障害者・健常者の境目:無くす意識は?
2017年10月24日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
「生涯現役人生」に不可欠な心意気・健康・サムマネーの必要性が語られるのは当然ですが、今回の表題には、「障害者」として、または「健常者」として、私たちは「生涯現役実践」の立場で、サイボーグ活用の場合など、正面からこれに取り組む姿勢を問われていると存じます。『生涯現役プロデューサー』仮登録諸兄姉皆様のお考えなど伺いたいものです。
朝日新聞デジタル〔経済季評〕ご参考URL=http://www.asahi.com/articles/DA3S13190016.html?ref=opimag1710_sp_con_mailm_1024_24
障 害 者 と 健 常 者 の 境 目
な く す の は 私 た ち の 意 識 50歳を過ぎて、それまでサッカーを続けていた私にも急速に身体の不具合が出始めた。腰を痛める、黒板の文字がにじみ、見えにくい。極め付きは、難病罹患(りかん)による心臓機能の低下である。
ペースメーカーを入れ、障害者手帳も取得した。とはいえ、だれも事情を説明するまでは、そして人によっては事情がわかっても、私のことを「障害者」とは思わない。なぜか。障害者と健常者の境目は何か。いくつかの例を考察しながら、「障害」という言葉の意味を探っていきたい。
筋電義手は僕の友達 7歳、猛特訓で縄跳び飛べた
SFでは、身体機能の一部を機械に置き換えた人間、すなわちサイボーグ【サイバネティック・オーガニズムの略で、広義の意味では生命体と自動制御系の技術を融合させたものを指す。具体例として、人工臓器などの人工物を身体に埋め込むなど、身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させたものがある/ウィキペディア】が活躍するという話がめずらしくない。
士郎正宗の漫画「攻殻機動隊」もそんなSFだ。主人公は、ほぼ全身がサイボーグの草薙素子。「公安9課」に属し、他の部署では扱えない事件を解決していく。素子は現在の福祉行政の観点からすれば、人工心臓や人工関節、義肢などを兼ね備えた「重複障害者」である。しかし、クールでかっこいい彼女を「少佐」と呼ぶ部下はいても、「障害者」と呼ぶ人はいない。
サイボーグはSFの中だけの話ではない。サイボーグ化は、着々と私たちの周りに根付きつつある。たとえば私が装着したペースメーカーを考えてみよう。20世紀半ばには身体からリード線を出して外部の「装置」につなげていたペースメーカーも、今では、手のひらで覆えるくらいの機器を体内に植え込んで、リード線を心臓につなぐだけ。なかには、植え込み型除細動器(ICD)もある。公共施設や建物に設置されている自動体外式除細動器(AED)と同じ機能を備えたものだ。
*
かくいう私も正確にはICD装着者だが、それによって心臓発作のリスクが小さくなった。検査も医師と技師が共同で行う。こうなると、治療というよりメンテナンスに近い。まさに強化型サイボーグと言ってよい。確かにデータ通信によって日々機器のモニタリングがなされ、時折呼び出しはかかる。しかし、私に関して言えば、素子のセリフ同様、「最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃない」のである。
身近なサイボーグ化の例は、他にもある。義足もその一つだ。昨年のリオデジャネイロオリンピックとパラリンピックでは、義足を装着した走り幅跳び選手のマルクス・レームが話題となった。
物議をかもしたのは、彼の記録だ。2015年の障害者の世界選手権で、なんと8メートル40という記録を達成した。12年のロンドン五輪の優勝者の記録である8メートル31を、9センチ上回る大記録だった。注目は彼の努力と能力ではなく、カーボン製の義足という道具に集まる。
そして、彼に対する称賛は批判に変わる。健常者よりも有利な道具を使ったというのだ。また、オリンピックとパラリンピックは「同一条件」にこだわる。レームは最終的に、熱望していたオリンピック出場を断念し、パラリンピックで優勝している。彼に対する批判の裏側には、「障害者は定義により、健常者より優れていてはならない」という暗黙の前提=先入観があったのではないか。
*
道具という点では、眼鏡だって福祉用具だ。眼鏡は、場合によっては、あれば障害者、なければ「ふつう」の人になるという点で、政府の輸出入統計では福祉用具に含まれる。いまでこそ日本人の多くが当たり前のようにかけているが、歴史をひもとくと面白い。「眼鏡の社会史」によると、13世紀ヨーロッパではすでに眼鏡が使用されていた。当時、眼鏡は悪魔の道具と考えられていた。「神の与え給(たも)うた苦痛は、その人間の魂の幸せのため、じっと耐えるべきものであり、それを妨げる機械類は悪魔のしわざである」
眼鏡は、本の大量生産と識字率の上昇とともに普及する。多くの人がその実用性から眼鏡を使うようになると、「悪魔の道具」としてのマイナスイメージも払拭(ふっしょく)され、大量生産の時代に入っていく。人々の意識が変わっていったのだ。
眼鏡がないと競技ができない人と、義足がないと競技ができない人との間に概念的な差異はない。障害は、社会が規定する。レームの夢はオリンピックに出場することだという。オリンピックの中に義足部門をつくってもよいと思う。夢をより大きく持つならば、オリンピックとパラリンピックの統合だってあり得るのではないか。
実用性や必需性という点でみると、多くの人にとっての眼鏡と、一部の人にとってのペースメーカーや義肢といった障害者用の医療・福祉機器との間に、差はない。街中にかっこいい眼鏡をかけた人たちが歩くように、街中がかっこいい車椅子であふれ、かっこいい義足をつけたアスリートたちがオリンピックで活躍すれば、「障害」という言葉も人を分け隔てする意味では使われなくなっていく。社会は変わる。その社会を変えていくのは、経済発展や技術進歩だけではない。私たちの意識が、「障害者と健常者の境目」を取り除いていくのだ。
◇
松井彰彦(まつい・あきひこ)氏/1962年生まれ。東京大学教授。研究テーマは障害と経済、ゲーム理論。著書に「慣習と規範の経済学」など。
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ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
「生涯現役人生」に不可欠な心意気・健康・サムマネーの必要性が語られるのは当然ですが、今回の表題には、「障害者」として、または「健常者」として、私たちは「生涯現役実践」の立場で、サイボーグ活用の場合など、正面からこれに取り組む姿勢を問われていると存じます。『生涯現役プロデューサー』仮登録諸兄姉皆様のお考えなど伺いたいものです。
朝日新聞デジタル〔経済季評〕ご参考URL=http://www.asahi.com/articles/DA3S13190016.html?ref=opimag1710_sp_con_mailm_1024_24
障 害 者 と 健 常 者 の 境 目
な く す の は 私 た ち の 意 識 50歳を過ぎて、それまでサッカーを続けていた私にも急速に身体の不具合が出始めた。腰を痛める、黒板の文字がにじみ、見えにくい。極め付きは、難病罹患(りかん)による心臓機能の低下である。
ペースメーカーを入れ、障害者手帳も取得した。とはいえ、だれも事情を説明するまでは、そして人によっては事情がわかっても、私のことを「障害者」とは思わない。なぜか。障害者と健常者の境目は何か。いくつかの例を考察しながら、「障害」という言葉の意味を探っていきたい。
筋電義手は僕の友達 7歳、猛特訓で縄跳び飛べた
SFでは、身体機能の一部を機械に置き換えた人間、すなわちサイボーグ【サイバネティック・オーガニズムの略で、広義の意味では生命体と自動制御系の技術を融合させたものを指す。具体例として、人工臓器などの人工物を身体に埋め込むなど、身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させたものがある/ウィキペディア】が活躍するという話がめずらしくない。
士郎正宗の漫画「攻殻機動隊」もそんなSFだ。主人公は、ほぼ全身がサイボーグの草薙素子。「公安9課」に属し、他の部署では扱えない事件を解決していく。素子は現在の福祉行政の観点からすれば、人工心臓や人工関節、義肢などを兼ね備えた「重複障害者」である。しかし、クールでかっこいい彼女を「少佐」と呼ぶ部下はいても、「障害者」と呼ぶ人はいない。
サイボーグはSFの中だけの話ではない。サイボーグ化は、着々と私たちの周りに根付きつつある。たとえば私が装着したペースメーカーを考えてみよう。20世紀半ばには身体からリード線を出して外部の「装置」につなげていたペースメーカーも、今では、手のひらで覆えるくらいの機器を体内に植え込んで、リード線を心臓につなぐだけ。なかには、植え込み型除細動器(ICD)もある。公共施設や建物に設置されている自動体外式除細動器(AED)と同じ機能を備えたものだ。
*
かくいう私も正確にはICD装着者だが、それによって心臓発作のリスクが小さくなった。検査も医師と技師が共同で行う。こうなると、治療というよりメンテナンスに近い。まさに強化型サイボーグと言ってよい。確かにデータ通信によって日々機器のモニタリングがなされ、時折呼び出しはかかる。しかし、私に関して言えば、素子のセリフ同様、「最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃない」のである。
身近なサイボーグ化の例は、他にもある。義足もその一つだ。昨年のリオデジャネイロオリンピックとパラリンピックでは、義足を装着した走り幅跳び選手のマルクス・レームが話題となった。
物議をかもしたのは、彼の記録だ。2015年の障害者の世界選手権で、なんと8メートル40という記録を達成した。12年のロンドン五輪の優勝者の記録である8メートル31を、9センチ上回る大記録だった。注目は彼の努力と能力ではなく、カーボン製の義足という道具に集まる。
そして、彼に対する称賛は批判に変わる。健常者よりも有利な道具を使ったというのだ。また、オリンピックとパラリンピックは「同一条件」にこだわる。レームは最終的に、熱望していたオリンピック出場を断念し、パラリンピックで優勝している。彼に対する批判の裏側には、「障害者は定義により、健常者より優れていてはならない」という暗黙の前提=先入観があったのではないか。
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道具という点では、眼鏡だって福祉用具だ。眼鏡は、場合によっては、あれば障害者、なければ「ふつう」の人になるという点で、政府の輸出入統計では福祉用具に含まれる。いまでこそ日本人の多くが当たり前のようにかけているが、歴史をひもとくと面白い。「眼鏡の社会史」によると、13世紀ヨーロッパではすでに眼鏡が使用されていた。当時、眼鏡は悪魔の道具と考えられていた。「神の与え給(たも)うた苦痛は、その人間の魂の幸せのため、じっと耐えるべきものであり、それを妨げる機械類は悪魔のしわざである」
眼鏡は、本の大量生産と識字率の上昇とともに普及する。多くの人がその実用性から眼鏡を使うようになると、「悪魔の道具」としてのマイナスイメージも払拭(ふっしょく)され、大量生産の時代に入っていく。人々の意識が変わっていったのだ。
眼鏡がないと競技ができない人と、義足がないと競技ができない人との間に概念的な差異はない。障害は、社会が規定する。レームの夢はオリンピックに出場することだという。オリンピックの中に義足部門をつくってもよいと思う。夢をより大きく持つならば、オリンピックとパラリンピックの統合だってあり得るのではないか。
実用性や必需性という点でみると、多くの人にとっての眼鏡と、一部の人にとってのペースメーカーや義肢といった障害者用の医療・福祉機器との間に、差はない。街中にかっこいい眼鏡をかけた人たちが歩くように、街中がかっこいい車椅子であふれ、かっこいい義足をつけたアスリートたちがオリンピックで活躍すれば、「障害」という言葉も人を分け隔てする意味では使われなくなっていく。社会は変わる。その社会を変えていくのは、経済発展や技術進歩だけではない。私たちの意識が、「障害者と健常者の境目」を取り除いていくのだ。
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松井彰彦(まつい・あきひこ)氏/1962年生まれ。東京大学教授。研究テーマは障害と経済、ゲーム理論。著書に「慣習と規範の経済学」など。