日野原医師、105年間「命」の使い方③
2017年12月29日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
週刊女性2017年11月21日号PRIME URL=http://www.jprime.jp/articles/-/11056?page=5
人間ドキュメント
生涯現役を貫いた医師・日野原重明先生、
105年間の「命」の使い方をたどる(続・続)
命は巡り、受け継がれ、永遠に生きる
老人への活動の一方で、冒頭に紹介した「いのちの授業」に代表される、子ども向けの活動も’87年に始めた。この一環だろう、2000年に、童話『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』をミュージカルにする原案を考えた。
春に葉っぱが生まれ、夏に人々に陰をつくったりしながら役に立ち、やがて秋になり散って死んでいく。でも命は終わりではない。葉っぱは土を肥やし、たくましい木の栄養となっていく─というのが原作の主題だ。
「“命は巡って永遠に生きる。受け継がれていき、人の心の中にも残るものだ”というメッセージが、日野原さんが書かれた原案からも伝わってきました。日野原精神を凝縮したような作品です」そう語るのは、ミュージカルの脚本・演出を手がけた犬石隆さん(演出家)だ。
実はこの作品、すさまじい集中力で作られた。この企画が旧知の黒岩祐治プロデューサーから犬石さんに持ち込まれたのが、2000年8月。聞けば日野原さんが自身の誕生日に合わせて、10月29日にすでに会場を押さえてあるという。準備期間はわずか2か月。
犬石さんはこう振り返る。
「普通だととうてい無理な日程です。ところが原案を読んでいくうちに、先生の命に対する考え方が伝わってきて、パワーをいただきました。何かが降りてきた。いま振り返っても信じられないような力が湧いてきて、無事、初日を迎えることができたのです」
公演は大好評で、’04年には日野原さんが、ルークという老医師役で登場。冒頭の台詞とラストのダンスも披露。92歳で初舞台と話題になった。毎年再演を重ね、合計約200ステージを上演している。
犬石さんにとって印象深いのは2010年のニューヨーク公演。終戦記念日のころだったため、挨拶に立った日野原さんの提案で、国籍を超えて戦死者に黙禱を捧げた。
そのあと、ミュージカルが幕を開けたため、客席との一体感が生まれたのかもしれない。犬石さんによれば、芝居が終わった瞬間、観客全員が一斉に席を立ち、スタンディングオベーション。拍手が鳴りやまず、出演者はみな感極まって涙を流したという。
このミュージカルで興味深いのは、前記した老医師ルークである。原作には存在しないのだが、日野原さんが自分を投影させてつくった人物である。実は、そのルークが死をおそれている。しかし生きることに疲れた少女が少しずつ明るさを取り戻していくさまに触れたり、葉っぱの営みから命は巡っていくことを感じながら、死に対する恐怖から解放されていく。
早春に咲く庭の梅に亡き妻を思う
ただ現実には、自身の死よりも先に、妻・静子さん(93歳没)との別れがあった。2013年5月、日野原さんが101歳のときである。妻であり、経理をするなど夫の仕事を支えるパートナーであり、一方では、知り合いが投げかける悩みの相談に優しくのることから、「田園調布のマリアさま」と言われるような存在でもあった。
しのぶ会で披露した自身の詩『静子を想う──二人の掌』の一節が切ない。《毎晩寝る時は 私の左手と静子の右手を合わせる 左手は私の掌 右手は静子の掌 二つの掌のタッチの中に 静子を私は感じる……朝夕の見舞いに握った手のあたたかさを思い出す私は あゝ、何という幸せか》(前掲自叙伝)
遺骨の灰を、梅の植わる庭に撒き、早春に咲く白梅、紅梅を見ては、妻を思った。その妻への思いが、ほとばしり出た瞬間があった。
昨年の11月7日、日野原さんは、「新老人の会」のイベントに参加していた。当時は、心臓病の影響で、車イスを利用していたが、約1500人の会員を前に、戦争と平和に関する講演をした。そのあと、加藤登紀子さんの歌を客席で楽しんだ。
加藤さんが『愛の讃歌』を歌い上げた直後である。日野原さんはすっくと車イスから立ち上がり、加藤さんに向けて、拍手し始めたのだ。その姿に感激した加藤さんは、壇上から下り、日野原さんのもとに駆け寄った。そして2人は抱き合うのである。
なぜ、それほど、この『愛の讃歌』は日野原さんの心をとらえたのか。加藤さんは、「この歌は、人は死ぬけれども、その後も生き続けるということを歌っているのです。それが伝わったのだろうと思います」
実はその日、加藤さんが歌った『愛の讃歌』は、越路吹雪の歌唱で知られる岩谷時子による訳詞ではない。加藤さん自身が訳したものだ。もしもあなたが死んで 私を捨てる時も 私はかまわない あなたと行くから 広い空の中を あなたと二人だけで 終わりのない愛を 生き続けるために
これはもともと、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが書いた詩だ。この歌を聴かせたくて、ピアフは当時、熱愛中だったボクサーをパリから公演先のアメリカに呼ぶのだが、乗っていた飛行機が墜落。翌日の夜、喪失感の中で、この曲を歌ったという。
加藤さんは自分の訳詞で歌おうと思った矢先、夫を亡くし、しばらく歌えないでいた。しかし40周年のコンサートを機に歌い始めた。するとピアフが乗り移ってきたような感触があったという。
「人が亡くなったとき、それが始まりであると。ここからは誰にも邪魔されずに、2人だけの永遠の時間が始まる。この歌は、そういう高らかな愛の宣言だったとわかったのです」 ピアフが加藤さんに乗り移ったように、加藤さんの思いが日野原さんにも伝わり、静子さんとの永遠の時間を感じたのだろう。
葉っぱは散って養分となり、花を咲かす
年が明け、今年になると、日野原さんの体調は思わしくなくなった。1月29日、「新老人の会」の会議のため、日野原さんと会ったときに交わした会話を、石清水さん(前出)は覚えている。
「先生、来年4月以降、『新老人の会』の地方講演にいらっしゃれますか」すると、つらそうな声を絞り出しながら、こう話した。
「もう、行けないね」3月には、自宅で付き添っている日野原さんの次男夫妻から、面会の誘いを受けた。胃瘻も拒否し、もう長くないという感触があったのだろう。4月初旬に行くと、衰弱は隠せない様子だった。
ところがである。2か月後の6月、日野原さんから直接電話があった。滑舌もしっかりし、張りのある声だった。「僕ね、2日前、病院で検査を受けたんだけど、どこも悪くないんだそうだ。これから地方にも行けるようにリハビリするよ。次はどこ?」振り返れば、これが最後の元気な日野原さんだった。
ほぼ同じころ、担当編集者の岡島さん(前出)が見舞いに行くと、同居する次男夫妻への手土産として持っていった最中を見た日野原さんが、「僕も食べたい」と言い出した。誤嚥の危険性があるので本当はいけないのだが、指先ほどの大きさにしてもらって食べていたという。
「最期まで生きるエネルギーを感じました。次男の奥様によると、おにぎりが食べたいとおっしゃるので、やわらかいご飯を握ったら、“パリパリの海苔で巻いたのが食べたい”と怒られたと、笑いながらこぼしておられました」
しかし、それから1か月と少しで最期を迎える。
前記の自叙伝の中で、《最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するだろう》と書かれているが、実際そのとおりの最期を迎えられたという。3人の息子などお世話になった人に「ありがとう」という言葉を残して。 日野原さんは多くの人のために、命を使った。それは、葉っぱが散って木の養分になるように、今後いろいろな花を咲かせるに違いない。
取材・文/西所正道(にしどころ・まさみち)◎奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を書いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。縁あって神奈川県葉山在住。
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
週刊女性2017年11月21日号PRIME URL=http://www.jprime.jp/articles/-/11056?page=5
人間ドキュメント
生涯現役を貫いた医師・日野原重明先生、
105年間の「命」の使い方をたどる(続・続)
命は巡り、受け継がれ、永遠に生きる
老人への活動の一方で、冒頭に紹介した「いのちの授業」に代表される、子ども向けの活動も’87年に始めた。この一環だろう、2000年に、童話『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』をミュージカルにする原案を考えた。
春に葉っぱが生まれ、夏に人々に陰をつくったりしながら役に立ち、やがて秋になり散って死んでいく。でも命は終わりではない。葉っぱは土を肥やし、たくましい木の栄養となっていく─というのが原作の主題だ。
「“命は巡って永遠に生きる。受け継がれていき、人の心の中にも残るものだ”というメッセージが、日野原さんが書かれた原案からも伝わってきました。日野原精神を凝縮したような作品です」そう語るのは、ミュージカルの脚本・演出を手がけた犬石隆さん(演出家)だ。
実はこの作品、すさまじい集中力で作られた。この企画が旧知の黒岩祐治プロデューサーから犬石さんに持ち込まれたのが、2000年8月。聞けば日野原さんが自身の誕生日に合わせて、10月29日にすでに会場を押さえてあるという。準備期間はわずか2か月。
犬石さんはこう振り返る。
「普通だととうてい無理な日程です。ところが原案を読んでいくうちに、先生の命に対する考え方が伝わってきて、パワーをいただきました。何かが降りてきた。いま振り返っても信じられないような力が湧いてきて、無事、初日を迎えることができたのです」
公演は大好評で、’04年には日野原さんが、ルークという老医師役で登場。冒頭の台詞とラストのダンスも披露。92歳で初舞台と話題になった。毎年再演を重ね、合計約200ステージを上演している。
犬石さんにとって印象深いのは2010年のニューヨーク公演。終戦記念日のころだったため、挨拶に立った日野原さんの提案で、国籍を超えて戦死者に黙禱を捧げた。
そのあと、ミュージカルが幕を開けたため、客席との一体感が生まれたのかもしれない。犬石さんによれば、芝居が終わった瞬間、観客全員が一斉に席を立ち、スタンディングオベーション。拍手が鳴りやまず、出演者はみな感極まって涙を流したという。
このミュージカルで興味深いのは、前記した老医師ルークである。原作には存在しないのだが、日野原さんが自分を投影させてつくった人物である。実は、そのルークが死をおそれている。しかし生きることに疲れた少女が少しずつ明るさを取り戻していくさまに触れたり、葉っぱの営みから命は巡っていくことを感じながら、死に対する恐怖から解放されていく。
早春に咲く庭の梅に亡き妻を思う
ただ現実には、自身の死よりも先に、妻・静子さん(93歳没)との別れがあった。2013年5月、日野原さんが101歳のときである。妻であり、経理をするなど夫の仕事を支えるパートナーであり、一方では、知り合いが投げかける悩みの相談に優しくのることから、「田園調布のマリアさま」と言われるような存在でもあった。
しのぶ会で披露した自身の詩『静子を想う──二人の掌』の一節が切ない。《毎晩寝る時は 私の左手と静子の右手を合わせる 左手は私の掌 右手は静子の掌 二つの掌のタッチの中に 静子を私は感じる……朝夕の見舞いに握った手のあたたかさを思い出す私は あゝ、何という幸せか》(前掲自叙伝)
遺骨の灰を、梅の植わる庭に撒き、早春に咲く白梅、紅梅を見ては、妻を思った。その妻への思いが、ほとばしり出た瞬間があった。
昨年の11月7日、日野原さんは、「新老人の会」のイベントに参加していた。当時は、心臓病の影響で、車イスを利用していたが、約1500人の会員を前に、戦争と平和に関する講演をした。そのあと、加藤登紀子さんの歌を客席で楽しんだ。
加藤さんが『愛の讃歌』を歌い上げた直後である。日野原さんはすっくと車イスから立ち上がり、加藤さんに向けて、拍手し始めたのだ。その姿に感激した加藤さんは、壇上から下り、日野原さんのもとに駆け寄った。そして2人は抱き合うのである。
なぜ、それほど、この『愛の讃歌』は日野原さんの心をとらえたのか。加藤さんは、「この歌は、人は死ぬけれども、その後も生き続けるということを歌っているのです。それが伝わったのだろうと思います」
実はその日、加藤さんが歌った『愛の讃歌』は、越路吹雪の歌唱で知られる岩谷時子による訳詞ではない。加藤さん自身が訳したものだ。もしもあなたが死んで 私を捨てる時も 私はかまわない あなたと行くから 広い空の中を あなたと二人だけで 終わりのない愛を 生き続けるために
これはもともと、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが書いた詩だ。この歌を聴かせたくて、ピアフは当時、熱愛中だったボクサーをパリから公演先のアメリカに呼ぶのだが、乗っていた飛行機が墜落。翌日の夜、喪失感の中で、この曲を歌ったという。
加藤さんは自分の訳詞で歌おうと思った矢先、夫を亡くし、しばらく歌えないでいた。しかし40周年のコンサートを機に歌い始めた。するとピアフが乗り移ってきたような感触があったという。
「人が亡くなったとき、それが始まりであると。ここからは誰にも邪魔されずに、2人だけの永遠の時間が始まる。この歌は、そういう高らかな愛の宣言だったとわかったのです」 ピアフが加藤さんに乗り移ったように、加藤さんの思いが日野原さんにも伝わり、静子さんとの永遠の時間を感じたのだろう。
葉っぱは散って養分となり、花を咲かす
年が明け、今年になると、日野原さんの体調は思わしくなくなった。1月29日、「新老人の会」の会議のため、日野原さんと会ったときに交わした会話を、石清水さん(前出)は覚えている。
「先生、来年4月以降、『新老人の会』の地方講演にいらっしゃれますか」すると、つらそうな声を絞り出しながら、こう話した。
「もう、行けないね」3月には、自宅で付き添っている日野原さんの次男夫妻から、面会の誘いを受けた。胃瘻も拒否し、もう長くないという感触があったのだろう。4月初旬に行くと、衰弱は隠せない様子だった。
ところがである。2か月後の6月、日野原さんから直接電話があった。滑舌もしっかりし、張りのある声だった。「僕ね、2日前、病院で検査を受けたんだけど、どこも悪くないんだそうだ。これから地方にも行けるようにリハビリするよ。次はどこ?」振り返れば、これが最後の元気な日野原さんだった。
ほぼ同じころ、担当編集者の岡島さん(前出)が見舞いに行くと、同居する次男夫妻への手土産として持っていった最中を見た日野原さんが、「僕も食べたい」と言い出した。誤嚥の危険性があるので本当はいけないのだが、指先ほどの大きさにしてもらって食べていたという。
「最期まで生きるエネルギーを感じました。次男の奥様によると、おにぎりが食べたいとおっしゃるので、やわらかいご飯を握ったら、“パリパリの海苔で巻いたのが食べたい”と怒られたと、笑いながらこぼしておられました」
しかし、それから1か月と少しで最期を迎える。
前記の自叙伝の中で、《最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するだろう》と書かれているが、実際そのとおりの最期を迎えられたという。3人の息子などお世話になった人に「ありがとう」という言葉を残して。 日野原さんは多くの人のために、命を使った。それは、葉っぱが散って木の養分になるように、今後いろいろな花を咲かせるに違いない。
取材・文/西所正道(にしどころ・まさみち)◎奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を書いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。縁あって神奈川県葉山在住。