高橋流:定年後生涯現役の生き方紹介②
2012年6月19日 お仕事 ライフ・ベンチャーは、その名のごとく、人生冒険である。私はその言葉こそ思い浮かばなかったが、まさに人生冒険の旅立ちをしたのである。
冒険は用意周到でなければならないが、私は無謀と思われるところがあって、決して胸の張れるものではないことは自覚していた。
私は世間という荒波に木の葉の舟で漕ぎだしてしまったのだ。ライフ・ベンチャー・クラブは、まさに救助船だった。事務所を持たない私どもに事務所として使うよう提供してくれたのだ。おかげでイベント業を、ここを根城にやれるようになった。私は意気洋々として出勤し、ここで仕事ができる身分になったことを喜んだ。
「生涯現役とは何ぞや」私はここで生涯現役を学んだ。
教えられたことは、自分の知識、経験、得意技に磨きをかけて、世のため人のため役立てること。それを生き甲斐として、励み実践することだ。生涯学習も大事だが、学びだけでは自己満足になってしまう。社会に役立つこと。その目的のために実践活動をすること。実践こそ命だ。したがって、単なる生涯学習ではない。生涯学習と生涯現役の違いはそこにある。そのことを肝に銘じることだ。このようにこんこんと教えられた。
私の得意技は歌をうたい、作ること、それを生きがいにすることだ。私は生涯現役の生き方に心から共鳴した。
ここは異業種交流の場でもある。各界から様々な人が集まってくる。人間関係の交流には事欠かない。私はここで様々な人の手のぬくもりに支えられた。
困ったことがあれば助けてくれる。そうしたわけで、ずいぶん恩恵を被ったのである。感謝してしきれないものがあった。
人は窮地に追い込まれた時、救いの手を差し伸べられたときほどありがたいものはない。
時代が平成に変わる前後、イベントの仕事はピンチになって幕を下ろしたが、作曲を通じて、ある音大の教授と知り合い、その学校の事務長に採用され、窮地を脱した。ただし、1年契約だった。平成3年になって、次に千葉で月刊誌を創刊したいという音楽家仲間から呼ばれ、その仕事に移った。だがこれからという時、わずか2カ月たらずで彼は亡くなってしまい、続いて父も亡くなって、相次ぐ死に直面した私は精神的に落ち込んで鬱状態になり、かつてないほどの苦しみを味わった。
この間仏教を学び、禅に於いては呼吸の大切さを知った。精神の安定を得ると、就職先が平静に選ぶことができて銀行に就職ができた。すると追っかけ専属の歌手から、レコードを出したいからといって作詞を頼まれた。すぐにとりかかって懸命に作った。これが発売されるや、すっかり元気を取り戻した。
そこで2年近くおいとましたライフ・ベンチャーに復帰した。
ここから、私の念願だった本来の歌の道に曙光が見えてきたのである。
当時、クラブでは、毎月土曜日の午後1時から5時までの間、セミナーを行っていた。4時間にわたる長丁場で、間の休憩時間には、ヨガをやっていたが、代表の計らいで、「みんなで歌おう」の時間を設けよう。ついては歌唱指導をやってはどうかということになった。
歌はみんなが知っている唱歌や童謡である。思えば私が夢に描いていた歌の道が見えてきたのである。私は何はともあれ始めることが大事だと思い、すぐに賛同して始めた。時間は10分で2曲歌うことにした。これを始めたことが、それからの私を決定づけたのである。
折よくここに生活余暇開発士の資格を採った方がいた。彼は仲間にも働きかけ、私に町に出て歌の会を独立させてやってはどうかと提案し、会場の準備やらお膳立てをしてくれて、私を担ぎあげてくれたのである。
平成4年12月の歳の暮れにも関わらず、善は急げと幕を開けたのである。これが今の「心のふるさとを歌う会」になった。思えばたったの10人でスタートしたものが、1年半ほどして口コミで増えて35人になったころ、代表が大手新聞に紹介してくれて取材を受け、これが記事になったおかげで一度に100人の申し込みがあった。
それも代表が予言した通りになった。奇跡としかいいようがない。このことを皮切りに私には奇跡のような出来事が相次いで起きるようになった。 (つづく)
冒険は用意周到でなければならないが、私は無謀と思われるところがあって、決して胸の張れるものではないことは自覚していた。
私は世間という荒波に木の葉の舟で漕ぎだしてしまったのだ。ライフ・ベンチャー・クラブは、まさに救助船だった。事務所を持たない私どもに事務所として使うよう提供してくれたのだ。おかげでイベント業を、ここを根城にやれるようになった。私は意気洋々として出勤し、ここで仕事ができる身分になったことを喜んだ。
「生涯現役とは何ぞや」私はここで生涯現役を学んだ。
教えられたことは、自分の知識、経験、得意技に磨きをかけて、世のため人のため役立てること。それを生き甲斐として、励み実践することだ。生涯学習も大事だが、学びだけでは自己満足になってしまう。社会に役立つこと。その目的のために実践活動をすること。実践こそ命だ。したがって、単なる生涯学習ではない。生涯学習と生涯現役の違いはそこにある。そのことを肝に銘じることだ。このようにこんこんと教えられた。
私の得意技は歌をうたい、作ること、それを生きがいにすることだ。私は生涯現役の生き方に心から共鳴した。
ここは異業種交流の場でもある。各界から様々な人が集まってくる。人間関係の交流には事欠かない。私はここで様々な人の手のぬくもりに支えられた。
困ったことがあれば助けてくれる。そうしたわけで、ずいぶん恩恵を被ったのである。感謝してしきれないものがあった。
人は窮地に追い込まれた時、救いの手を差し伸べられたときほどありがたいものはない。
時代が平成に変わる前後、イベントの仕事はピンチになって幕を下ろしたが、作曲を通じて、ある音大の教授と知り合い、その学校の事務長に採用され、窮地を脱した。ただし、1年契約だった。平成3年になって、次に千葉で月刊誌を創刊したいという音楽家仲間から呼ばれ、その仕事に移った。だがこれからという時、わずか2カ月たらずで彼は亡くなってしまい、続いて父も亡くなって、相次ぐ死に直面した私は精神的に落ち込んで鬱状態になり、かつてないほどの苦しみを味わった。
この間仏教を学び、禅に於いては呼吸の大切さを知った。精神の安定を得ると、就職先が平静に選ぶことができて銀行に就職ができた。すると追っかけ専属の歌手から、レコードを出したいからといって作詞を頼まれた。すぐにとりかかって懸命に作った。これが発売されるや、すっかり元気を取り戻した。
そこで2年近くおいとましたライフ・ベンチャーに復帰した。
ここから、私の念願だった本来の歌の道に曙光が見えてきたのである。
当時、クラブでは、毎月土曜日の午後1時から5時までの間、セミナーを行っていた。4時間にわたる長丁場で、間の休憩時間には、ヨガをやっていたが、代表の計らいで、「みんなで歌おう」の時間を設けよう。ついては歌唱指導をやってはどうかということになった。
歌はみんなが知っている唱歌や童謡である。思えば私が夢に描いていた歌の道が見えてきたのである。私は何はともあれ始めることが大事だと思い、すぐに賛同して始めた。時間は10分で2曲歌うことにした。これを始めたことが、それからの私を決定づけたのである。
折よくここに生活余暇開発士の資格を採った方がいた。彼は仲間にも働きかけ、私に町に出て歌の会を独立させてやってはどうかと提案し、会場の準備やらお膳立てをしてくれて、私を担ぎあげてくれたのである。
平成4年12月の歳の暮れにも関わらず、善は急げと幕を開けたのである。これが今の「心のふるさとを歌う会」になった。思えばたったの10人でスタートしたものが、1年半ほどして口コミで増えて35人になったころ、代表が大手新聞に紹介してくれて取材を受け、これが記事になったおかげで一度に100人の申し込みがあった。
それも代表が予言した通りになった。奇跡としかいいようがない。このことを皮切りに私には奇跡のような出来事が相次いで起きるようになった。 (つづく)