小組織未来学:「人を見る目がない」理由
2015年11月25日 お仕事小 さ な 組 織 の 未 来 学
今から2020年までに中小企業の底力を見せつけて日本を次のステージに!
ビジネスに活かす『体の知性』
「 人 を 見 る 目 が な い 」 と 言 わ れ る 理 由
尹 雄大 (ユン・ウンデ)
【尹 雄大 (ユン・ウンデ)氏プロフィール: 政財界、アスリートや文化人など800人以上に取材し、そうした経験と様々な武術を稽古した体験をもとに身体論を展開している。主な著書に『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)『やわらかな体と言葉のレッスン』(春秋社)。】
「 見 る 目 」 は ど う す れ ば 得 ら れ る か
信用していた取引先に裏切られた。目をかけていた部下が自分の顔に泥を塗るようなミスをおかした。そういったことを引き金にしたトラブルに見舞われた際、周囲から「君は見る目がないな」と嘆息されたり、叱責されたりする人もいるかと思います。
「とにかく汚名を返上しなくては」と、これまで以上に仕事をがんばることでなんとか信頼の回復に努めようとするでしょう。情報をいっそう精査したり、知識を増やしたり、センスを磨いたりすることによって「見る目」を養えばいい。そうすれば問題の解決につながると期待する人もいるかもしれません。
では、情報を細かく調べたり、知識を貯め込んだりして、数多くの体験を重ねれば「人を見る目」を必ず得られるかというと、そうとは言えないでしょう。仮にどれだけ体験を積み重ねても、同じようなところで失敗を繰り返す人はいるものです。どうしてそういうことになってしまうのでしょう。
「 努 力 が 足 り な い 」 で 思 考 を
拒 絶 し て は い な い か
もっとも簡単な答えは「いつまでも目利きに失敗するとしたら、それは努力が足りないのだ」です。こうした「とにかくやればできる」という奮励を促す文言は、誰にでも、どういう状況でもあてはまります。だから汎用性は高いように聞こえます。
しかしながら、どれだけ努力したところで、できないときはできない。それでもなお「やればできる」を言い続けるとしたら、ここでの汎用性とは、実は柔軟な思考を拒絶しているから成り立つ信念でしかありません。
「とにかく努力しなくては」とがむしゃらになる前に、他人に「見る目がない」と言われたときの心持ちを思い返して欲しいのです。恥じ入るような気持ちになったと思います。ショックのあまり信頼回復することは考えても、肝心の「見る目」とは何かということを検討する余裕を自分に与えなかったのではないでしょうか。まず落ち着いて、「見る目」とは何かを考える必要がありそうです。
「見る目」は眼球や視力を指しているのではなく、観察する力の有無を指摘しているはずです。当然ながら、じっと見れば観察力が培われるわけでもありません。観察するにはある種の角度、観点が欠かせないからです。
観点が大事だと聞くと、またしても本を読んで知識を得るだとか、とにかく「きちんとした認識を得なくてはいけない」と思うかもしれません。なぜなら「正しい認識に基づいて実践すれば正しい答えに至ることができる」と私たちは信じているからです。見る目が得られるかどうかの分かれ目は、この発想に依存するかどうかにあるのではないでしょうか。
「 正 し い 認 識 」 と い う 色 眼 鏡
私たちは「正しい認識に基づいて実践すれば正しい答えに至ることができる」という思いこみをあまり疑いません。そのため「正しい認識」の「正しさ」とは何かを問うことなく、「そういうものがある」という前提でスタートしてしまいます。こういう発想への疑いのなさは、学校の勉強からスポーツ、ビジネスまで一貫しています。例えば、ゴルフをする人は正しいスイングを身につければ、スコアに結果が反映されると思い、正しく学ぼうとするでしょう。このとき大事なことをすっ飛ばしています。
多くの人が信頼を寄せている「正しさ」とは、おおむね誰かの出してくれた結論です。だから「正しい認識に基づいて実践すれば、正しい答えに至ることができる」とは、実際のところ「正しい答えを知って行えば、正しい答えに至る」というトートロジーでしかないのです。
どこかに正しい「見る目」があると考え、情報や知識、体験を得ようと努めたところで、それは自分の目ではないものを通して見ようと努力していることになります。いわば借り物の目で見ようとしているわけですから、目の前の人や現象をきちんと評価することはできないでしょう。
借 り 物 の 目 か ら 自 由 に な る 方 法
「借り物の目で見る」とは、「自分が知っていることとの照らし合わせで物事を判断する」と言い換えることができます。もちろん判断するためには知識が必要です。しかし突き詰めて言うと、知識とは「誰かが言っていたこと」です。
あくまで仮定として知識を用いるか、判断の根拠にするかでは大きな差が生まれます。前者は自分が常に色眼鏡を通じて物事を見ていることに自覚的な態度が生まれます。後者からは正しい答えと自分が知っていることを近づけようという努力が生じます。いわば常に答え合わせに余念がないわけですから、絶えず目の前で起きていることを見逃してしまうことになります。これが「見る目のなさ」につながるのではないでしょうか。
物事や人を純粋に見ることは至難の技です。正しいと思っている認識も、きわめて個人的な体験をもとにした感情のバイアスがかかっていることが多いからです。自分が「正しい」と思っていることも、案外「誰かに誉められたから」といった体験があって、それを大事にしているから固執しているにすぎないこともあります。
完全にバイアスを取り除くのは不可能かもしれません。しかし、自分が色眼鏡で見ていることを知るとき、「私は何をどのように見ているのか?」という問いが生まれます。
確定した結論から物事を見るのではなく、今、目の前で起きつつある何かを見る。バイアスから逃れられないかもしれないけれど、見られるものなら見たい。その好奇心が物事の芯を捉える「見る目」を育ててくれるのかもしれません。
今から2020年までに中小企業の底力を見せつけて日本を次のステージに!
ビジネスに活かす『体の知性』
「 人 を 見 る 目 が な い 」 と 言 わ れ る 理 由
尹 雄大 (ユン・ウンデ)
【尹 雄大 (ユン・ウンデ)氏プロフィール: 政財界、アスリートや文化人など800人以上に取材し、そうした経験と様々な武術を稽古した体験をもとに身体論を展開している。主な著書に『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)『やわらかな体と言葉のレッスン』(春秋社)。】
「 見 る 目 」 は ど う す れ ば 得 ら れ る か
信用していた取引先に裏切られた。目をかけていた部下が自分の顔に泥を塗るようなミスをおかした。そういったことを引き金にしたトラブルに見舞われた際、周囲から「君は見る目がないな」と嘆息されたり、叱責されたりする人もいるかと思います。
「とにかく汚名を返上しなくては」と、これまで以上に仕事をがんばることでなんとか信頼の回復に努めようとするでしょう。情報をいっそう精査したり、知識を増やしたり、センスを磨いたりすることによって「見る目」を養えばいい。そうすれば問題の解決につながると期待する人もいるかもしれません。
では、情報を細かく調べたり、知識を貯め込んだりして、数多くの体験を重ねれば「人を見る目」を必ず得られるかというと、そうとは言えないでしょう。仮にどれだけ体験を積み重ねても、同じようなところで失敗を繰り返す人はいるものです。どうしてそういうことになってしまうのでしょう。
「 努 力 が 足 り な い 」 で 思 考 を
拒 絶 し て は い な い か
もっとも簡単な答えは「いつまでも目利きに失敗するとしたら、それは努力が足りないのだ」です。こうした「とにかくやればできる」という奮励を促す文言は、誰にでも、どういう状況でもあてはまります。だから汎用性は高いように聞こえます。
しかしながら、どれだけ努力したところで、できないときはできない。それでもなお「やればできる」を言い続けるとしたら、ここでの汎用性とは、実は柔軟な思考を拒絶しているから成り立つ信念でしかありません。
「とにかく努力しなくては」とがむしゃらになる前に、他人に「見る目がない」と言われたときの心持ちを思い返して欲しいのです。恥じ入るような気持ちになったと思います。ショックのあまり信頼回復することは考えても、肝心の「見る目」とは何かということを検討する余裕を自分に与えなかったのではないでしょうか。まず落ち着いて、「見る目」とは何かを考える必要がありそうです。
「見る目」は眼球や視力を指しているのではなく、観察する力の有無を指摘しているはずです。当然ながら、じっと見れば観察力が培われるわけでもありません。観察するにはある種の角度、観点が欠かせないからです。
観点が大事だと聞くと、またしても本を読んで知識を得るだとか、とにかく「きちんとした認識を得なくてはいけない」と思うかもしれません。なぜなら「正しい認識に基づいて実践すれば正しい答えに至ることができる」と私たちは信じているからです。見る目が得られるかどうかの分かれ目は、この発想に依存するかどうかにあるのではないでしょうか。
「 正 し い 認 識 」 と い う 色 眼 鏡
私たちは「正しい認識に基づいて実践すれば正しい答えに至ることができる」という思いこみをあまり疑いません。そのため「正しい認識」の「正しさ」とは何かを問うことなく、「そういうものがある」という前提でスタートしてしまいます。こういう発想への疑いのなさは、学校の勉強からスポーツ、ビジネスまで一貫しています。例えば、ゴルフをする人は正しいスイングを身につければ、スコアに結果が反映されると思い、正しく学ぼうとするでしょう。このとき大事なことをすっ飛ばしています。
多くの人が信頼を寄せている「正しさ」とは、おおむね誰かの出してくれた結論です。だから「正しい認識に基づいて実践すれば、正しい答えに至ることができる」とは、実際のところ「正しい答えを知って行えば、正しい答えに至る」というトートロジーでしかないのです。
どこかに正しい「見る目」があると考え、情報や知識、体験を得ようと努めたところで、それは自分の目ではないものを通して見ようと努力していることになります。いわば借り物の目で見ようとしているわけですから、目の前の人や現象をきちんと評価することはできないでしょう。
借 り 物 の 目 か ら 自 由 に な る 方 法
「借り物の目で見る」とは、「自分が知っていることとの照らし合わせで物事を判断する」と言い換えることができます。もちろん判断するためには知識が必要です。しかし突き詰めて言うと、知識とは「誰かが言っていたこと」です。
あくまで仮定として知識を用いるか、判断の根拠にするかでは大きな差が生まれます。前者は自分が常に色眼鏡を通じて物事を見ていることに自覚的な態度が生まれます。後者からは正しい答えと自分が知っていることを近づけようという努力が生じます。いわば常に答え合わせに余念がないわけですから、絶えず目の前で起きていることを見逃してしまうことになります。これが「見る目のなさ」につながるのではないでしょうか。
物事や人を純粋に見ることは至難の技です。正しいと思っている認識も、きわめて個人的な体験をもとにした感情のバイアスがかかっていることが多いからです。自分が「正しい」と思っていることも、案外「誰かに誉められたから」といった体験があって、それを大事にしているから固執しているにすぎないこともあります。
完全にバイアスを取り除くのは不可能かもしれません。しかし、自分が色眼鏡で見ていることを知るとき、「私は何をどのように見ているのか?」という問いが生まれます。
確定した結論から物事を見るのではなく、今、目の前で起きつつある何かを見る。バイアスから逃れられないかもしれないけれど、見られるものなら見たい。その好奇心が物事の芯を捉える「見る目」を育ててくれるのかもしれません。