朝日Dijital/認知症でも生涯現役社会を!
2015年12月6日 お仕事 「 私 、 働 き た い ん で す 」
生 き が い も う 一 度 認 知 症 社 会
編集委員・清川卓史:2015年12月6日05時07分
昇進直後の働き盛りで認知症と診断され、失意のなかで会社を辞めた52歳の女性。いま介護施設で再び働き、生きがいと収入を得ています。そこには80歳の母の支えがありました。
ご参考URL=http://news.asahi.com/c/albYb2yCyFcPt8ae
ご参考URL=http://www.asahi.com/articles/ASHCC6V2FHCCULZU00N.html?ref=nmail
静岡県富士宮市の石川恵子さん(52)は48歳のとき、アルツハイマー病と診断された。今はグループホームでパート職員として働く。給料は月約7万2千円。障害年金約7万円を合わせ、市内に住む母親の手助けを得て暮らしている。「お給料があるから生活できる。みんながいるから仕事も楽しい」
特集: 認 知 症 社 会
一昨年8月まで大手メーカーの社員だった。徹夜で仕上げた業務改善リポートで社長賞をとったこともあるという。異変が起きたのは、主任職に昇進し、男性の部下や同僚とのあつれきに強いストレスを感じていたころだ。車で帰宅途中、道がわからなくなった。気づくと、40キロ以上離れた静岡市内にいた。
1年半、休職して退職した。20年以上勤めた会社を辞めたことについて、「さびしかったな。男には負けない、一生頑張っていこうと思っていたから」と振り返る。
休職中に主治医から、今後の生活について地域包括支援センターに相談してみたらと勧められた。センターでは職員の赤池好子さんから、自宅近くの介護施設でのボランティアを提案された。これが転機だった。
まずはボランティアとして通い、施設を運営する社長に「私、働きたいんです」と伝えたのをきっかけに、パート職員として採用された。社長は「認知症のお年寄りが同じ話を繰り返しても、笑顔で真剣に耳を傾け続ける。その姿は若いスタッフの勉強にもなると考えた」と話す。
現在の「いこいの家 源道寺」での勤務は週5日、午後1時半~5時半。自分の体験を市民らに話す講演活動のほかは一日も休んだことはない。
仕事は、入居者の見守り、洗濯やモップがけ、おやつ調理やレクリエーションの補助など。次の作業を自分から見つけるのが少し苦手だが、やることがわかれば手を抜かない。同僚は「恵子さーん、洗濯物の取り込み、お願いしていいですか」「おやつ作りを手伝ってください」など、折をみて声をかける。
勤め始めたころは、携帯電話のアラームを出勤の合図にした。次第に携帯が使えなくなり、出勤時刻を間違える日もでてきた。昨年から、食事の支度など日々の暮らしを支えるため、母の良子さん(80)が娘の家に通い、ほぼ連日泊まるようになった。
良子さんは昼過ぎ、娘と一緒に家を出て途中まで送り、自分のパート先のプレス加工所に向かう。「ちゃんと仕事しなきゃ」と表情を硬くして緊張する娘を励ます。夕方は先に戻って出迎える。娘の症状の進行が不安で眠れない夜もある。
恵子さんのささやかな楽しみは、母と2人で飲む風呂上がりの缶ビールだ。「きょうも働いて疲れたから飲もうかって。半分ずつね」。350ミリ缶1本をコップでわけあい、職場の出来事を母に1時間近く語る。
■ 病 院 、 働 く 場 つ な ぐ
若年認知症になって以前のように働けなくても、できることはある。新たに仕事を見つけ、社会に役立つと実感することは生きがいにつながる。ただ、それを支える取り組みはまだ少ない。
愛知県一宮市にある病院「いまいせ心療センター」は昨夏、認知症の人が働く場「ワーキングデイスマイル」を始めた。もの忘れ外来に通う人らに「もう一度働きませんか」と呼びかけている。
今の主な仕事は自動車製造に使うゴム製品の出っ張りを工具で取る作業だ。地元企業から請け負った。ほかに介護製品の発送作業、手芸品製作などがある。責任を明確にするため、スタッフは手順のサポートはするが作業の手伝いはしない。参加者は「出勤者」と呼ばれる。
働くのは約40人で、若年認知症の人は5人。62歳で認知症と診断された男性(64)は、大手メーカーを定年退職して再就職した。だが、車通勤が難しくなり、仕事を辞めた。昨年秋から週3回、スマイルに出勤している。「作業は好きですよ。お金が目的じゃないけど、もらったお小遣い(給料)で好きな推理小説を買っています」
「給料」は、仕事内容や作業日数によって月額で数百円~数千円の幅がある。仕事の対価と実感してもらうため、茶封筒に入れて本人に手渡す。
同病院の水野裕・認知症センター長は「認知症になって、できないことばかり言われ続けると、疎外感を感じてしまう。仕事があると、自分は必要とされていると感じ、生き生きと過ごしていける。症状が進んで仕事ができなくなれば段階的にデイサービスに移行していただく」と話す。(編集委員・清川卓史)
生 き が い も う 一 度 認 知 症 社 会
編集委員・清川卓史:2015年12月6日05時07分
昇進直後の働き盛りで認知症と診断され、失意のなかで会社を辞めた52歳の女性。いま介護施設で再び働き、生きがいと収入を得ています。そこには80歳の母の支えがありました。
ご参考URL=http://news.asahi.com/c/albYb2yCyFcPt8ae
ご参考URL=http://www.asahi.com/articles/ASHCC6V2FHCCULZU00N.html?ref=nmail
静岡県富士宮市の石川恵子さん(52)は48歳のとき、アルツハイマー病と診断された。今はグループホームでパート職員として働く。給料は月約7万2千円。障害年金約7万円を合わせ、市内に住む母親の手助けを得て暮らしている。「お給料があるから生活できる。みんながいるから仕事も楽しい」
特集: 認 知 症 社 会
一昨年8月まで大手メーカーの社員だった。徹夜で仕上げた業務改善リポートで社長賞をとったこともあるという。異変が起きたのは、主任職に昇進し、男性の部下や同僚とのあつれきに強いストレスを感じていたころだ。車で帰宅途中、道がわからなくなった。気づくと、40キロ以上離れた静岡市内にいた。
1年半、休職して退職した。20年以上勤めた会社を辞めたことについて、「さびしかったな。男には負けない、一生頑張っていこうと思っていたから」と振り返る。
休職中に主治医から、今後の生活について地域包括支援センターに相談してみたらと勧められた。センターでは職員の赤池好子さんから、自宅近くの介護施設でのボランティアを提案された。これが転機だった。
まずはボランティアとして通い、施設を運営する社長に「私、働きたいんです」と伝えたのをきっかけに、パート職員として採用された。社長は「認知症のお年寄りが同じ話を繰り返しても、笑顔で真剣に耳を傾け続ける。その姿は若いスタッフの勉強にもなると考えた」と話す。
現在の「いこいの家 源道寺」での勤務は週5日、午後1時半~5時半。自分の体験を市民らに話す講演活動のほかは一日も休んだことはない。
仕事は、入居者の見守り、洗濯やモップがけ、おやつ調理やレクリエーションの補助など。次の作業を自分から見つけるのが少し苦手だが、やることがわかれば手を抜かない。同僚は「恵子さーん、洗濯物の取り込み、お願いしていいですか」「おやつ作りを手伝ってください」など、折をみて声をかける。
勤め始めたころは、携帯電話のアラームを出勤の合図にした。次第に携帯が使えなくなり、出勤時刻を間違える日もでてきた。昨年から、食事の支度など日々の暮らしを支えるため、母の良子さん(80)が娘の家に通い、ほぼ連日泊まるようになった。
良子さんは昼過ぎ、娘と一緒に家を出て途中まで送り、自分のパート先のプレス加工所に向かう。「ちゃんと仕事しなきゃ」と表情を硬くして緊張する娘を励ます。夕方は先に戻って出迎える。娘の症状の進行が不安で眠れない夜もある。
恵子さんのささやかな楽しみは、母と2人で飲む風呂上がりの缶ビールだ。「きょうも働いて疲れたから飲もうかって。半分ずつね」。350ミリ缶1本をコップでわけあい、職場の出来事を母に1時間近く語る。
■ 病 院 、 働 く 場 つ な ぐ
若年認知症になって以前のように働けなくても、できることはある。新たに仕事を見つけ、社会に役立つと実感することは生きがいにつながる。ただ、それを支える取り組みはまだ少ない。
愛知県一宮市にある病院「いまいせ心療センター」は昨夏、認知症の人が働く場「ワーキングデイスマイル」を始めた。もの忘れ外来に通う人らに「もう一度働きませんか」と呼びかけている。
今の主な仕事は自動車製造に使うゴム製品の出っ張りを工具で取る作業だ。地元企業から請け負った。ほかに介護製品の発送作業、手芸品製作などがある。責任を明確にするため、スタッフは手順のサポートはするが作業の手伝いはしない。参加者は「出勤者」と呼ばれる。
働くのは約40人で、若年認知症の人は5人。62歳で認知症と診断された男性(64)は、大手メーカーを定年退職して再就職した。だが、車通勤が難しくなり、仕事を辞めた。昨年秋から週3回、スマイルに出勤している。「作業は好きですよ。お金が目的じゃないけど、もらったお小遣い(給料)で好きな推理小説を買っています」
「給料」は、仕事内容や作業日数によって月額で数百円~数千円の幅がある。仕事の対価と実感してもらうため、茶封筒に入れて本人に手渡す。
同病院の水野裕・認知症センター長は「認知症になって、できないことばかり言われ続けると、疎外感を感じてしまう。仕事があると、自分は必要とされていると感じ、生き生きと過ごしていける。症状が進んで仕事ができなくなれば段階的にデイサービスに移行していただく」と話す。(編集委員・清川卓史)