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     若 き 西 郷 隆 盛 に 学 ぶ 、
             折 れ た 心 を 情 熱 に 変 え る 法
          ~ 今を懸命に、一歩踏み出すことを恐れずに ~
                                        殿村 美樹

【殿村 美樹(とのむら・みき)略歴:PRプロデューサー/株式会社TMオフィス 代表取締役。同志社大学大学院ビジネス研究科MBAプログラム「地域ブランド戦略」教員、 関西大学「広報論」講師も務めるPR専門家。「今年の漢字」プロデュース、「うどん県」の全国PR戦略などを手掛ける。】

 幕末のヒーロー西郷隆盛の若き日のエピソードに迫り、折れた心を情熱に変える方法を探りたいと思います。
 というのは西郷隆盛には若い頃、いったん自殺を決意し、思い止まったものの、また入水自殺をはかったというエピソードがあるのです。結局、命が助かったことでその後、明治維新の立役者となりました。もしこの時に命を落としていたら、日本の歴史は変わっていたのではないかとも言われています。
 それではなぜ、西郷隆盛は自殺するほど心が折れたのに歴史に名を遺す偉人になれたのか、独自の視点で若き西郷隆盛の心の変遷に迫ってみたいと思います。

先公の御遺志をつぐべきや

 西郷隆盛が最初に自殺しようとしたのは1858年(安政5年)7月、30歳になった頃でした。心から尊敬していた薩摩藩主・島津斉彬の急逝を知って後を追おうとしたのです。
 島津斉彬は1853年(嘉永6年)、黒船が来航した後、幕府が確たる方針を持たずにアメリカやロシアの外圧に振り回されている様子を懸念し、新たなリーダーと見込んだ一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍にすべきと考え、様々な画策を講じていました。西郷はそんな斉彬を恩師と慕い、忠臣として諸大名の動きや江戸や京の情報を知らせるなど重要な役目を果たしていました。
 そんな西郷が斉彬の急死を知ったのは、京都で斉彬が計画したクーデターを成功させようと準備をしていた時。斉彬が突然発熱して亡くなったと聞いて西郷は絶望し、「もう、おい(自分)も生きていけない」と斉彬の墓前で切腹しようとしたといいます。
 しかし、西郷の真っ暗な心に手を差し伸べた人がいました。京都清水寺の塔頭・成就院の住職・月照です。月照は当時、薩摩藩と朝廷の橋渡し役を務めており、天璋院篤姫が薩摩藩から徳川家定へ嫁ぐプロセス等で西郷と懇意になったと伝えられています。
 作家・池波正太郎さんは史伝小説『西郷隆盛』の中で、このときの月照の言葉を次のように書かれています。
「いまここに、志を屈して非命の死をえらぶということは、却って亡き斉彬公の君命にそむくことやおへんか。あなたに死なれてしもうては、尊王の大志をつらぬき通すお人がないも同然。いまはただ、万難を排して先公の御遺志をつぐべきやと思います」(池波正太郎『西郷隆盛』(角川文庫)より抜粋)
 なんて優しく強い言葉でしょう。もちろん小説ですから、実際とは多少異なるかもしれませんが、月照がかけた言葉によって西郷は自殺を思い止っているのですから、心に響く言葉だったことには違いありません。そして西郷の人柄をよく知っていたからこそ、かけられた言葉ともいえます。人を救うのは、相手を慮った強い言葉なのかもしれません。

西郷と月照の面影を訪ねて「清閑寺」へ

 私は、西郷隆盛と月照がどんな場所で語り合ったのかを知りたくなり、よく2人が会っていたと伝わる京都・東山の「清閑寺」を訪ねることにしました。
 まず向かったのは、観光客で賑わう清水寺の奥まったところに建つ「子安の塔」。その近くに小さな出入り口があって、「歌の中山」と呼ばれる山道に続いています。その山道を歩くこと約10分。清閑寺は、びっくりするほど静かな山林の奥にありました。
ホッとして進むと、いきなり荘厳な「六條天皇御陵 高倉天皇御陵」が現れてビックリ!「え~!ここって御陵なの?」と驚きながらふと見上げると、目指す「清閑寺」は御陵の隣の丘にそっと佇んでいました。
清閑寺は、門に拝観料100円を入れる箱があるだけで人影はまったく見えません。境内に入ると、いきなり京都の街並みが一望できる絶景が開け、自然の風がなんとも心地よく吹き抜けます。そんな中に西郷と月照が密かに会っていた茶室の門が、さらにひっそりと佇んでいました。「こんな風情の中だったら、新しいアイデアやパワーが出るだろうな」とふと思いました。
というのは、この「清閑寺」は、西郷と月照がたびたび会って一橋慶喜を将軍にする計画を話し合っていたところと伝えられているのです。つまりこの自然豊かでひっそりとした境内は、西郷隆盛が日本を変えるための一歩を踏み出した重要な場所といっても過言ではないでしょう。ちなみに境内の中央にある「要石」は、願いをかけると叶えてくれると伝わる石。西郷も願をかけたのかもしれません。

月照の「辞世の句」は西郷へのメッセージ

 しかしその後、幕府の大老に就任した井伊直弼が次期将軍を徳川家茂と決定し、それに反発する勢力(一橋慶喜を推す勢力)の弾圧を始めます。いわゆる「安政の大獄」です。斉彬を支持していた月照も次第に追い詰められ、西郷隆盛は薩摩にかくまうべく都落ちを計画しました。月照にその話をしたのも清閑寺だったと伝えられています。
 そして西郷は月照を迎えるために薩摩へ先に帰り、藩の幹部に協力を願い出ます。が、藩政を握った島津斉興は取り合わず、冷たくあしらわれてしまいます。そんな中、京都から月照が薩摩へやってきますが、西郷はどうしようもありませんでした。かといって幕府に捕えられるであろう京都に帰すこともできません。
 情の深い西郷は絶望して、月照とともに自殺する道を選びました。1858年(安政5年)11月、寒い海に二人で身を投じたのです。
 このエピソードは何度も映画やドラマで描かれており、西郷隆盛の情に厚い人柄を物語る逸話として有名です。また、そんな西郷の人柄が、その後多くの人を惹きつけ、明治維新の大きなパワーになったことは言うまでもありません。
 ただ、月照が海に入る直前に詠んだ辞世の句には、さらに深い意味が感じられるのです。
大君のためには何か惜しからむ 薩摩の迫門に身は沈むとも
 これは「自分の身は沈んでも、大君のためには何も惜しくない」と解釈され、通説では「大君」は斉彬公を指すと言われていますが、あえてこれを西郷隆盛のことと読み解けばどうでしょう。つまり、「西郷隆盛のためなら、自分の身を沈めても、何も惜しくない」と解釈するのです。すると、入水自殺からその後のプロセスがすべて腑に落ちるのです。   つづく