「生涯現役社会」創造隊/草の根運動②
2013年5月13日 お仕事 さらに建築家・安藤忠雄氏の“学歴も社会的基盤もない。仕事は自分でつくらなければならない。独学の建築家が大阪から、世界に闘いを挑んだ。気力、集中力、目的意識、強い思いが、自らに課したハードルを越えさせる。”と書かれた迫力には、強力パンチで迫るものがある。
縮む日本人を叱咤する異色の半生記と書かれた、同書「仕事をつくる/私の履歴書」には、“感性を磨く芸術の島(直島)に/福武さんの情熱に感銘”する安藤さんとの瀬戸内国際芸術祭に絡む素晴らしい関わりが以下のように記述されている。
“2010年に行われた瀬戸内国際芸術祭に、多くに人が集まったのには驚いた。開催される前はうまくいくのか疑問だった。島から島への移動手段は船に限られるし、点在する島々が一体となって芸術祭を行う姿が想像できなかった。そんな私の懸念を覆して成功を収めた芸術祭の中核を担ったのが直島だ。
ベネッセコーポレーションの福武聡一郎さんとは1988年に出会った。そのとき、福武さんから直島を芸術の島にしたいとという構想を初めて聞いた。当時は、工場から排出される亜硫酸ガスの影響で緑が失われ、無残なはげ山と化していた。
そのような荒廃した島を前に福武さんは「美しい海と環境を取り戻し、世界の一流芸術家たちの表現の場とすることで、訪れる人々の価値観を変え、感性を磨くための島にしたい」という。私は理解に苦しんだ。
福武さんには強い信念があった。「経済は文化のしもべである」という言葉は、その信条を的確に表している。人間が生きるために本当に必要な力を生み出すのは経済ではなく、芸術・文化なのだ。芸術こそが人生の道標となり、人々の心を豊かにする。
バブル絶頂期の当時、時代の流れとあまりにもかけ離れた考え方であった。しかし私は福武さんの気迫と精神力に賭けてみたいと思うに至った。荒廃した島を豊かにし、現代美術の場にするという勇気が人々を惹きつける原動力になると確信した。
福武さんはウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、草間彌生といった最先端の現代美術家たちに協力を呼びかけた。彼らも福武さんの情熱に押されて、参加してくれた。一方で私たちははげ山に苗木を植える運動を地道に進めながら、美術館やホテルの建築設計に携わってきた。
計画が発表された当初は、反対の声が上がった。だが島に人が訪れるようになるにつれて島民は自発的に民宿や喫茶店、レストランを営むようになり、次第に自分の島に誇りを持つようになった。
建築会社の努力も忘れてはならない。22年ものあいだ直島での工事を担当した鹿島建設の現場監督が、プライドの高い職人をまとめ上げ、緊張感のある建築が生まれた。
2010年には第二の地中美術館とでも呼ぶべき、李禹美術館が開園した。直島で私が携わった、七つ目の建築だ。これからもこの島とかかわってゆきたい。
フランス大使を地中美術館にご案内したとき、クロード・モネの『睡蓮』を見て、こんなに大きな『睡蓮』が日本にあるのかと驚いていた。「光の画家」と呼ばれるモネに代表される印象派の芸術家たちは、東洋の文化国家、日本に憧れを抱いていた。
日本が、国際社会での存在感を保つためには、かっての文化力を取り戻さなければならないーー『睡蓮』を見ていると、福武さんは以前からそのことに気づいていたように思えた。
福武さんは自由人だ。島ではいつも長靴で歩き回り、大企業のトップには見えない。自由な思考で、次から次へとアイデアを生み出す「身勝手の王様」だ。しかし、その判断力や自由さ、そして執念深さが強いリーダーシップの源となっている。
瀬戸内国際芸術祭は3カ月余りでのべ90万人以上が訪れたという。人の思いは、文字通り岩を穿ち、山をも動かすーー福武さんと共に仕事をする中で、教えられたことだ。 つづく
縮む日本人を叱咤する異色の半生記と書かれた、同書「仕事をつくる/私の履歴書」には、“感性を磨く芸術の島(直島)に/福武さんの情熱に感銘”する安藤さんとの瀬戸内国際芸術祭に絡む素晴らしい関わりが以下のように記述されている。
“2010年に行われた瀬戸内国際芸術祭に、多くに人が集まったのには驚いた。開催される前はうまくいくのか疑問だった。島から島への移動手段は船に限られるし、点在する島々が一体となって芸術祭を行う姿が想像できなかった。そんな私の懸念を覆して成功を収めた芸術祭の中核を担ったのが直島だ。
ベネッセコーポレーションの福武聡一郎さんとは1988年に出会った。そのとき、福武さんから直島を芸術の島にしたいとという構想を初めて聞いた。当時は、工場から排出される亜硫酸ガスの影響で緑が失われ、無残なはげ山と化していた。
そのような荒廃した島を前に福武さんは「美しい海と環境を取り戻し、世界の一流芸術家たちの表現の場とすることで、訪れる人々の価値観を変え、感性を磨くための島にしたい」という。私は理解に苦しんだ。
福武さんには強い信念があった。「経済は文化のしもべである」という言葉は、その信条を的確に表している。人間が生きるために本当に必要な力を生み出すのは経済ではなく、芸術・文化なのだ。芸術こそが人生の道標となり、人々の心を豊かにする。
バブル絶頂期の当時、時代の流れとあまりにもかけ離れた考え方であった。しかし私は福武さんの気迫と精神力に賭けてみたいと思うに至った。荒廃した島を豊かにし、現代美術の場にするという勇気が人々を惹きつける原動力になると確信した。
福武さんはウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、草間彌生といった最先端の現代美術家たちに協力を呼びかけた。彼らも福武さんの情熱に押されて、参加してくれた。一方で私たちははげ山に苗木を植える運動を地道に進めながら、美術館やホテルの建築設計に携わってきた。
計画が発表された当初は、反対の声が上がった。だが島に人が訪れるようになるにつれて島民は自発的に民宿や喫茶店、レストランを営むようになり、次第に自分の島に誇りを持つようになった。
建築会社の努力も忘れてはならない。22年ものあいだ直島での工事を担当した鹿島建設の現場監督が、プライドの高い職人をまとめ上げ、緊張感のある建築が生まれた。
2010年には第二の地中美術館とでも呼ぶべき、李禹美術館が開園した。直島で私が携わった、七つ目の建築だ。これからもこの島とかかわってゆきたい。
フランス大使を地中美術館にご案内したとき、クロード・モネの『睡蓮』を見て、こんなに大きな『睡蓮』が日本にあるのかと驚いていた。「光の画家」と呼ばれるモネに代表される印象派の芸術家たちは、東洋の文化国家、日本に憧れを抱いていた。
日本が、国際社会での存在感を保つためには、かっての文化力を取り戻さなければならないーー『睡蓮』を見ていると、福武さんは以前からそのことに気づいていたように思えた。
福武さんは自由人だ。島ではいつも長靴で歩き回り、大企業のトップには見えない。自由な思考で、次から次へとアイデアを生み出す「身勝手の王様」だ。しかし、その判断力や自由さ、そして執念深さが強いリーダーシップの源となっている。
瀬戸内国際芸術祭は3カ月余りでのべ90万人以上が訪れたという。人の思いは、文字通り岩を穿ち、山をも動かすーー福武さんと共に仕事をする中で、教えられたことだ。 つづく