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2017/10/1 1:14日本経済新聞 電子版

   「 国 策 会 社 」 東 芝 、 日 本 を 映 す 統 治 不 全

 日本のインフラ整備と家電産業の中心を担った名門、東芝。存亡がかかった虎の子、半導体事業の売却契約は結んだが、危機はまだくすぶる。会計不祥事からもう3年。東芝危機とは一体何だったのか。

■ 「 決 め ら れ な い 」
 「自分たちだけでは決められない」。東芝の綱川智社長は半導体売却の調整の中で何度もそう口にした。事業はどこに売るか。そもそも売却はすべきなのか。官邸、監督官庁、銀行と調整先はあまりに多岐にわたった。

 経営危機の原因は企業統治をないがしろにした歴代社長の暴走、不作為にあったはずだった。だが当該の西田厚聡、佐々木則夫、田中久雄の3氏が去っても東芝の企業統治は機能不全のままだ。

 3氏を巡っては現在、東京など4地裁で裁判が続く。だが、争点の2300億円超の利益水増しは危機のほんの端緒にすぎず、本丸部分の米原子力子会社ウエスチングハウス(WH)の関連では、東芝は3人の退社後に1兆円を超す減損処理を迫られている。

 重い代償だ。半導体事業を売れば、東芝には特徴の少ない事業だけが残り、出直しが難しい。そのうえ、経済産業省には幹部直轄の東芝対策窓口ができ、今後も経営に陰に陽に影響が及びそうだ。

 「東芝の悲劇」。51年前に出版された書物に興味深い話が出てくる。1960年代初め、東芝に転じた財界重鎮で会長の石坂泰三氏と生え抜きの岩下文雄社長が対立、人事抗争の末に経営が悪化した。同書によれば、危機の背景は「たこつぼ化した縦割り組織、派閥経営、官への依存体質」だった。状況は現在と多くが重なる。

 混乱を収拾したのは石坂氏が招き入れた当時石川島播磨重工業(現IHI)会長の土光敏夫氏だった。「ミスター合理化」「荒法師」などと言われ、東芝の後は経団連や「第二臨調」会長も務めた同氏は対立を封印して組織の融和や権限の委譲を進め、いざなぎ景気にも乗って業績を急回復させる。

 だが、「石川島の3倍もある大所帯だから病根を探すのがたいへん」といみじくも指摘した通り、東芝の重い病は完治したわけではなかった。例えば「チャレンジ・レスポンス」という言葉が土光時代にあった。本来は従業員の自主性を促すためのスローガンであり、「失敗したら社内全体で早期に議論を尽くし、改善にあたる」を意味した。後年、3社長の時代になるとチャレンジは「過度な目標を強いる」「業績を取り繕う」に曲げられていく。

 変われなかった東芝。とりわけ根深く残ったのは統治不全で銀行、政財界、役所の横やりを受けやすい体質と官民一体の意思決定メカニズムでもあった。

 例えば、東芝の売上高の半分以上は現在も電力会社や自治体、防衛省向けの製品、サービスだ。電力は経産省と東京電力で絵を描き、東芝が製造する。そんな分業のヒエラルキーが色濃く表れ、進んだのが西田氏時代のWH買収でもあった。

 リーマン・ショックや東日本大震災、原発事故は事業を軌道修正すべき節目だった。だが、東芝は「原発輸出」の旗を降ろさなかった。国の大方針は動き出しており、東芝には止めようがない。東芝は国策の一部を担う「機関」と化し、その一方で、液晶など不採算事業の再編や海外企業買収では国の資金を頼った。

■ 戦 線 だ け 拡 大
 かつては自動車と並ぶ輸出の両輪だった家電産業。現在では大半の分野で輸入超過が常態化しており、そんな中で注目されたのが原発輸出だった。だが、東芝の海外展開は輸出の延長としての国際化であり、グローバル化ではなかった。世界で通用するリーダーを育てず、戦線だけ拡大しても買収先を統治できなかったのは当然である。

 「飛ばし」と呼ばれた簿外取引で山一証券が自主廃業に追い込まれたのはちょうど20年前だ。日本の仕組みでのみ通用した経営と経営者、統治不在の組織。その構図は東芝をみる限り、今も根づく。IT(情報技術)革命を謳歌する米国とは対照的に、成長産業を生めない日本の現状を、東芝を取り巻く「変わらぬ構図」がいやがおうにも浮かび上がらせる。(本社コメンテーター 中山淳史)