定 年 後 は 生 涯 現 役 の 生 き 方 を し よ う !!       高 橋  育 郎                                                                                  

 私の定年は、異常な形でやってきた。
 昭和28年、国鉄に採用され、営々と勤めあげてきたが、思いもかけない分割民営化の波に
襲われて、55歳定年を待たずして辞めなければならない運命にさらされたのである。

 私は早生まれであったから、54歳が定年であった。しかし、51歳のときに、民営化の話が具体化した。私はそのとき千葉鉄道管理局に在籍していた。

 この年の9月に管理局では総務部長より「来年52歳以上になる、駅長ほか現場長は全員集合のこと」という招集がかかった。

 来るべきものが、ついに来たかという不安が先立つ思いで誰もが集会場に集まったのである。

 部長からの話は「62年4月に分割民営化が実施されることになったので、62年に52歳以上になる管理者は、全員、退職するか用意した関連企業へ再就職するかを決めてほしい」との二者択一を迫られたのである。

 そのときの気持ちは、いま思い返しても言いようがないほど大変なものだった。ただ、結果的には誰もが路頭に迷う者はなく、どちらかの企業に救済された。私も、すぐに誘いがあって、行き場所は確保されたのであるが、それに甘える気持ちはなかった。このピンチをチャンスと捉え、組織を離れて自分の能力を試す時だ。自分らしく生きて行きたい。そんな野望にも似た気持ちになった。

 私は歌が好きで、歌をうたい、歌を作ることが好きであった。かっこよくいうとシンガーソング・ライターである。

 56年に国鉄団体旅行の歌を作詞して、これが大手のレコード会社から発売され6千枚ほど売れて、続いてお座敷電車の歌を上層部から依頼され作詞、これもレコード発売された。更に観光宣伝の歌もつくり、在職中に4曲作って世に出したのである。

 かつてはNHKで歌われた曲もある。また童謡の作曲作品も認められたものがあった。

 そこで私は自分の歌好きを活かしてやって行きたいと思ったのだ。しかし、それはかなりリスクに富んでいる。というのは好きとはいっても、音楽についても作詞にしても、素養といったものを持ち合わせていない。
 
 とにかく昭和16年、戦争が始まった年の小学校は、国民学校となり、戦時教育になって、歌は教えても音楽について、とりわけ楽典は教えてもらえずに終わったのだ。

 作詞に関しても、高校に入って関心が出て、少しばかり作ってみたが、改めて教えてもらったりしたことはなく自己流でやっていただけだった。

 
 そうした状況であったから、私がこの道を進もうとしたのは、全くといっていいほど無謀としかいえなかった。

 62年になって、4月にはJRが誕生するという時、約束通り肩をたたかれたのであるが、私は生まれが3月下旬であって、まだ若いことを理由に
Ⅰ年延長を頼んで聞きいれてもらい、JRを1年体験して53歳で退職した。

 退職の日は刻々迫ってきた。そこへある日イベント業を始めたという先輩が職場に訪ねてきて、私を一緒にやらないかと誘った。誘った先輩は、団体旅行にタレントを斡旋する仕事で、私にも歌手をやってほしいと言った。団体旅行の歌を出してからは、歌手まがいに歌ってお客さんを和ませた実績がある。それを彼は知って誘ってきたのだ。私は、これで世間に出られるきっかけができたことを喜んで、すぐ彼に同意し、退職するや彼のもとへ行った。

 ただし彼のところは、事務所もなければ、何もない。ないない尽くしの不安極まりないもので、現実はきびしく切ないものであった。

 そうしているうちに運命的な出会いがあった。63年12月初めのこと、彼が案内したのは、銀座に事務所を持って、生涯現役なるものを唱導しているライフ・ベンチャー・クラブであった。
生涯現役実践道場と呼んでいるところだ。   (つづく)