草野氏『生涯現役を貫くには・・・』語る③
2015年9月25日 お仕事草 野 仁(71)= キ ャ ス タ ー =
生 涯 現 役 を 貫 く に は 、
ど ん な 仕 事 で も 必 死 に
取 り 組 み 、 少 し ア バ ウ ト に ・ ・ ・
山下選手には、帰国した後にいろいろ話を聞きました。決勝の相手の(モハメド・)ラシュワンというエジプトの選手は、よく練習で日本に来ていたなじみのある相手だったそうです。ラシュワン選手は、決勝で山下選手の負傷している足を攻めなかったことを評価されて、ユネスコのフェアプレー賞をもらいました。彼がフェアに戦ったのは事実でしょうが、後で山下選手に聞いたら「いや、間違いなく足を狙ってきましたよ」と話していましたけどね(笑)。
5年後には再び東京に五輪がやってきます。かつての東京五輪のときは大学2年生。知人から入場券をいただいて、10月10日の開会式を国立競技場で見ました。2020年の東京五輪は76歳。その年齢でテレビ局が使ってくれるとは思えませんが、仕事で参画できたらうれしいです。まだまだ現場リポートを含めてやろうと思えばできるぞ、と思ってはいるんですよ。
〈ロサンゼルス五輪翌年の昭和60年にNHKを退局。その翌年には今年30年目を迎えた「日立 世界ふしぎ発見!」(TBS系)がスタートした〉
最初に「世界ふしぎ発見!」の依頼をいただいたときはお断りしたんです。ところが企画書をいただき、制作会社の方と話すうちに「やってみようか」と思えてきました。というのは、企画書やお話によると、「歴史は人間の行動の集積だ。知識を問うのではなく、『あなたがそこにいたとしたら、どう考え、行動するか?』と考える娯楽番組にしたい」ということでした。だんだん「これは面白そうだ」と思えてきたのです。
「 生 涯 現 役 」 で い ら れ る た め に
〈初めて手がけたバラエティー番組「日立 世界ふしぎ発見!」(TBS系)は今年で30年目を迎えた〉
これだけ続いているのは強力で温かいスポンサーのおかげですね。日立製作所は番組にとても大きな愛情を抱いてくれています。例えば昭和61年5月3日、3回目の放送でのこと。連休中でテレビを見る人が少なく、さらにインドネシアの仏教遺跡、ボロブドゥール遺跡という難しいテーマだったこともあり、少しずつ上がっていた視聴率ががくっと落ちたんです。
ところが、当時の日立の宣伝部長は「皆さんは『歴史と楽しく遊ぶ』というコンセプトで番組をやっていくと決意したのでしょう? その道をしっかり進んでくれればいい。慌てる必要はない」とおっしゃった。あの言葉がなければ、この番組も早く終わっていたでしょう。黒柳徹子さんや私自身も含め、出演者がみな元気であったということもありますね。特に黒柳さんは卓越したエネルギーの持ち主です。
〈同番組では優雅な着物姿で、高い正答率を誇る黒柳さんには人知れぬ努力があった〉
黒柳さんも一度は出演を断られたんです。でも、番組のコンセプトを説明すると1週間後に「出ます」とおっしゃった。当時彼女は52歳でしたが、「地理も歴史もあまり知識がないので、この機会に腰を据えて勉強してみたい」と。条件として一つだけ、「前の週に翌週分の大まかなテーマだけを教えてほしい。それで自分なりに準備したい」と提案されました。
彼女は実際に毎週、勉強してこられました。一度真っ赤な目で収録にいらしたことがありました。前の晩、仕事を終えた夜10時から午後の収録の直前まで、一睡もせず本を読んでいたそうです。そうした地道な努力の積み重ねがあってこそ、80歳を超えてなお、芸能界の第一線を張れるのですね。
〈近著『老い駆けろ!人生』(角川新書)では、枯れることなく人生を謳歌(おうか)する素晴らしさを訴えた〉
70歳を超えましたが、やりたいことはたくさんあります。まず料理。私は「男子厨房(ちゅうぼう)に入らず」なんてことをやってきた人間ですが、食生活は大事。家内がいないときには昼ご飯くらいは作れるようにならなければ。
もう一つはオファーを待つのではなく、話すことを生かして何かビジネスができたら、と。スポーツの分野を長くやってきたので、かつての世界のスーパースターたちともう一度対面して、彼らの強さの根源を探ってみたいですね。
本にも書いたのですが、生涯現役を貫くには、どんな仕事でも必死に取り組むことが必要。それが生きがいにつながるからです。とはいえ、あまりに完璧にやろうとすると重荷になってしまいます。少しアバウトに、大胆に考えて続けること。それが充実した人生を全うする秘訣(ひけつ)ではないでしょうか。(聞き手 戸谷真美)
生 涯 現 役 を 貫 く に は 、
ど ん な 仕 事 で も 必 死 に
取 り 組 み 、 少 し ア バ ウ ト に ・ ・ ・
山下選手には、帰国した後にいろいろ話を聞きました。決勝の相手の(モハメド・)ラシュワンというエジプトの選手は、よく練習で日本に来ていたなじみのある相手だったそうです。ラシュワン選手は、決勝で山下選手の負傷している足を攻めなかったことを評価されて、ユネスコのフェアプレー賞をもらいました。彼がフェアに戦ったのは事実でしょうが、後で山下選手に聞いたら「いや、間違いなく足を狙ってきましたよ」と話していましたけどね(笑)。
5年後には再び東京に五輪がやってきます。かつての東京五輪のときは大学2年生。知人から入場券をいただいて、10月10日の開会式を国立競技場で見ました。2020年の東京五輪は76歳。その年齢でテレビ局が使ってくれるとは思えませんが、仕事で参画できたらうれしいです。まだまだ現場リポートを含めてやろうと思えばできるぞ、と思ってはいるんですよ。
〈ロサンゼルス五輪翌年の昭和60年にNHKを退局。その翌年には今年30年目を迎えた「日立 世界ふしぎ発見!」(TBS系)がスタートした〉
最初に「世界ふしぎ発見!」の依頼をいただいたときはお断りしたんです。ところが企画書をいただき、制作会社の方と話すうちに「やってみようか」と思えてきました。というのは、企画書やお話によると、「歴史は人間の行動の集積だ。知識を問うのではなく、『あなたがそこにいたとしたら、どう考え、行動するか?』と考える娯楽番組にしたい」ということでした。だんだん「これは面白そうだ」と思えてきたのです。
「 生 涯 現 役 」 で い ら れ る た め に
〈初めて手がけたバラエティー番組「日立 世界ふしぎ発見!」(TBS系)は今年で30年目を迎えた〉
これだけ続いているのは強力で温かいスポンサーのおかげですね。日立製作所は番組にとても大きな愛情を抱いてくれています。例えば昭和61年5月3日、3回目の放送でのこと。連休中でテレビを見る人が少なく、さらにインドネシアの仏教遺跡、ボロブドゥール遺跡という難しいテーマだったこともあり、少しずつ上がっていた視聴率ががくっと落ちたんです。
ところが、当時の日立の宣伝部長は「皆さんは『歴史と楽しく遊ぶ』というコンセプトで番組をやっていくと決意したのでしょう? その道をしっかり進んでくれればいい。慌てる必要はない」とおっしゃった。あの言葉がなければ、この番組も早く終わっていたでしょう。黒柳徹子さんや私自身も含め、出演者がみな元気であったということもありますね。特に黒柳さんは卓越したエネルギーの持ち主です。
〈同番組では優雅な着物姿で、高い正答率を誇る黒柳さんには人知れぬ努力があった〉
黒柳さんも一度は出演を断られたんです。でも、番組のコンセプトを説明すると1週間後に「出ます」とおっしゃった。当時彼女は52歳でしたが、「地理も歴史もあまり知識がないので、この機会に腰を据えて勉強してみたい」と。条件として一つだけ、「前の週に翌週分の大まかなテーマだけを教えてほしい。それで自分なりに準備したい」と提案されました。
彼女は実際に毎週、勉強してこられました。一度真っ赤な目で収録にいらしたことがありました。前の晩、仕事を終えた夜10時から午後の収録の直前まで、一睡もせず本を読んでいたそうです。そうした地道な努力の積み重ねがあってこそ、80歳を超えてなお、芸能界の第一線を張れるのですね。
〈近著『老い駆けろ!人生』(角川新書)では、枯れることなく人生を謳歌(おうか)する素晴らしさを訴えた〉
70歳を超えましたが、やりたいことはたくさんあります。まず料理。私は「男子厨房(ちゅうぼう)に入らず」なんてことをやってきた人間ですが、食生活は大事。家内がいないときには昼ご飯くらいは作れるようにならなければ。
もう一つはオファーを待つのではなく、話すことを生かして何かビジネスができたら、と。スポーツの分野を長くやってきたので、かつての世界のスーパースターたちともう一度対面して、彼らの強さの根源を探ってみたいですね。
本にも書いたのですが、生涯現役を貫くには、どんな仕事でも必死に取り組むことが必要。それが生きがいにつながるからです。とはいえ、あまりに完璧にやろうとすると重荷になってしまいます。少しアバウトに、大胆に考えて続けること。それが充実した人生を全うする秘訣(ひけつ)ではないでしょうか。(聞き手 戸谷真美)