日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &  
       NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ  活 動 で 
                ご  支  援  く  だ  さ  る   会  員  皆  様


「生涯現役・奇跡の今昔物語」第6話
  第 6 話  「 第 二 の 人 生 」  か  「 定 年 後 」  か
                             2017年6月17日 高橋育郎
 昭和51年に、城山三郎が「毎日が日曜日」を刊行し、その後文庫本になったりして、評判になり、昭和60年頃には時代を反映してかベストセラーになった。そのあおりで耕太は確か61年に講読した。

 ある大手企業を退職した主人公が、明日は定年の日、もう会社に出勤しなくてよいとなった前日に、開放感から「万歳」を叫んで喜んだのだ。朝は時間を気にしなくてよい。ゆっくり食事をして、一日のんびりと暮らす。それがうれしく、思わず万歳をしてしまったのだ。しかし、そんな生活が果たして幸せなのか。反動的に反省が生まれた。

 「亭主元気で留守がいい」など、奥方からは揶揄され邪魔者扱いされる風潮が生まれるに至った。そして耕太が退職した63年頃には「第二の人生」がさかんに言われるようになった。定年退職して、第二の人生に移行したとき、家にいて退屈するより、生き甲斐を持って、自分らしさを発揮し活動できるほうが好ましいといった考え方が出てきた。いうなれば「生涯現役」である。しかし、耕太はまだその言葉を知らない。

 知ったのは、前にも言ったとおり、全くの偶然から東瀧代表に巡り会ったことからである。昭和63年12月であった。まさに、そこに待っていたのは、第二の人生に必要なことは生涯現役であるということだった。言い換えれば、それこそ時代の要請に叶った考え方、教えだったのだ。

 耕太は、ここライフ・ベンチャー・クラブでイベント企画の仕事をさせてもらい、名刺に「生涯現役」を刷り込んで、まずは古巣の千葉鉄道管理局へ出かけた。そこで名刺を差し出すと、「生涯現役とは、何ですか」と質問攻めにあった。まだ、世間ではほとんど知られていなかったのだ。それから2年ほどして読売新聞が「生涯現役」という見出しで、人物紹介欄を設けた。

 そこで私はすぐに代表へそのことを告げた。実はこの言葉は商標登録をしていたのだ。ところが代表の反応は平然たるもので、「この言葉を広く知ってもらうほうが好ましいから、使いたい人はどんどん使えばいい」というもので、耕太は唖然とした。ほかにも何人かが言い出したのであるが答えは同じだった。これが皮切りになって功を奏したかのように「生涯現役」は次第にといおうか、瞬く間にといおうか、世に知られるようになったのである。

 今年は生まれて33年になる生涯現役は、いまや知らぬ人いない。そして今年、平成29年は「定年後」なる本が現れた。第二の人生を口にする人は、見かけなくなった。時代は変わっていくのだ。定年は耕太の時代は55歳。それが60歳になり、平成10年代には65歳にとめまぐるしく延長していき、第二の人生の共通感覚が薄れてきたのであろう。

 ちなみに、耕太は65歳で第二の職場を停年退職した。思えば時代は変わっても「生涯現役」は輝きを失ってはいない。この魅力ある言葉をもっと広め、深めたい思う昨今である。