点滴や人工呼吸器の使用など、延命措置もしなかった。
療養当初は「2020年の東京オリンピックまで生きたい」と話し、「食べることが元気になることだ」と食欲も旺盛だったという。
この1か月は、アイスクリームなどしかのどを通らなくなったが、「10月4日の106歳の誕生日には、庭でパーティーがしたい」と楽しみにしていた。17日から呼びかけに対する反応が乏しくなり、そのまま危篤状態に。同居する次男の直明さん(69)らに見守られ、眠るような最期だったという。
日野原さんは1970年、赤軍派のメンバーにハイジャックされた「よど号」に乗り合わせ、機内に一時拘束された経験がある。直明さんは、「その後は残された自分の命は社会のため、人のために使うのだという使命感が強くなった。死期は分かっていたと思う。最近はしきりに『ありがとう』と感謝の気持ちを周囲に伝えていた」と振り返った。
訃報ふほう を聞いた知人らからは、惜しむ声が寄せられた。
日野原さんが2000年に結成した元気な高齢者が集う「新老人の会」には、全国の会員から弔電が続々と届いた。各地での講演会に同行してきた 石清水いわしみず 由紀子事務局長(78)は「数週間前に電話でお話しした時は、『今年の秋からまた地方に行けるようリハビリをする』とおっしゃっていた。周囲に希望を与えてくれる方だった」としのんだ。
日野原さんの診察室で勤務した経験がある上智大看護学科の西山悦子教授(62)は「若い頃、献身的に患者さんを支える姿を間近で拝見した。先生には、神から与えられた才能を人々のために生かすべきだという信仰が、常に心の中にあったのだと思う」と語った。
*****************************************************************
2017.7.18 12:55
産経NewsURL=http://www.sankei.com/politics/news/170718/plt1707180022-n1.html
【 日 野 原 重 明 さ ん 死 去 】菅義偉官房長官
「 心 か ら 敬 意 と 感 謝 」日 野 原 さ ん 死 去 に
菅義偉官房長官は18日午前の記者会見で、聖路加国際病院名誉院長で医師の日野原重明さんが死去したことを受け、「100歳を超えてもなお生涯現役として、医学界の発展に尽くされた。心から敬意と感謝を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げる」と述べた。
菅氏は日野原さんについて「早くから予防医学の重要性に着目し、日本ではじめて人間ドックを開設された一人で、『生活習慣病』という言葉を提唱するなど、現在の日本医療の礎を築き上げてこられた一人だ」と功績をたたえた。
さらに平成7年の地下鉄サリン事件の際、同病院が多数の被害者を受け入れた経緯にも触れて、「被害者治療の拠点として、事件の被害拡大の防止に大きな貢献をされた。本当に素晴らしい、また偉大な功績をあげた方だ」としのんだ。
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
2017年7月18日 11時44分(最終更新 7月18日 13時21分)
毎日新聞NewsURL=https://mainichi.jp/articles/20170718/k00/00e/040/116000c
日 野 原 重 明 さ ん 召 天
命 は 人 の た め に ・ ・ ・
生 涯 現 役 を 貫 く
100歳を過ぎても現役の医師を続け、元気に活動できる高齢者の姿を体現してきた日野原重明・聖路加国際病院名誉院長が105歳で亡くなった。同病院に入ったのは、太平洋戦争が始まった1941年。戦中戦後の厳しい時代を若手医師として働いた経験から、一貫して平和の尊さや命の大切さを説いた。【下桐実雅子、永山悦子】
戦後70年を迎えた2015年、日野原さんは将来を担う子どもたちに向けて、著書「戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり」を出版した。自身の104歳の誕生日を前に車椅子に乗って記者会見し、「命と平和の尊さを次世代に語り継ぐことは大切な使命」と語っていた。
著書では、東京大空襲で大やけどを負った人々を診療したものの物資不足で救うことができなかった経験などをつづり「君たちも、戦争をしない平和な世界の実現を一緒に考えてほしい」と訴えた。
こうした経験を踏まえて決断したのが、95年の地下鉄サリン事件での迅速な負傷者受け入れ。外来の受け付けを止めて全職員が救急搬送される患者の手当てに当たり、軽症者には緊急事態に備えて酸素吸入ができるよう配管を整備していた廊下で処置をした。
87年から全国の小中学校で「いのちの授業」も続けており、200校以上を訪れた。子どもたちに、「命は生きている時間そのもの。大人になったら、自分の時間を誰かのために使ってほしい」と語り掛けてきた。
58歳の時には「よど号」ハイジャック事件(1970年)に巻き込まれて生き延びた。その経験から「命を人のために使おう」と考えるようになったという。
何歳になっても常に新しいことに挑戦する大切さも説いた。自身も88歳で、童話「葉っぱのフレディ」のミュージカル用の脚本を書き、ニューヨーク公演も実現させた。「医師になっていなければ、音楽の道に進んだかも」というほどの音楽好きでもあった。広島で指揮者の小澤征爾さん(81)と平和コンサートも開いた。
睡眠は1日4時間半ほど、食事は控えめという生活習慣を守り、講演や執筆、大学での講義、病院の回診も続けて生涯現役を貫いた。「医学部を作りたい。僕にはまだまだ夢がある」と語っていた。
*****************************************************************
2017年7月18日15時37分
朝日新聞デジタルURL=http://digital.asahi.com/articles/ASK7L36SMK7LUCLV003.html?rm=762
生 涯 現 役 の 日 野 原 さ ん
患 者 に 笑 顔 「 あ な た 、 大 丈 夫 ! 」
日野原さんは18日朝、東京・世田谷の自宅で、同居する次男の直明さん(69)、真紀さん(70)夫妻が見守るなか、息を引き取った。「延命治療を望まなかったので、胃ろうや呼吸器などは一切つけなかった。痛みも苦しみも全く訴えず、最期は静かに眠るように亡くなった」という。
特集:日野原重明さん
直明さんによると、日野原さんは3月23日の退院後、在宅で療養していた。その後は目玉焼きやトースト、嚥下食(えんげしょく)などを食べるなど元気を取り戻し、106歳の誕生日パーティーを自宅の庭で催すことを楽しみにしていたという。2日前までは家族が話しかけると返事ができていたが、「本人は医師だから、自分がまもなく他界するとはっきりわかっていたと思う。だから子どもたちや孫たちそれぞれと会話し、メッセージを託していた」と語る。
日野原さんは、名誉院長を務める聖路加国際病院で、100歳を超えた後も時間を見つけては入院病棟を回った。患者に気さくに声をかけ、末期がんの患者の人生の物語に丁寧に耳を傾ける。「あなた、大丈夫!」。笑顔とユーモアで死への不安をやわらげられた患者が、一時的にめざましい回復を見せることも少なくなかった。
多忙な日々を送りつつ、考え抜かれた食事法やストレッチを通じて筋力や姿勢の保持に努めた。2013年2月、背骨を構成する個々の骨、椎骨(ついこつ)が折れた。自ら先進技術であるセメント療法の被験者となり、2日後には歩き、数日後には講演へ。各地で高齢者に「骨折してもこの治療法がある」と薦めてみせた。
長寿と健康をテーマに、75歳以上の高齢者に呼びかけた「新老人の会」の活動は全国に広がった。会員らを前にした講演が年150回に及んだことも。聴衆との直接対話が「私という存在が多くの人に必要とされている証し。生きがいそのもの」と話していた。
小学校への「いのちの授業」の出前も10年以上に及んだ。聴診器を渡して子ども同士の心臓の鼓動を聞かせ、「命って何?」「なぜいじめはいけないの?」と語りかけ、未来を担う世代に命の尊さを教えた。同じ考えから、米国の絵本「葉っぱのフレディ」を、自ら企画・原案を手がけてミュージカル化したこともあった。
平和への思いも強かった。著書などで、日本国憲法、中でも9条の掲げる理念の重要性を説き、報復と暴力の連鎖を憂えた。沖縄の米軍基地撤退や日本の非武装化も訴えていた。旧海軍軍医としての経験もあり、「戦争への反省の気持ちが薄くなっている。戦争は破壊以外の何ものでもない。プラスのものは何も生じない」とはっきりした口調で語っていた。戦後70年の15年7月に朝日新聞のインタビューで、病院のロビーで終戦の玉音放送を聴いたときの体験を語った。「職員はみんなすすり泣いていた。『これで戦争が終わった』と実感した」と振り返った。首尾一貫した活動を支えたのが、プロテスタントとしての信念だ。父は幾度も米国に渡った牧師だった。
大事件に遭遇した体験が、前向きな生き方に拍車をかけた。人質となった1970年のよど号ハイジャック事件。解放後、壮絶なストレスをプラスに転化して「『再生』した」とつづった。95年の地下鉄サリン事件では、大勢の被害者が運び込まれた聖路加国際病院で陣頭指揮にあたった。
皇室とも長い交流があった。特に皇后さまとは母・正田富美子さんの主治医を務めた縁もあり、公私ともに親しかった。昨年7月、皇后さまは日野原さんがプロデュースしたコンサートに出席。並んで鑑賞し、終了後には日野原さんが感極まった表情で皇后さまと抱擁する場面もみられた。昨年11月、朝日新聞の取材に、過去に皇后さまにがん患者などへの対応の仕方をアドバイスしていたと明かした。「ベッドの上から見下ろすような態度はよくない。ひざをついて患者と目線を同じにしてあいさつをしたほうがいい」と助言し、皇后さまはその通りに実践していたという。
昨年10月に逝去した故・三笠宮さまとも親交が深かった。三笠宮さまは日野原さんが名誉院長を務める聖路加国際病院で亡くなったが、日野原さんは取材に「とにかく最後まで生きようとする意志が強かった。軍隊に行かれたり、色んなトレーニングを受けられたりした結果でしょう」と話していた。
01年には、著書「生きかた上手」がベストセラーに。朝日新聞の週末別刷り「be」には翌年から、エッセー「あるがまゝ行く」を連載してきた。昨年後半から口述筆記になるまでは、原稿用紙に細いペンで書き下ろし、ゲラにも自筆でチェックを入れた。
そのbeの10周年の記念講演会では、いつも講演でそうするように、ステージで立ちっぱなしだった。ステージを右に左に闊歩(かっぽ)。「生きている今このときの大切さ」を語りかけ、司会者の女性に感謝の「ハグ」をするちゃめっ気もみせた。「舞台に立つと、皆さんを喜ばせたくて、なぜかエンターテイナーのような気持ちになる」と語っていた。
最近は外出時に車いすを使うことが増えた。それでも、10年分書き込める「10年日記」を愛用し、東京五輪が開かれる20年までの予定を書き込んでいた。今年3月に体調を崩し、本人や家族の申し出により、beの毎週の連載は6月以降、4週間に1度になっていた。
「不思議だね、年を取ると、心が子どもの頃に戻るの」。そう目を輝かせ、書きためてきた詩や俳句を足がかりに新著を世に出し、童話作家、童謡作家、俳人になるという夢を追いかけていた。
*****************************************************************
2017年7月19日ニュース・解説
YOMIURI ONLINE URL=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170719-OYTET50005/
[日野原重明さん死去]
残 っ た 命 、 人 の た め に・・・
「 よ ど 号 」 拘 束 経 て 決 意
生涯現役を志し、高齢社会に光を与え続けた105歳の内科医、日野原重明さんが18日、亡くなった。療養を続けていた自宅では、家族や関係者が最後の日々の様子を語り、知人からは悼む声が寄せられた。
家族によると、日野原さんは今年3月中旬に 誤嚥性ごえんせい 肺炎が見つかり、約1週間入院した。自宅で過ごしたいとの希望を受け、在宅で療養し、本人の意思で栄養点滴や人工呼吸器の使用など、延命措置もしなかった。
療養当初は「2020年の東京オリンピックまで生きたい」と話し、「食べることが元気になることだ」と食欲も旺盛だったという。
この1か月は、アイスクリームなどしかのどを通らなくなったが、「10月4日の106歳の誕生日には、庭でパーティーがしたい」と楽しみにしていた。17日から呼びかけに対する反応が乏しくなり、そのまま危篤状態に。同居する次男の直明さん(69)らに見守られ、眠るような最期だったという。
日野原さんは1970年、赤軍派のメンバーにハイジャックされた「よど号」に乗り合わせ、機内に一時拘束された経験がある。直明さんは、「その後は残された自分の命は社会のため、人のために使うのだという使命感が強くなった。死期は分かっていたと思う。最近はしきりに『ありがとう』と感謝の気持ちを周囲に伝えていた」と振り返った。
訃報ふほう を聞いた知人らからは、惜しむ声が寄せられた。
日野原さんが2000年に結成した元気な高齢者が集う「新老人の会」には、全国の会員から弔電が続々と届いた。各地での講演会に同行してきた 石清水いわしみず 由紀子事務局長(78)は「数週間前に電話でお話しした時は、『今年の秋からまた地方に行けるようリハビリをする』とおっしゃっていた。周囲に希望を与えてくれる方だった」としのんだ。
日野原さんの診察室で勤務した経験がある上智大看護学科の西山悦子教授(62)は「若い頃、献身的に患者さんを支える姿を間近で拝見した。先生には、神から与えられた才能を人々のために生かすべきだという信仰が、常に心の中にあったのだと思う」と語った。
*****************************************************************
2017.7.18 12:55
産経NewsURL=http://www.sankei.com/politics/news/170718/plt1707180022-n1.html
【 日 野 原 重 明 さ ん 死 去 】菅義偉官房長官
「 心 か ら 敬 意 と 感 謝 」日 野 原 さ ん 死 去 に
菅義偉官房長官は18日午前の記者会見で、聖路加国際病院名誉院長で医師の日野原重明さんが死去したことを受け、「100歳を超えてもなお生涯現役として、医学界の発展に尽くされた。心から敬意と感謝を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げる」と述べた。
菅氏は日野原さんについて「早くから予防医学の重要性に着目し、日本ではじめて人間ドックを開設された一人で、『生活習慣病』という言葉を提唱するなど、現在の日本医療の礎を築き上げてこられた一人だ」と功績をたたえた。
さらに平成7年の地下鉄サリン事件の際、同病院が多数の被害者を受け入れた経緯にも触れて、「被害者治療の拠点として、事件の被害拡大の防止に大きな貢献をされた。本当に素晴らしい、また偉大な功績をあげた方だ」としのんだ。