草野氏『生涯現役を貫くには・・・』語る②
2015年9月24日 お仕事草 野 仁(71)= キ ャ ス タ ー =
生 涯 現 役 を 貫 く に は 、
ど ん な 仕 事 で も 必 死 に
取 り 組 み 、 少 し ア バ ウ ト に ・ ・ ・
これは自分が父親になり、2人の男の子を育てるときに役立ちました。父のようなスパルタをやるには、“子供に隙を見せる父親”では説得力がありません。実際私は、常に仕事をしている一徹な父しか見たことがないんです。いいかげんなところのある自分には、スパルタの実践はとても無理。だから「息子たちの “ 先輩 ” として、心配事や悩み事を引き受けてやれる男になろう」と思いました。家族4人が何を考え、どうしたいか、何をしてほしいか。そういったことを率直に言い合える環境をつくろう、と。だから会社で起きた嫌なこともうれしかったことも、洗いざらい家内や子供たちの前で披瀝(ひれき)しました。そして家内も、それを受け止めて収拾役をやってくれたのです。その結果、何とか親子関係が難しくなることなしに、やってこられました。
“ 5 0 秒 の 壁 ” 突 破 の 瞬 間
〈NHKに入局したのは昭和42年。報道記者志望だったがアナウンサーに。スポーツを担当したのには理由があった〉
報道記者を志したくらいですから、最初のうちはアナウンサーとしても報道番組に関わりたいと思っていました。ですが、すぐに限界が見えました。
最初に配属されたのは鹿児島放送局です。当時、鹿児島には東大の宇宙空間観測所(現JAXA内之浦宇宙空間観測所)があり、国産ロケット打ち上げという話題がありました。そこで鹿児島局発で1時間くらいの報道番組を作ります。番組では、ずっと国産ロケットを取材している社会部の記者と解説者を相手に、担当アナウンサーが話を引き出していく。つまりアナウンサーはタイムキーパーにすぎないのです。
しかしなんと、このときの担当は小谷伝さんという方。「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを長く務められた小谷真生子さんのお父さんで、宇宙工学の専門知識も豊富な方でした。その小谷さんがご自身の知識を一切封印して、何も知らない立場から番組を回していく。「これはつらい役回りだ」と思いました。
じゃあ、アナウンサーとして能動的、有機的に仕事ができそうな分野は何か、と考えるとスポーツでした。スポーツだけはラジオの時代から、アナウンサーが取材者であり、表現者でもあったのです。そこで、「スポーツアナウンスの分野で東京の本局に戻ろう」と自分なりに戦略を立てました。
〈鹿児島から福岡、大阪両放送局をへた入局9年目、スポーツアナとしての実績が認められ、32歳でモントリオール五輪(1976年、カナダ)の担当に抜擢(ばってき)された〉
私の担当競技は水泳、レスリング、柔道でした。ラジオでしたが、競泳全種目の予選から決勝までを全て1人で担当しました。今では考えられませんね。
当時の男子100メートル自由形は“50秒の壁”を破れるか、ということが焦点でした。そこで、先輩と賭けをしたんです。負けた方が豪華な夕食をごちそうする、ということで(笑)。私が「破れます」と言うと、先輩は「君は経験がないから分からないだろうが、五輪は記録より順位、勝負が優先なんだ。だから記録は意外に伸びないんだよ」と。
そこで迎えた決勝。「人間魚雷」と呼ばれた米国のジム・モンゴメリー選手が良いスタートを切り、50メートルも素晴らしいペースで折り返しました。「先頭でゴールイン! タイムは?」と電光掲示板を見たら…何という皮肉でしょう。49秒99という世界新記録が飛び出したのです。確か「人類史上初の50秒突破なる!」と叫んだ気がします。たまたま私の後ろの席にいたその先輩から「やったな!」と背中をたたかれましてね。史上初の50秒突破の瞬間を、実況中継できたというのは非常に良い思い出として残っています。
山 下 選 手 の 金 メ ダ ル に 感 動
〈NHK時代はモントリオール五輪に続き、1980年のレークプラシッド冬季五輪(米国)でも実況中継を担当。歴史的な瞬間を伝えた〉
レークプラシッド五輪では、男子スピードスケートのエリック・ハイデン選手(米国)が1人で5種目を完全制覇しましたが、その瞬間を実況しました。今は短距離、長距離それぞれを専門とする選手たちが技術を磨いていますから、今後1人で5種目を制することは二度とないでしょう。こういう歴史的な瞬間に立ち会えるのは、スポーツ実況の醍醐味(だいごみ)だと思います。
〈日本選手の活躍でも記憶される84年のロサンゼルス五輪は、東京のスタジオで総合司会を担った〉
ロサンゼルス五輪柔道無差別級の山下泰裕選手の金メダルは、これまでのスポーツの仕事で一番印象に残っている出来事です。準々決勝で右ふくらはぎを負傷し、そこから勝ち上がってゆくことなどあり得ません。決勝に勝ち、顔をくしゃくしゃにして歓喜の涙を流した山下選手のあの表情、今も忘れられません。「真のチャンピオンとはこういう人のことだ」というようなことを、スタジオでカメラに向かって話したような気がします。本当に鮮烈な思い出です。 つづく
生 涯 現 役 を 貫 く に は 、
ど ん な 仕 事 で も 必 死 に
取 り 組 み 、 少 し ア バ ウ ト に ・ ・ ・
これは自分が父親になり、2人の男の子を育てるときに役立ちました。父のようなスパルタをやるには、“子供に隙を見せる父親”では説得力がありません。実際私は、常に仕事をしている一徹な父しか見たことがないんです。いいかげんなところのある自分には、スパルタの実践はとても無理。だから「息子たちの “ 先輩 ” として、心配事や悩み事を引き受けてやれる男になろう」と思いました。家族4人が何を考え、どうしたいか、何をしてほしいか。そういったことを率直に言い合える環境をつくろう、と。だから会社で起きた嫌なこともうれしかったことも、洗いざらい家内や子供たちの前で披瀝(ひれき)しました。そして家内も、それを受け止めて収拾役をやってくれたのです。その結果、何とか親子関係が難しくなることなしに、やってこられました。
“ 5 0 秒 の 壁 ” 突 破 の 瞬 間
〈NHKに入局したのは昭和42年。報道記者志望だったがアナウンサーに。スポーツを担当したのには理由があった〉
報道記者を志したくらいですから、最初のうちはアナウンサーとしても報道番組に関わりたいと思っていました。ですが、すぐに限界が見えました。
最初に配属されたのは鹿児島放送局です。当時、鹿児島には東大の宇宙空間観測所(現JAXA内之浦宇宙空間観測所)があり、国産ロケット打ち上げという話題がありました。そこで鹿児島局発で1時間くらいの報道番組を作ります。番組では、ずっと国産ロケットを取材している社会部の記者と解説者を相手に、担当アナウンサーが話を引き出していく。つまりアナウンサーはタイムキーパーにすぎないのです。
しかしなんと、このときの担当は小谷伝さんという方。「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを長く務められた小谷真生子さんのお父さんで、宇宙工学の専門知識も豊富な方でした。その小谷さんがご自身の知識を一切封印して、何も知らない立場から番組を回していく。「これはつらい役回りだ」と思いました。
じゃあ、アナウンサーとして能動的、有機的に仕事ができそうな分野は何か、と考えるとスポーツでした。スポーツだけはラジオの時代から、アナウンサーが取材者であり、表現者でもあったのです。そこで、「スポーツアナウンスの分野で東京の本局に戻ろう」と自分なりに戦略を立てました。
〈鹿児島から福岡、大阪両放送局をへた入局9年目、スポーツアナとしての実績が認められ、32歳でモントリオール五輪(1976年、カナダ)の担当に抜擢(ばってき)された〉
私の担当競技は水泳、レスリング、柔道でした。ラジオでしたが、競泳全種目の予選から決勝までを全て1人で担当しました。今では考えられませんね。
当時の男子100メートル自由形は“50秒の壁”を破れるか、ということが焦点でした。そこで、先輩と賭けをしたんです。負けた方が豪華な夕食をごちそうする、ということで(笑)。私が「破れます」と言うと、先輩は「君は経験がないから分からないだろうが、五輪は記録より順位、勝負が優先なんだ。だから記録は意外に伸びないんだよ」と。
そこで迎えた決勝。「人間魚雷」と呼ばれた米国のジム・モンゴメリー選手が良いスタートを切り、50メートルも素晴らしいペースで折り返しました。「先頭でゴールイン! タイムは?」と電光掲示板を見たら…何という皮肉でしょう。49秒99という世界新記録が飛び出したのです。確か「人類史上初の50秒突破なる!」と叫んだ気がします。たまたま私の後ろの席にいたその先輩から「やったな!」と背中をたたかれましてね。史上初の50秒突破の瞬間を、実況中継できたというのは非常に良い思い出として残っています。
山 下 選 手 の 金 メ ダ ル に 感 動
〈NHK時代はモントリオール五輪に続き、1980年のレークプラシッド冬季五輪(米国)でも実況中継を担当。歴史的な瞬間を伝えた〉
レークプラシッド五輪では、男子スピードスケートのエリック・ハイデン選手(米国)が1人で5種目を完全制覇しましたが、その瞬間を実況しました。今は短距離、長距離それぞれを専門とする選手たちが技術を磨いていますから、今後1人で5種目を制することは二度とないでしょう。こういう歴史的な瞬間に立ち会えるのは、スポーツ実況の醍醐味(だいごみ)だと思います。
〈日本選手の活躍でも記憶される84年のロサンゼルス五輪は、東京のスタジオで総合司会を担った〉
ロサンゼルス五輪柔道無差別級の山下泰裕選手の金メダルは、これまでのスポーツの仕事で一番印象に残っている出来事です。準々決勝で右ふくらはぎを負傷し、そこから勝ち上がってゆくことなどあり得ません。決勝に勝ち、顔をくしゃくしゃにして歓喜の涙を流した山下選手のあの表情、今も忘れられません。「真のチャンピオンとはこういう人のことだ」というようなことを、スタジオでカメラに向かって話したような気がします。本当に鮮烈な思い出です。 つづく