日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会  &
  NPO法人 ライフ・ベンチャー・クラブ    ご  関  係   皆   様


今日もお元気に「生涯現役社会づくり」推進活動のご支援を感謝します。

来る5月27日(水)第353回「生涯現役シリーズ塾第五弾」と同日に開催
の五月定例理事会ご案内をさせていただきます。毎回開催シリーズ塾
にはご研究に熱心な全員主役となった皆様方が多数ご参加されます。

どうか添付ご案内をご高覧の上、皆様建設的「生涯現役社会づくり」へ
力を合わせ、純民間主導の国民運動に盛り上げていきたいと存じます。

どうかそのためにも、30年間永続開催する『生涯現役塾』に事前予約
をいただき、下記のお申込書でご返信をいただけますと助かります。

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『あなたと日本を元気に!』させる 生涯現役実践道場への 積極ご参加で
あなたご活躍の地域から 次々と民活力盛り上がりの大輪が拡がります!
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2014年秋期:実施/2015年春期&秋期:開催日(各土曜13:30~16:50)
①Summit 11/8(済)  ②Summit 4/25(土・予定)  ③Summit 10/17(予定)
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2015年4月開催日時(理事会/15:30 & 生涯現役塾/17:30) ~ 2015年9月
4/13(日時:要注意)   5/27   6/24   7/22   8/26 9/16
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日  本  生  涯  現  役  推  進  協  議  会
   NPO法人  ラ  イ  フ ・ ベ  ン  チ  ャ  ー ・ ク  ラ  ブ
               代  表   東   瀧    邦   次
TEL:03-3517-6667          FAX:03-3517-6668
E-mail: info@sgsk.net     or     lvcinfo@sgsk.net
URL: http://www.sgsk.net       
Blog: http://40591.diarynote.jp/
Facebook : http://www.facebook.com/sgsk.net
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【 第 3 5 3 回   生 涯 現 役 シ リ ー ズ 塾 】
    生  涯  現  役  に  取  り  組  む  第  五  弾
         生涯現役社会づくりではオンリーワンの生涯現役実践道場

日 時: 2015 年 5 月 27 日(水)
〔生涯現役実践塾〕  17:30~19:30 
会 場: 八 重 洲 口 会 館 会 議 室
東京都中央区八重洲1-7-20  八重洲口会館 B2F
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講 師:  棚 橋  正 光 ( NPO法人 ヒューレック研究会 会 長 )
略 歴: 大手アパレル企業に勤務されていて現在も顧問、その他に企業向け携帯普及の立役者として通信系有力企業で役員をされており、現在も大手情報系企業の展開するアイパットを活用したトータルソリューション等のアドバイザーとして五つの企業の顧問で活躍中。
講演A: 『  二  宮  尊  徳  に 学 ぶ
      「 利 他 の 実 践(たらいの中の水)」 』                   
内 容: 二宮尊徳研究で有名な棚橋正光先生をお迎えして「生涯現役」の有り方、生き方の羅針盤として「報徳思想(たらいの中の水)」を学びます。
     ※報徳思想(ほうとくしそう)は、二宮尊徳が説き広めた道徳思想であり、経済思想・経済学説のひとつ。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会貢献に徹すれば、いずれ自らに還元されるのが天の理であると説かれる。
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講 師: 倉 本  俊 司 ( 株式会社 クラミー技術研究所 代 表 )
略 歴: 大手ガラスメーカーで研究、開発部門で活躍 開発一筋で現在もガラスに限らない柔軟な頭脳で次々と新しい技術や商品を開発しています。
演題B: 『  事 業 性 の あ る シ ニ ア 発 の 独  自 技 術  』
内 容: なんと! 大津波が来てももう高台まで逃げなくても良い!   
     津波防災シェルター
     自動車合わせガラスのリサイクル
     廃蛍光灯の液中での蛍光粉除去 
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参加費: 会員/1,000円   一般/2,000円
申込先: NPO法人 ライフ・ベンチャー・クラブ事務局
    東京都中央区八重洲1-7-20  八重洲口会館 B2F
電話:03(3517)6667    Fax:03(3517)6668
E-mail: info@sgsk.net or lvcinfo@sgsk.net
URL:http://www.sgsk.net or http://sgsk.net/70890
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       【 第 3 5 3 回 生 涯 現 役 塾 予 約 申 込 書 】
            2015年 5月  日

NPO法人 ライフ・ベンチャー・クラブ 宛
   5月27日(水)開催:『第353回生涯現役塾』に参加予約します。

氏 名 ____________________

Tel or Fax or E-mail ______________

                                     以 上 
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      「加藤特許事務所 ~知財 とびうめ便り~」 Vol.42
                        発信日:2015年 5月 1日
                        発信者:加藤特許事務所
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★ 目 次 ★
 1.弁理士コラム
  ●信頼関係と契約社会

 2.知財ニュース
  ●特許庁、新しいタイプの商標出願の公開商標公報や受付件数などを公表
  ●2014年国際特許出願(PCT特許出願)、企業別で1位は中国・ファーウェイ、パナソニックは4位

 3.連載 知財講座
  ●第42回:意匠「部分意匠制度」

 4.事務所からのお知らせ
  ●外国出願にかかる費用の半額の助成
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1.弁理士コラム
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●信頼関係と契約社会

 「約束を守る」ということ・・・これを大事ではないと思わない人はいないでしょう。
 実際、近代の国家はこの「約束を守る」ということを前提にして成り立っていますし、この前提があるからこそ、経済も発展できるわけです。もし、約束が守られない社会があったら、どういうことになるでしょうか。もうビジネスどころではないでしょう。購入代金を払っても品物は来ない。商談もごまかしばかり。こうなったら、商談は成立しません。約束したところで、守られる保証はないわけですから。

 こういう社会しかない国は経済的にかなり苦しくなります。外国からの投資もないだろうし、外国から企業が進出することもないからです。一時期の中国を考えてみれば、よくわかります(もっとも、今でも、その傾向はかなり残っているかもしれませんが)。

 つまり、「約束を守る」ということは、社会や経済が成長するために、最も大事な要素であるわけです。現代では、この「約束を守る」ということを実現するために、契約書を交わすということを行います。

 一昔前の日本では、契約書と言っても、紙一枚とか、せいぜい二枚とか、その程度でした。一方、欧米では、起こりうるケースを全て想定して契約書を作るものですから、一冊の分厚い本みたいになることもしばしばあります。日本でも、これではいけないということで、最近では、契約書も長くなってきました。

 なぜ、こういう違いが起こるのか。欧米では、人は約束を守らないものという性悪説に立つからです。だから、契約書で縛ろうとします。
 では、日本はどうでしょうか。日本人は当たり前すぎて気が付いてないかもしれませんが、「約束を守る」ということについて、日本人はおそらく世界で一番と言える民族です。だから、それほど契約書をうるさく作る必要もないし、欧米人から見たら、いい加減極まりない契約書で済んでいるわけです。

 昔から、商店街には、その地域に根付いた電器店が必ず一つや二つはありました。最近では、家電量販店に押されて、都会ではほぼ全滅状態です。こういう電器店は、家電が故障すれば、電話一本ですぐに来て直してくれる、しかも、ちょっとした修理はだいたい無料。加えて、どんなに古い製品でも、保証期間なんかはまず関係なし。今でも、昔の電器店は重宝した、と言う人はかなりいます。

 なぜ、こうなるかと言うと、次に買うときもその電器屋さんで、という暗黙の了解が双方にあったからです。むろん、契約書なんかを交わす訳ではありません。言うなれば、信頼をベースにしたお付き合いというところです。

 もちろん、量販店では昔の電器店のような訳にはいきません。修理を頼もうと思ったら電話して予約を取らないといけない、無料ということは絶対にない、保証期間内かどうかで料金もかなり変わってくる・・・・という具合です。

 結局、短期的には、欧米式の契約書を交わすのがいいのかもしれません。ただ、長期的に考えると、昔の商店街の電器店のような緩い関係のほうがお互いに得になるような気がします。
 日本人社会は、昔から、このようなコミュニティを上手につくってきました。一見すると、緩すぎる(欧米人から見れば「あいまいな」)約束だけれども、その緩さあるいはあいまいさこそが、結局は、高度な約束の形になっているのです。おそらく、欧米人には理解すらできないでしょう。日本人の昔からの知恵の一つです。

 もちろん、何でも書面で決めておくのが悪い訳ではありません。ただ、どこかぼやかしておく、そういう余裕をもつことが実は良い関係を続けるためには必要になるのではないでしょうか。約束しておくことは、もちろんいいことですが、約束しないことにも実は良さがあるのです。

 当事務所も昔の商店街の電器店のような雰囲気を持っていると思っています。

                       副所長 弁理士 天野 広
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2.知財ニュース
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●特許庁、新しいタイプの商標出願の受付件数や公開商標公報などを公表

 特許庁は4月14日、改正商標法の施行により4月1日からスタートした音や色などの新しいタイプの商標出願について、4月10日までの出願受付状況と公開商標公報を公開しました。
 4月10日までの新しいタイプの商標の出願受付数は総合計515件で、タイプ別では、音166件、色彩203件、位置106件、動き37件、ホログラム3件となっています。

 詳細(公開された商標の一部掲載を含む)については、下記リンクのPDFをご覧ください。
[URL] http://www.meti.go.jp/press/2015/04/20150414001/20150414001.pdf


●2014年国際特許出願(PCT特許出願)、企業別で1位は中国・ファーウェイ、パナソニックは4位へ

 WIPO(世界知的所有権機関)は3月19日、特許協力条約(PCT)に基づく2014年の国際特許出願状況を発表しました。

 出願総数は、前年比4.5%増の約21万5千件で、国別のベスト5は、前年と同じで1位米国で61,492件、2位日本で42,459件、3位中国で25,539件、4位ドイツで18,008件、5位韓国で13,151件となっています。なお、前年と比べて、3位中国が19%増で大きくのび、他の上位国も増加したのに対し、日本は3%減となっています。

 企業別では、中国のファーウェイ(華為技術)が初の1位で3,442件、2位は米クアルコムで2,409件、3位は中国ZTE(中興通訊)で2,179件、4位は前年1位だったパナソニックで1,682件、5位は初のべスト10入りした三菱電機で1,593件となっています。

 詳細は、下記のURLをご覧ください。
[URL] http://www.wipo.int/pct/en/newslett/2015/article_0001.html
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3.連載 知財講座
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第42回:意匠「部分意匠制度」

■部分意匠制度の概要
 意匠登録は、物品のデザインを登録するものですが、日本において、その登録は物品ごとでなければならないと規定されており、原則として、一の意匠出願で「複数の物品」や「物品の一部分のみ」を登録することはできません。

 しかし、例えば、既存の物品の“一部分”を加工して、独創的で特徴的なデザインを施した場合、その物品全体のデザインを登録すると、特徴ある“一部分”が全体のデザインに埋没してしまいかねません。
 そのため、平成10年意匠法改正により、部分意匠制度が開始し、物品全体のうち、独創的で特徴ある一部分のみを登録できるようになりました。

■部分意匠の出願方法
 上述のとおり、意匠登録は物品ごとでなければならないため、通常の意匠出願と同じく、物品全体の正面、平面(上面)、左右側面といった、6面の方向から見た形状を表した図面又は写真の提出が必要となります。そして、この図面又は写真において、部分意匠として登録したい部分と、その他の部分との境界を明確に表さなければなりません。
 境界の表し方には、例えば、以下の方法があります。

(1)部分意匠として登録したい部分を実線、その他の部分を破線で描く。
(2)写真(または3D図面)の場合、部分意匠として登録しない部分を明調色(白っぽい薄い色)にしたり、色味を付けたりして、区別できるように色で分ける。

 また、部分意匠として登録できる部分は、一出願につき一箇所のみであり、物理的に分離している場合は、それぞれについて、出願をする必要があります。ただし、分離していても、機能的に一体となっていたり、対になっていたりして、あわせて一つの意匠と判断されれば、登録が認められます。

■部分意匠の活用について
 登録された意匠が公開される前日までに同一出願人が出願した意匠は、元の出願と一部類似するものであっても登録が認められます。
 これを利用すれば、ベースとなる全体意匠を出願した後に、特徴ある部分のみを部分意匠として出願することが可能であり、より充実した保護を図ることができます。

 全体意匠と部分意匠のどちらで出願した方が望ましいか、また、どこまでの範囲を部分意匠として登録すべきか等、難しい面があるかと思います。専門家の視点から、判断、ご提案をさせていただきますので、まずは気軽にご相談ください。
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4.事務所からのお知らせ
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●外国出願にかかる費用の半額の助成

 特許庁は、平成27年度も中小企業の戦略的な外国出願を促進するため、外国への事業展開等を計画している中小企業等に対して、外国出願にかかる費用の半額を助成します。

     補助率:1/2
     上限額:1企業に対する上限額:300万円(複数案件の場合)
案件ごとの上限額:特許 150万円
         実用新案・意匠・商標 60万円
         冒認対策商標 30万円

 本年度より、新たに「ハーグ協定に基づく意匠の国際出願」も支援対象となっております。
 応募期間は、実施機関ごとに異なります。現時点ではまだ発表されておりませんが、申込期限は、去年の場合は6月中旬の例や8月中旬の例もあり、二次募集をする場合もあります。
 応募期間は短いですので、ご注意願います。

 全国の実施機関毎の募集状況や応募資格につきましては、下記のURLをご覧下さい。
[URL] http://www.jpo.go.jp/sesaku/shien_gaikokusyutugan.htm
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加藤特許事務所
 編集・発行: 加藤特許事務所 -メルマガ事務局-
 福岡市博多区博多駅前3丁目25番21号 博多駅前ビジネスセンター411号
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 TEL:092-413-5378 E-mail:mail@kato-pat.jp
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日  本  生  涯  現  役  推  進  協  議  会
     ヘ  ッ  ド  ラ  イ  ン     ニ  ュ  ー  ス
 事務局報告 第135号                 2015年 4月30日発行
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◎  2 0 1 5 / 4 / 1 ~ 2 0 1 5 / 4 / 30 の当Blog「掲載テーマ一覧表」

   日 付                  タイトル
2015年4月30日    「日本生涯現役推進協議会」:会報 135号
2015年4月29日    NPO ライフ・ベンチャー・クラブ会報115号
2015年4月28日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:36
2015年4月27日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:35
2015年4月26日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:34
2015年4月25日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:33
2015年4月24日    Sports報知:生涯現役「死ぬまで撮りたい」
2015年4月23日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:32
2015年4月22日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:31
2015年4月21日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:30
2015年4月20日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:29
2015年4月19日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:28
2015年4月18日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:27
2015年4月17日    日本人事部Net/シニア就労応援情報
2015年4月16日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:26
2015年4月15日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:25
2015年4月14日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:24
2015年4月13日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:23
2015年4月12日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:22
2015年4月11日    生涯現役社会実現への課題:労働調協5
2015年4月10日    生涯現役社会実現への課題:労働調協4
2015年4月 9日    生涯現役社会実現への課題:労働調協3
2015年4月 8日    生涯現役社会実現への課題:労働調協2
2015年4月 7日    生涯現役社会実現への課題:労働調協1
2015年4月 6日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:21
2015年4月 5日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:20
2015年4月 4日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:19
2015年4月 3日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:18
2015年4月 2日    「生涯現役社会づくり」をめざす第一弾:17
2015年4月 1日     4/13(月)「第352回生涯現役塾」開催案内  以上
N P O 法 人  ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ  
        ホ  ッ  ト  ラ  イ  ン   ニ  ュ  ー  ス
事 務 局 報 告 第 115 号                  2015年 4月29日 発行
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“  わ れ 以 外 み な 師 な り  ”

  もうひとつ、私が選んだ証券市場の世界は、まさに“ 人生の縮図 ”であり、“ 人生の道場 ”面目躍如たるものがあった。証券市場のアップとダウンを舞台に演じられる喜怒哀楽の種々な人生は、すべてが貴重な参考となった。株式市場で“ 高くなれば買い、安くなれば売る”という周章狼狽する顧客は、注意すべき反面教師だったし、必ず儲ける顧客と損する人とのちがいを、さまざまな取引態度から実地に教えられたものである。

  また、事業法人担当のセールスマンとして、いろいろなタイプの経営者から、その実力ぶりを直かに学ぶこともできた。とくに、入社初期に出会ったナニワ商人の王道をいく経営者の姿には、今でも鮮やかな印象が脳裡に残っている。

  その顧客は、五十歳代半ばで、実に金儲けの上手な人だった。人生の成功を資産や地位の大小ではかるのではなく、人生で何が大事なものかを教えてくれる、いわゆるまともな生き方に徹して、常に堂々としていた。株式投資の際には、決して周囲に影響されずに、自分の目や耳を信じ、自己の信念に従って投資に力を発揮していた。なによりも、権威に頼らぬベンチャー精神の旺盛さに、私は心あこがれたものである。

  有能な投資家に限って、その投資態度から、知らず知らずに証券セールスマンを指導してくれるものである。また、こちらの失敗や落ち込みのときでも、厳しい中にもやさしい言葉を忘れずに、暖かく励ましてくれる投資家であった。こうした外部の“ 達人 ”から逐一、学ばないという法はない。むしろ、社内だけでなく、社外にどれほど多くの“ 達人 ”や“ 先達 ”をもつことができるかが、証券マンやサラリーマンの本物になるかどうかの分かれ目であるような気がする。

  私のとび込んだ証券界は、他人のお金で証券投資の醍醐味を体験できる“ 役得 ”もある。

  いわば、他人の懐を利用して、貴重な人生のトレーニングを積むことができる場だ。

  その人生の“ 修羅場 ”を十分に活かすためには、一にも二にも顧客を知り、顧客の人生体験から学び続けることなのである。

  私がいま指導している証券マンには、これから大きく伸びる顧客をどう見つけられる、儲ける顧客をネットワークにどう紹介客を増やしていくか、顧客との共存共栄方針によるセールス・プロモートを心がけている。

  「あの客が買えば、相場が必ずあがる!」

  証券セールスマンとして、それが見分けられるようになるためには、やはり、顧客との人間的なふれあいを通じて、個々に、身をもって学びとる以外に方法はないようだ。

   “ わ れ 以 外 み な 師 な り ”の精神で、いつでも学ぼうという柔軟な姿勢こそ、ベンチャー心得の第一条といえるような気がする。    つづく
◎  人 生 の 達 人 か ら 積 極 的 に 学 べ

証券マンとして、新入社員の私が配属されたのは、最初から法人課であった。そこで、社債発行法人への引き受けシェアの交渉のほか、元利金払い指定などのセールス、さらに新規公開幹事参加セースルなどに、積極的に関わっていったのである。

  何もかも、目新しく、新しい体験ばかりだった。毎日、人と会い、人の話を聞き、情報を提供し合うのが、証券営業マンの務めである。

  連日、めまぐるしく人と接しながら、入社当時は、社内の同僚や上司よりも、むしろ社外の顧客から実体験に基づいた証券投資のイロハを教え込まれるほうが多かった。

  私の場合、電話のかけかた一つとっても、外部の客を通じて訓練されたようなものだ。

  私の顧客は、大部分が会社の役員クラスであり、自分の資産をフルに活用しようという事業家、経営者であり、商人たちであった。したがって、冗漫な電話や曖昧な会話は許されなかった。無駄のない、しかもスピーディで的確な情報を伝えることが最優先された。加えて、電話による最初と最後の挨拶には、不快感があってはならぬ。そして、なお、短い電話のやりとりのなかに、自分を印象づけ、自分のセールスマンとしての存在を相手にはっきりと覚えてもらわなければならない。

  電話一つにも神経を使い、その一刻一刻も真剣であった。

  入社後十何年にわたって、朝いちばんの“ 日課 ”が、顧客へ電話することだった。毎朝、規則的に“ 定期便 ”の電話を入れて、顧客の手持ち株の推移を報告し、併せて注目銘柄を伝えておくことは、もう私の習慣となっていた。

  こんな社外の顧客とのふれあいを通して、私は営業マンやセールスマンとして“ 可愛がられるコツ ”といったものが自然と理解できるようになったような気がする。

  客に可愛がられ、顧客に励まされる証券マンというものは、その人のために“ 骨身 ”を惜しまず努力するものである。顧客の利益と満足のために尽くす努力は電話一本、応対一つにしろ、それをバネに、やがて“ 実力 ” 証券マンに結びつくものなのである。   つづく
 “ は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ”

  その当時、同証券会社は、店舗数が全国で三十弱、資本金が五億円位で、社員数およそ七百人程度の規模ではなかったかと思う。

  入社が“ 内定 ”すると、三月になって会社から、投資信託業務に進出したので、四月一日の入社日までに投資信託を集めるよう指令があった。今でいう、入社前の実地研修というやつである。

  ピカピカのフレッシュマンにふさわしく、私は心身ともに張り切っていた。“ めくら蛇に怖じず ”で、恐いものなしの気もあった。

  バカ正直に親類・知人宅を夢中で走り回り、動き回って、私は入社までに、二十万円の投資信託を集めていたのである。昭和三十三、四年の当時は、サラリーマンの平均給料は月額二、三万円ぐらい、入社後の私の初月給ですら一万三千円程度であった。

  だから、当時の二十万円は、現在のサラリーマンの標準年収、五、六百万円以上に相当するのであろうか。それを、まだ大学生の若造が、わずか一か月足らずの期間で集めてしまったのである。同期生のなかで、会社の指示通り集めていったのは、自分ぐらいで、他の人たちは、ほんの申し訳程度の集め方であった。

  そして、その二十万円のうち、およそ八万円は、私の身内が購入した金額だったが、それが入社後半年ののちに、五千円の基準価格が八千円に値上がりしたのである。

  これは、驚きだった。結果を知って、むしろ私のほうが土器も度肝を抜かれてしまったのだ。

  いまの投資信託ならば数年かけても値上がりできない額を、ほんのわずかの期間で稼ぎ出してしまったのだ。

  周囲からは感謝されるし、上司からは褒められるしで、私は有頂天になっていた。

  「 は じ め よ け れ ば 、 す べ て よ し ! 」

  この諺を、実社会入りの最初に、身体で知ることができたのは、私くらいであったろうか。

  未知の世界を怖れず、積極果敢に挑戦することによって、幸先のよい“ 幸運の女神 ”を自分の手元に呼び込むことができるのだ。私がサラリーマンになって、最初に学びとったのが、このことだった。

  未だ知らない世界を恐れることはない。むしろ知らないことによって、自ら厳しく勉強して学び、がむしゃらな行動と実践によって、自ずから道が拓けるというものである。

  だからこそ、ベンチャー・チャンスは、サラリーマンにとって、その掌中にひそかに隠されていると思うのである。   つづく
第3章   ビ ジ ネ ス マ ン は 荒 野 を め ざ せ         
◎  未 知 の 世 界 へ 挑 戦 せ よ !

  私がサラリーマンとしてスタートしたのは、昭和三十四年、準大手のN証券会社大阪支店であった。当時は、まだ “ 就職難 ”の時代で、ご多分にもれず、私も銀行や他の証券会社をめぐり歩いて面接を受けたり、とび込みで会社の役員に“ 面接 ”したりして、就職活動に奔走していた。昨今のように、「就職浪人」という言葉があるわけではなし、“ ダメでもともと ”の気概で、正面突破をはかろうとしていたのだ。
  
  しかし、行く先々の会社で断られ、いんぎんに“ お引き取り ”を命じられてしまった。無理に頼んだ一次の筆記試験にはたいてい受かるのだが、二次の面接がなかなかパスできなかった。あとから考えると、どうやら、私という人間の“ PRが下手くそだった ”ことと、大学が国立二期校の経済専門外であったことが、面接試験失敗の原因ではなかったかとも思う。

  そんな折りに、私の好きな聖書の句“ 求めよ、さらば与えられん ”にもある“ 窮すれば通ず ”で、うかびあがったのが、郷里の大先輩である当時のN証券会社のH社長である。私の父が若い頃、同社長の父君に世話になっていた関係もある。

  その頃の証券界は、ちょうど勃興期にあたり、急成長の勢いと未知数の魅力があった。加えて、株式投資は、資本主義のメッカを形成するものである。“ 東洋のウォール街 ”に飛び込んで、未知の世界を極めながら力いっぱい活動することは、気性のはげしい部分のある私には似合っているような気がした。

  思い立ったら吉日と、応募の締切日などわからないまま無頓着に、私はさっそく履歴書を書いて、入社試験の書類を提出。合間に、郷里の後輩ということで、東京までの夜行列車に飛び乗り、社長邸を訪問して、社長夫人によろしくと頼み込んでいた。同社長は私を暖かく迎え、私の祖父が商売センスに優れていたという話や、証券業は今後ますます発展する業界だ、などとこの青二才に熱っぽく語ってくれた。

  短兵急な就職作戦が功を奏したのか、あるいは、郷里からの依頼状も力を発揮したのか、こうして私は、同期生六十余と一緒に、N証券株式会社に何とかフレッシュマンとして入社したのである。  つづく
【2015年4月24日6時0分 スポーツ報知】

  ア ラ ー キ ー が 
    生 涯 現 役 宣 言 「 死 ぬ ま で 撮 り た い 」

  「アラーキー」こと写真家の荒木経惟(のぶよし)氏(74)が23日、東京・表参道ヒルズでの写真展「男 アラーキーの裸ノ顔」(24日~5月6日、入場無料)の開催を前に取材会を開いた。

  1997年から現在まで撮り続けた男性著名人約200人のポートレート展。ヌードなど女性の写真でも知られるが「男を撮らせたらいちばんうまいのは荒木だな。天からの才能を持っている」と豪快に笑い「男が隠しているものを引っ張り出したい。するとな、彼らは喜ぶんだ」。

  2009年に前立腺がんを公表。一昨年には右目を失明し「昨日の検査でも大腸ポリープが2つも見つかっちゃった」と話すなど、満身創痍(そうい)だが「あと7、8年は生きたい。自分の写真に力つけられながら死ぬまで撮りたい」と生涯現役を宣言した。
◎ ベ ン チ ャ ー に は “ 家 族 の 協 力 ” が 不 可 欠

私、四十九歳。妻あり。高校生、中学生の娘あり。通算二十五年のサラリーマン現役選手であった。その私が、
深夜、額に“ 冷や汗 ”を浮かべながら必死になって妻に語りかけていた。

「男として生まれたからには、一度はベンチャーして“ 男子の本懐 ”を!」
「この“ 天の時 ”を逃しては・・・」
「本当の生き甲斐をもって、毎日を悔いなく生き生き生活するために・・・」
「ベンチャーこそ天から与えられた“ わが人生 ”!」

  私は、長年のサラリーマン生活から男が“ 脱サラ ”や“ 転職 ”の決意をしようとする時、往々にして妻や家族がその足をひっぱることが少なくないことを知っていた。

  数少ない熟年成功者の大先輩が“ ベンチャー成功条件 ”として私に教えてくれたものがある。それは、① 健康、② 人脈、③ 度胸、④ 忍耐、は勿論のこと、それ以外に何より強力な武器は“ 家族の協力 ”だと。実践体験の中でつかみとったこれらの言葉には真実味があった。

(この年になって、いまさら、何を“ 血迷 ”って・・・)
(安定した生活を乱されたくないの)
(夢だ、希望だ、挑戦だといったって、それじゃ食っていけないでしょ)
(私は“ 給料運搬人 ”と結婚したの。そうでなくちゃあ、別れてからにして!)

たいていは、こんな“ 女房族 ”のご託宣で“ 男の決意 ”は萎えてしまう。身内という足もとから、現実という“ 壁 ”にはばまれ、夢さめて再び下積みのサラリーマン生活を繰り返すことになる。男の夢をむしりとられ、希望を剥がされたサラリーマンが、その後どのように落胆して朽ちていったかという先輩や上司の例を、私は嫌というほど知っている。

だから、まずはじめに妻を説得する私の言葉は真剣だった。妻や家族の了解さえとれず、説得もできなくて何がベンチャーだという気持ちもあるにはあったが・・・。

もっとも私の場合、過去にこうした“ 膝詰談判 ”を通して妻を説得した体験が何度かあった。転勤のとき、また十五年勤め上げた証券会社から転職するときなどである。

「また、あなたの“ 背伸び ”がはじまったのね・・・」

  結婚して二十年。やはり、妻がいちばんの私の理解者であったようだ。サラリーマン生活のなかで、絶えず“ 背伸び ”をし、自分自身に言い聞かせながら、夢中で驀進してきたことを、妻は言葉に出さなくともよくわかっていた。そして、この年齢になって新たなベンチャーを試み、“ 背伸び ”も構わず跳ぼうとしている私に、黙ってついてくるのだという。喋るのに疲れた私は、思わず目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。

(妻よ、子よ、ありがとう・・・)そんな感謝の気持ちと同時に、よぉーし、愛する妻といとしい子どものためにも、明日からは全身全霊を込めてベンチャーを成功させるんだという意欲が漲りはじめてきた。気力を充実させてベンチャーする気合と気魄・・・それは妻たちに支えられての、私の“ 祈り ”のようなものだったのかも知れない。  つづく
   生 き る 力 で あ り 喜 び と な っ た “ 賭 け ”

  京都出身の私の友人が、あるとき私に身の上話を語りはじめた。彼は、自分の複雑な家庭のこと、先斗町の家業のこと、そして人間いかに生きるべきかという精神的な苦しみの末、キリストの神を教会に見い出し、KGK(キリスト者学生会)で活躍していたが、私は彼の手引きによって、昼食後に行なう毎日の聖書研究会に出席するようになったのである。

  当初、その例会のはじめに、まだ信者でもない私のためにメンバー全員が必ず祈ってくたが、それが実にこそばゆい気持ちだったことをよく覚えている。そうした会員の好意に応えるべく、私はコツコツと義理堅く出席を続けた。

  そして、捨て切れない自己の“ 我 ”について、人間について、神や哲学について、真面目に考え悩むようになっていた。そんな折り、迷える私を見かねたように、通っていた塚口教会の牧師が、真情を溢らせて語ってくれた。

「人生は賭けである。神に賭けるのか。それとも賭けないのか。神はあるのかないのかといって、プールのまわりをぐるぐる巡っているばかりではだめだ。泳ぎ方は理屈では習えない。まずプールに跳び込んでみよ!」

その言葉によって、私は決断した。

クリスチャンとして洗礼を受けたのは、大学四年生の時だった。

私は、大学で語学こそ身を入れて勉強はしなかったが、インド哲学史によって、東西世界の思想的な接点であるインドの立場を学ぶことができた。そして、目を閉じて“ プール ”に跳び込むことによって、いつの間にか変わっていく自分を具体的に実感できた。これは、私にとって生きる力であり、喜びであり、新たな自分への挑戦でもあった。

私の卒論は、『世界史における現代インドの思想と行動/東西世界をつなぐ思想的・実践的きづなとしての現代インド』という大仰なものではあったが、東西両世界での東洋思想と西欧の宗教を知り、その融合をめざした私の青春の“ 記念碑 ”だったのかも知れない。

私はまた、聖書を読むにしたがって、いろいろなことを考えるようになった。

例えば、「クリスチャンに金庫番をさせとけば安心だ」とよくいわれるが、日本でのクリスチャンにベンチャーを志す実業家が少ないのはなぜだろうかとしばらく考え込むことがある。また、信仰というものは、“ 罪人意識 ”
ばかりが強調されてどこか“ ネクラ ”なるものを感じてしまうが、本来の信仰は“ ネアカ ”で、福音的喜びをもって生き生きとした部分が本流であってしかるべきだと思ったりもした。

  “ 兄弟たちよ、あなたが召されたのは実に自由を得るためである ”といわれているように、自由に、自分のもてる能力をフルに活用することも、実は神に祝福されていることなのにちがいない、と確信した。

  だから、専門の能力があればその力を発揮すればいいし、実業家の才あるものは、そのタラント(才能)を活かして、十全にその道を歩むことが神に祝福されることにつながっているような気がしてならない。

  それも、ベンチャーの一つの証しであるように思えるのである。    つづく
◎ キ  リ  ス  ト  教  と  の  出  会  い

  最初から私は、親の仕送りに頼らず自力で大学を出るつもりだった。だから、大学の掲示板に張り出されるアルバイト募集には、全部、目を通していた。

  工場の深夜業(当時は夜勤三交代制もあった)や宛名書きはもちろんのこと、新聞配達に加えて、季節ごとにはデパートの配達にも手を染めたりした。

  なかでも、いちばん割のいいアルバイトが家庭教師であった。家庭教師といっても、小・中学生に、まさかインド語を教えることはなかったが、週二、三回通うだけで、安定的な収入になったし、たいていは晩飯つきというのが嬉しかった。

  一刻も休まず身体を動かし、絶えず“ 背伸び ”した行動をとろうとする私の性格は、すでにこの頃から身に備わっていったに違いない。

  肝心の大阪外語大インド語科の学生としては、私は、背伸びしたところで、語学では決してデキのいい学生ではなかった。私にとっては“ 不本意 ”な二期校であるという意識がしばらく作用していたし、ウルドウ語やヒンディー語にいたっては、怠けてばかりで、徹底して学ぼうという意識が生まれないのであった。むしろ、当時の大学校舎は高槻兵舎跡の木造だったので、壁に穴をあけて隣のアラビア語教室に通う美女を競い合って盗み見たり、たまたまインド語会話担当の教授が高齢で目も耳も悪いのを幸いに、テストになると大っぴらにカンニングをやったりといった“ イカサマ勉学 ”を繰り返していた。そのせいかどうか、私のインド語は、「ナマステ(こんにちは)」
と、教科書の冒頭にある言葉を喋ることができる程度のものである。

  けれども、大阪外国大の四年間は、それ以上に得がたいものを、私に与えてくれた。それは、親友に導かれながらキリストに邂逅したことであった。   つづく
  行 き 先 の 違 う 切 符 で 再 出 発

  浪人とはいえ、なるだけ父に負担をかけたくない気持ちで朝は四時半から一、二時間、新聞配達に精を出した。

  型の古い大型自転車が私の“ 武器 ”であった。あのギィーギィー音のする自転車を駆ってである。一地区、およそ百軒くらいの配達だったが、当時、それでも月、二千円か三千円のアルバイト料になったし、おかげで体力と忍耐も身につけることができた。

  夏場には、夕刻、義兄の手伝いとして、サイダーやジュースといった清涼飲料水を売って歩いたこともある。自転車の荷台にビンを積み込み、チリン、チリンと鈴を鳴らしながらである。

  ときには、古ぼけた“ 愛車 ”に乗って、神戸―大阪間を何回か往復したこともあった。神戸―大阪間、約四〇キロの道のりを、およそ二時間ほどかけて、疾走するのだ。ポンコツ自転車だったので、現在のように変速ギアがあるわけでなし、「サイクリング」とはほど遠い気分だったが、それも自分の体力への挑戦のつもりだった。もっとも、大阪に住んでいた姉宅へ転がり込めば、その日の夕飯がタダになるという“ 打算 ”がないわけではなかったが・・・。

  一年後、万全を期して、神戸大学経営学部に再挑戦したが、再び“ 不合格 ”の烙印を押され、さすがにこの時は、がっくり落ち込んでしまった。だが、思いがけずも、二次志望の国立二期校、大阪外語大インド語学科から、
日ならずして合格の通知が届いた。予期しないことで、まるで行き先の違う切符をもらったような気分になってしまった。

  この頃、私には人生のはっきりした夢やライフ・プランがあったわけではない。

  いわば、両親の元を離れ、はじめて人生のマラソンレースの出発点に立って、スタート姿勢をとろうと身構えたばかりのような気がする。あれほど熱情を注ぎ、これしかないと突き進んだ神戸大に、いってみれば“ 歯牙 ”にもひっかけなかった大阪外語大から“ 大学生 ”の通知を受けようなんて、予想だにしなかったのだ。

そんなことから、私は数日間、ポカンとした状態のまま、何かしら人生の皮肉とか、人や社会の機縁の不可思議さといったものを実感せざるを得なかった次第である。

しかし、人生という“ マラソンレース ”に挑戦し、のっけからその妙味を直かに与えられたということは、今なお“ マラソン人生 ”を歩み続けている私にとって、最初の、“ 正解 ”だったような気がしてならない。

そのごの大学生活で、キリストと出会い、私の人生の“ 路 ”が定まったことを思えば、その若い日の機縁に今でも私は感謝したい気持ちである。    つづく
◎ “ マ ラ ソ ン 人 生 ” へ の 挑 戦
 
どちらかといえば、私は“ 長距離型 ”ランナーであったような気がする。

大学時代の学部対抗駅伝に出場して、区間賞を獲得したこともあるが、一気に、ゴールになだれ込む、短距離競
走よりも、マラソンのほうが得意であった。長時間かけてベース配分を守り、体力を持続させて、自分のがんばりを十二分に発揮することができるからである。

  大学を卒業するまでの私も、“ マラソン型 ”の歩みに近かったようだ。

  私は船長になりたいという“ 少年の夢 ”にも拘らず、中学・高校へ進むうちに、いつの間にか重傷を負った父と同じ商売は嫌だという思いにとらわれるようになっていた。私の“ 静かなる反抗期 ”であり、父の商売の苦労を半面教師と見立てはじめていたのかもしれないが、大学を出てサラリーマンになるんだという、平凡を求める道を踏み出していた。

  地元の高校を卒業すると、電気技士にでもなるつもりで神戸大学の工学部を受けた。滑り止めとして大阪府立大も受験したが、両方ともみごと失敗してしまった。

  島の高校でのんびり過ごしてきた私には、何より学力が不足していたし、神戸大の最初の数学の試験に遅刻するというハプニングに見舞われてしまったのだ。加えて、試験場では、緊張のあまりか、気が動転してしまう癖が私にはあったから、たまったものではない。無惨なものだった。

  私の不合格を両親に伝えると、父は世間体を気にしてか、ガックリと寂しそうな顔をしたが、母はそんな素ぶりを微塵もみせずに、かえって慰めてくれた。
「お前、何も大学にしがみつかなくたって、店員や“ 店番 ”になったっていいんだよ・・・」

  母の言葉を聞いて、私は救われた思いだった。一度は大学受験をあきらめて、実習で電気技士を志し、一時神戸の湊川のラジオ商店の店番をしたこともある。しかし、父や兄の強いすすめもあって、再度、大学受験目指して、一年間浪人生として神戸のYMCAに通った。     つづく
他 人 に 対 す る “ い た わ り ” を 教 え た 母

  当時は戦争中でもあり、私はいっぱしの“ 皇国少年 ”で、神社や祠の前を通るときには必ず掌を合わせて頭を下げる習慣があった。村の年寄りに出会うと、誰彼の別なく、大声で几帳面に声をかけ挨拶していた。そんなことも、母が目を細めて誉める対象となった。「敬う心をもつことは大切なことなんだよ。そうして、年寄りや弱い人を大事にすることは、本当に尊いことなんだよ・・・」

  どちらかといえば、少年時代の私は、負けず嫌いの性格だった。

  友達や遊び仲間がみな一様にできて、私にできないことの一つでもあると、もう口惜しくてたまらないほうなのである。子どもの遊びで、道を駆け抜けて下の段々畑へ跳び下りる、いわば“ 度胸だめし ”ができなかったときや、浜辺から沖の堤防までおよそ三百メートルほどの距離の泳ぎができない時など、子ども心にも、それこそ “ 命懸け ”の思いで訓練したものである。

  私が何かに挑戦して、自分の工夫でできるようになったことを、母に誉められたい一心だったのかも知れない。
負けじ魂を発揮して、とっぷり日が暮れるまで練習をしている間中、すぐ近くに、母の温かい励ましの言葉が聞こえていたような気がしてならなかった。

  この母は、今も田舎に暮らしながら、時々、近所の人に代筆してもらった手紙を私たちに送ってくる。そこには、たいてい、こう記されている。
『お前たちがいっしょに暮らそうといってくれるのはありがたいが、私がいなくなると、話し相手がないといって、年寄りや村の子どもたちがさびしがるでなあ・・・』

  母は、村の“ 老人大学 ”では最年長だが、今なお、人の立場に立って人に尽くすことを気持ちだけでも実践しており、そこに生き甲斐をみつけてあゆんでいるのである。

  学校で満足に教育を受けたこともない田舎の凡々たる母ではあるが、私はこの母から、限りないやさしさを教わったように思う。他人に対するいたわりや、人を心から大切にする姿勢は、ベンチャーする場合に欠かせないものなのである。

  ベンチャーによって、自己の潜在する能力を高めることは、同時に周囲に接する人たちの潜在能力をも伸ばすことにつながらなければならない。相手の立場を思いやるやさしさがあってこそ、それが可能となるものだ。

  人や社会に尽くすことが生き甲斐の一つとして感じられること・・・それこそがベンチャー精神の“ 下地 ”となっているものなのである。   つづく
日本最大のHRインターネット/日本の人事部Net紹介  
[企業人事部]2015/04/17
  ロ ー ソ ン 、「 生 涯 現 役 社 会 」 の 実 現 !
横浜市とローソンが連携して、シニアの就労を応援します!

  横浜市では、活力ある超高齢社会を築くため、企業や地域活動における高齢者の活躍の場を拡大し、高齢者が社会参加できる仕組みづくりを進めています。 このたび、横浜市と株式会社ローソンは高齢者の就労支援・活躍推進において連携し、就労意欲の高い高齢者のニーズに応え、高齢者が生涯現役で活躍し続けられる仕組みづくりに取り組んでいきます。

■ 経 緯
   横浜市では、高齢者の心身の状況に合わせた就労や地域活動などを紹介し、社会参加を促していく相談窓口『生きがい就労支援スポット』を平成26年12月に金沢区でモデル開設しました。開設以降、350名以上の高齢者の相談に対応しています。

  このたびの連携は、就労先の開拓に取り組む中で、高齢者の活躍推進に積極的な株式会社ローソンからの提案により実現したものです。

  ローソンでは、高齢者の就労支援において自治体と連携する初の取組となります。

  横浜市とローソンは、平成21年に、市内における地域の一層の活性化を目的とした『包括連携協定』を締結しており、今後も生涯現役社会の実現に向けて協力・連携を推し進めていきます。

【『生きがい就労支援スポット』の概要】
1. 窓 口 開 設 場 所 :
  いきいきセンター金沢 4階(金沢区泥亀1-21-5)
  ※4階建の福祉施設で、ケアプラザやボランティアセンター等が併設
2. 窓 口 開 設 日 :
  平 成 2 6 年 1 2 月 1 5 日(月)から
3. 相 談 受 付 時 間 :
   月~金 9:00~17:00(土日祝日・年末年始は休み)※『生きがい就労支援スポット』は、横浜市シルバー人材センターに業務を委託して運営しています。

■ 生 き が い 就 労 支 援 ス ポ ッ ト で の 連 携 に つ い て

1  シニアのニーズに対応した連携内容
 『生きがい就労支援スポット』において、ローソンの子会社であるローソンスタッフ株式会社が実施している「ローソンスタッフ登録説明会」を開催していただきます。
『生きがい就労支援スポット』では、相談者の6割以上の方が就労を希望されており、これまでも、社会参加を促すセミナー等を開催してきましたが、今回の登録説明会の開催により、就労意欲の高い高齢者のニーズに応え、より一層、高齢者の活躍の場を広げていきます。
なお、登録説明会への参加申込みには、年齢制限(上限)はありません。

2  ローソンスタッフ登録説明会の概要
 「ローソンスタッフ登録説明会」に参加し、ローソンスタッフに登録した高齢者は、1.勤務する店舗の紹介・あっせん、2.コンビニでの勤務に向けた研修を受講することができます。
  第一回目の説明会は、4月30日(木)に開催し、今後も随時、説明会を開催していきます。

  株式会社ローソンでの高齢者の活躍推進の取組について
 株式会社ローソンでは、平成26年3月にコンビニエンスストア向けの人材紹介を担う会社「ローソンスタッフ株式会社」を設立し、店舗スタッフの確保に向けた取組を進めています。スタッフ候補として、高齢者や主婦、外国人留学生を積極的に受入れ、働く側のニーズに合わせて勤務店の紹介・あっせんや研修支援を行っています。

 また、昨年には加盟店オーナーの契約年齢上限を55歳から65歳に引き上げるなど、積極的な高齢者の就労支援を推進しています。

◆ 本リリースの詳細は、こちらをご覧ください。
(株式会社ローソン http://www.lawson.co.jp/ /4月15日発表・同社プレスリリースより転載)
◎ 人 や 社 会 に 尽 く す 心 の 大 切 さ

  父からは人生の厳しさとベンチャー気質を直かに学んだとすれば、私は母からは、やさしさと慈しみ、そして他者を思いやる気持ちとを、その生活のなかから学び取ったような気がする。

  これも、ベンチャー精神に不可欠必要のことがらだと思えてならないのである。

  私の母は、明治三十三年生まれで、今年八十八歳だが、健在である。

  母は、いってみれば“ 昔風 ”で“ 古風 ”な教育を受けて育った部類の人間である。父には忠実にかしづき、奉仕の精神を旨として、毎日を言葉少なに生きてきた。父の船出中の留守を預かり、七人の子どもの世話を何くれとなく果たした上、春には段々畑に腰をかがめて麦を刈り取り、秋にはイモを収穫しては、ふかして子どもたちに与えてくれていた。

  勤勉で剛直な父と、“ 明治の女 ”の良質な部分を備えた母は、今から考えれば、お互いに補い合って仕事に当たった似合いの夫婦であったのかも知れない。

  私は、この母から、まともに叱られたという記憶は、一度たりともなかった。いつも、慈愛にみちた母の瞳に守られて育ったような思いがする。厳しい父から怒鳴られたり、頭を叩かれたりした思い出はいくつでもある。夕暮れまで遊び過ぎていて、家の鶏に餌をやることを忘れていたからといって、父からは何度も私は叱られ続けた。“ 晩飯抜き ”が、常に私への罰である。そんな時でも、母は必ず、父にはわからないようにこっそりと、私に夕飯をもってきてくれた。また、飼っていた牛の“ 飼葉 ”を切り忘れたといっては、父の怒りに触れ、私が牛小屋に投げ込まれそうになったときに、仁王立ちになって身体を張り止めたのは、ほかならぬ母だった。

  母は、寡黙ではあったが、しかし、人に対して決して小言はいわず、反対に他人の長所を心から誉めることに生き甲斐と喜びをもっていたようだ。自分の子どもたちに対しても、その子のもっている潜在能力を巧みにひき出し、いつの間にか自信を与える術とコツを、母は何気ない言葉と動作でいつも実証してくれていた。

  私に対しても、
「お前は、本気でやれば何でもできる子なんだ」
「お前は本当に手がかからず、何でもよくやってくれるよ・・・」
と、いつ、どんなときでも励まし続けてくれる母だった。    つづく
  “ 海 の 男 ” ・父 が 教 え た  “ 厳 し さ ”

  私の父は、昭和三十五年、六十八歳で生涯を閉じたが、子どもの頃を思い浮かべると、きまって思い出すのは、赤銅色に陽焼けした逞しい父。精悍な顔と、筋骨隆々たる父の腕、そして二本マストに帆を満たして走る “ 千鶴丸(ちかくまる) ” という船である。

  北米航路の船員から、一転して小型機帆船オーナーとなって活躍した父は、常々、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺を座右の銘にしていた。雇われ船長よりも小型船オーナーの道を選んだのも、その一つの実践だったのにちがいない。そうした父の生きざまから、私は子ども心にもベンチャー精神の内実を感じていたような気がする。

  私の少年時代は、瀬戸内海の波に輝く船とともにあった。今から思えば、ちっぽけな古風な船一隻に過ぎないが、当時は、その船に乗せてもらって海上を往復することが、無上の喜びだった。凪いだ日など、父は船上でいろいろな話をしてくれた。瀬戸内海のかっての海賊の話、昔の壇ノ浦の戦いで那須余市が扇の的を射た話など、謡うような調子で語ってくれたものである。

  父は、よく本を読む習慣があったので、歴史話に詳しく、とりわけ幕末・明治維新の偉人伝、英雄伝が得意だった。話に詰まると、きまってナポレオンや乃木総将軍、西郷どんなどが登場して、船の操舵室を舞台に大活躍するのだった。

  そして、「男と生まれた以上、自分の思うとおりのことをやって生きよ。そして、世の中の役に立つ人間になること!」との人生訓話を垂れることが好きだった。

  後年、父は積荷の重油缶をもろに脚に落として重傷を負い、半年も満足に歩けず、やがて陸に上がったが、それまでの父は、“ 剛毅 ” を絵に描いたような人生ではなかったかと思う。

  “ 板子一枚下は地獄 ” といわれる海の生活もさることながら、海運業というある意味で自然の「運まかせ」、そして「投機」そのものの商売をやりおおせたことなど、そこに海の男の “ ベンチャー魂 ” が感じられてならない。

  陸に上がってからの父は、村の総代をやったり、まだ村にラジオがない頃、まっ先に購入して村民にラジオを聞かせたり(私はこのラジオを通して敗戦時の “ 玉音放送 ”を聞いたが)していたが、海で鍛えた剛直な精神と眼光鋭い面構えだけは晩年まで変わらなかった。

  そんな父からの “ 血 ”と感化を受けて、少年時代の私は、島の段々畑から目の前をゆっくりと通り過ぎる別府航路の大型船を見やりながら、子ども心に、外航船の高級船員か船長になることを夢見たものだった。それには、小規模の農・漁業だけに頼れず、国の内外航路の船員を志願する先輩・友人たちの影響と小豆島の現実が重くのしかかっていたように思うが・・・。

  けれども、同時にそこには、・・・何ものかに常に挑戦し、絶えず自分を乗り越えようとするベンチャー気質といったものが、まだまだ青く堅い種子のままだが、確実に芽生えていたような気がする。オリーヴの風薫る小豆島の自然と風土、そして父の “ 厳しさ ” から、私は幼くして “ ベンチャーの心 ” を学んでいたような気がする。  つづく

  
◎  海 で 鍛 え た ベ ン チ ャ ー 精 神

  ベンチャーという言葉を辞書でひくと、① 冒険、冒険的事業、商売上の冒険、投機、やま ②投機の対象になるもの、賭けたもの、賭け金、などとある。

  熟語の at a venture をひくと、「冒険的に」「運まかせに」「でたらめに」などという用語さえでてくる。

  ベンチャー実践者の元祖をたどれば、アメリカ大陸発見者コロンブスだという人もいるが、ベンチャーには男の雄大なロマンを行動指針とした、生き甲斐の確たる信念が不可欠であるように思う。

  だから、私がライフ・ベンチャーという言葉を使う場合、でたらめとか、運まかせという意味で使うことは滅多にない。むしろ、いい意味で背伸びをして、自分自身に対する挑戦、自分を脳力開発して高みにひっぱり上げるための人生冒険という意味合いで日常は使用している。

  私が、ベンチャーという言葉の意味をおぼろげながらも理解しはじめたのは、すでに小学校時代、父の教えによってであった。

  私が生まれたのは、昭和十年七月二十一日、香川県小豆(しょうづ)郡土庄(とのしょう)町・・・あの高峰秀子の演じる『二十四の瞳』で有名な小豆島の最先端の町である。私は、生まれた時から、国立公園の屋島を背景にして、赤々と沈んでゆく夕日の美しさを見ながら育った。

  しかし、半農半漁の、工場もない島で生きていくためには、家業を継ぐか、そうでなければ外国航路船の船乗りにでもなって世界に “ 出帆 ” することが、当時の人たちの生き方だった。

  明治二十五年生まれの私の父も、近衛兵としての軍隊生活のあと、“ 外航船 ” に乗って横浜とアメリカのシアトル間を往復した船乗りの一人だった。

  私が七人兄姉の末っ子として生まれた頃には、父はすでに、およそ二十トンあまりの小さな機帆船の “ 船持ち ” として、農産物ほか、ありとあらゆる日用品・雑貨を仕入れ、それを阪神の港に届ける海運業の自営業者として活躍していた。いわば、“ 海の男 ” であった。    つづく
   与 え ら れ た 課 題 と 役 割

  その当時の私は、証券会社に勤めるごく平凡なサラリーマンだった。どちらかといえば、自己中心主義の多少意固地で人を寄せつけない性格とも思われ、「石部金吉」とも、「朴念仁」とも “ 尊称 ” されることが少なくなかった。

  この結婚式の日取りにしても、「何も仏滅の日を選ばなくても・・・」としぶる周囲に、最後まで譲ることなく挙行してしまったほどである。そのせいか、結婚式の当日は、私の性格を知り尽くしている友人や先輩、上司から、さまざまな “ 叱声 ” と “ 糾弾 ” を浴びてしまった。もちろん、私への励ましをこめての話だが・・・。

  当時の私の上司などは、「お前らしい結婚式だが、とにかく教会でのアルコール一滴も出ない結婚式など初めてだ。みんなを連れてのに二次会が高くついた・・・」

  と、苦笑いの顔をしてブツクサ言っていたし、妻との出会いのいきさつに興味をもっていた親友からは、
  「彼は、思う存分見合いの経験を重ね、そして、結婚相手を探すために教会通いをしていたらしい・・・」
  などと、披露されてしまった。

  私が洗礼をうけてクリスチャンになったのは、大学生の頃からだが、その洗礼を授けた牧師も、結婚式の司式をして、“ 二人は一体となれ ” と心からの説教をしてくれた。とくに、人生の恩師である牧師や仲人、来賓の言葉には、印象深い “ 真理 ” がちりばめられたいたように思う。その言葉は、私にとって実に示唆に富むものであり、私はさっそく、新婚旅行の最初の夜を、その言葉を整理して日記にしたためるために費してしまったほどである。

  その内容は、およそ、こんなことだった。
「人間としてチャレンジのないものには、決して燃えたり、生き甲斐を覚えたりなどはしないものだ」
「自分たちのことだけではなく、他者の幸福をも願い、そのためにできる限りの努力を尽くすことができる生涯と家庭・・・それができれば、どれほど光り輝き、生き甲斐ある人生となるであろう・・・」

  こうした言葉は、ごく平凡な私のような男でも、気持ちのもちようで、生き生きした素晴らしい人生が送れるんだということを教えていたような気がする。まして、結婚して、もう独身ではない。気ままに、あるいは “ 我 ” を張って生きることはこれ以上、許されない。自己への挑戦と、生き甲斐のある人生・・・この二つが、結婚生活のスタートとともに私に与えられた課題と役割なのだとおもうようになった。

  二十年のちの現在、私は通算二十五年勤めたサラリーマン生活に終止符をうち、ライフ・ベンチャーへと “ 船出 ” することになったのである。そこに温かい人の “ 海 ” があり、私という “ 船 ” があり、家庭という “ 母港 ” があるからこそ、四十九歳になった今でも、再び三たび人生の “ 航海 ” に乗り出すこともできるというものだ。

  かって、結婚式で味わったあの感動。そして、自分へのベンチャー精神を支えに、生き甲斐ある人生を新たにするために・・・。   つづく 

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