日野原医師、105年間「命」の使い方②
2017年12月28日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
週刊女性2017年11月21日号PRIME URL=http://www.jprime.jp/articles/-/11056?page=3
人間ドキュメント
生涯現役を貫いた医師・日野原重明先生、
105年間の「命」の使い方をたどる(続)
患者の心にまで寄り添う医療を始める
日野原さんにとって、大きなターニングポイントになったのは、1970年に起きた「よど号」ハイジャック事件である。学会出席のため搭乗した日航機が赤軍派によって乗っ取られたのだ。4日間機内に閉じ込められ命の危険も感じたが、無事解放される。
当時、日野原さんは58歳。この経験を通して、残りの人生を与えられた寿命ととらえ、こう考えるようになる。「第二の人生が多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと希ってやみません」(日野原さん夫妻が出した関係者への挨拶状より)
日野原さんは、人の命を守る先駆的な試みを、次々に行い始める。
例えば、全人医療。病気を治すには、病気の部位だけに注目するのではなく、患者それぞれの人生、食生活や住環境といった生活環境も把握し、なおかつ心にも寄り添いながら行われなければならないというスタンスだ。
興味深いエピソードがある。語るのは、障害のある人の施設『ねむの木学園』理事長の宮城まり子さん。40年ぐらい前のこと。過労で体調を崩し、聖路加国際病院に入院していた。脚も腫れていて歩けなかったのだ。
ある日、日野原さんが宮城さんの病室に入ってきた。旧知の仲だから、言葉遣いも態度もフランクだ。「まりちゃん、僕の脚のほうが腫れているよ、ほら」そう言って、ズボンの裾をまくり上げてみせた。まず目に飛び込んできたのは、毛むくじゃらのすね。次に見たのは腫れているふくらはぎ。ジッと脚を見入る宮城さんに、日野原さんは言った。「一日、仕事をしていれば脚も腫れるよ。仕事に負けていてはダメだよ。君は大切な仕事をしているんだから。もっと頑張らなきゃダメ」
「はい」と宮城さんが応えると、「もう治った!」と励まして、病室を出ると日野原さんは、エレベーターは使わず、階段を上がっていった。
「お医者さまが自分の脚を見せる。ほかのお医者さまはそんなことをしないと思うけど、日野原先生はそこから感じるものを望まれたのだと思う。私のような者には、こういう治療法がいちばん効くことをおわかりになっていたのです。私の脚、まだ腫れていたけど、気持ちの面で立ち直って、数日後に退院した。名医だと思う。
あれから何度も入院したり、“先生、もう疲れた、もうやめる”と弱音を吐いたりすると、“何言っているんだ、僕はまりちゃんより15歳も上なんだよ、頑張らなきゃ!”と言ってくださって。そんなふうに私のことを励ましてくださいました」
それから約20年後、宮城さんが最愛の作家、吉行淳之介さんを看取った際、日野原さんが横にいた。聖路加国際病院の病室で、宮城さんは、作品を書いてきた吉行さんの右手を持ち、日野原さんが左手を持って見送った。当時、吉行さんはねむの木学園理事。死後、日野原さんが引き継ぎ理事長代行に就任した。日野原さんらしいエピソードだ。
“新しい老人”の生き方を探る
それ以外にも日野原さんは、医療の世界に、命を守るための革命的な発想を次々に世に問うていく。
例えば、人間ドック。病気の早期発見・早期治療が大事だと、日野原さんはごく早い段階で病院に導入したが、それでも十分でないと考えた。そこで始めたのが、「予防医療」である。当時、活動をともにした紀伊國献三さん(笹川記念保健協力財団最高顧問)は、次のように話す。
「それまでの医療は、治療に大きな力点が置かれていました。そこから一歩進んで、予防医療をやらなければと、日野原先生は考えたのです。そして自分の健康は自分で守ることの大切さを説いたわけです」 日常生活に、病気にならないような食生活や運動習慣といった、いわば「生活習慣」の概念を広めようとした。
いまでは誰でも知っていることだが、日野原さんは’70年代から予防の大切さを訴えていた。それを普及するために、’73年、「ライフ・プランニング・センター」という財団法人を立ち上げた。途中、聖路加国際病院院長の誘いもあったが、それを断っても、この財団に力を注いだ。
「成人病」を「生活習慣病」に変えるよう、厚生省(当時)に働きかけたのも、そうした活動の一環である。家庭で血圧を測れるようにしたのも、日野原さんの運動の賜物だ。同財団に’80年から職員として関わった前出の石清水さんはこう話す。
「血圧の自己測定運動も、最初、多くの専門家は“とんでもないことだ”と反対しました。でも、先生は自ら全国を回り、聴診器を用いた血圧計の使い方を主婦にも教えていました。勇気のいることだったと思います」 その後、電子血圧計が普及し、自己測定は当たり前になった。負けず嫌いで頑固な日野原さんの面目躍如である。
さらに日野原さんは、「新老人の会」を、2000年に立ち上げる。新しい老人の生き方を探る会だ。設立当初から同会の事務局長を務める前記の石清水さんが語る。
「それまでの老人は人に迷惑をかけないように生きるという考えが一般的でした。でも日野原先生は、高齢者だからこそ持っている知恵や経験を社会に還元することを考えました。また新しいことにチャレンジして生きがいを見いだすことも大事だと訴えました。老いることを“新しい価値”ととらえたわけです。仲間を増やして、あの人がやるなら私もと刺激しあうような国民運動にしたのです」
3、4年前までは、年間30か所で講演をし、「新老人の会」が全国組織になるよう努めた。そのかいあって、ピークの2011年には、会員は1万2千人を数えた。「新老人の会」のいちばんのモデルが日野原さんであったことは誰もが認めるところだろう。
連載を何本も抱え、生き方などいろいろな考えを広めた。80歳で聖路加国際病院の院長を引き受け、その3年後に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。日野原さんはその日の外来診察を中止し、被害にあった640人を引き受けることを決断、命を救ったこともあった。
90歳を越えても、若い人がエレベーターを使っているのを横目に、書類がいっぱいに入った紙袋を抱えながらでも階段を上がる。100歳になってようやく「徹夜はそろそろやめようか」というスタミナにも驚かされる。新しいことに挑戦するのが大好きで、90代後半から俳句や絵画を始め、100歳からFacebookを使って「新老人の会」会員にメッセージを伝えるようになった。 つづく
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
週刊女性2017年11月21日号PRIME URL=http://www.jprime.jp/articles/-/11056?page=3
人間ドキュメント
生涯現役を貫いた医師・日野原重明先生、
105年間の「命」の使い方をたどる(続)
患者の心にまで寄り添う医療を始める
日野原さんにとって、大きなターニングポイントになったのは、1970年に起きた「よど号」ハイジャック事件である。学会出席のため搭乗した日航機が赤軍派によって乗っ取られたのだ。4日間機内に閉じ込められ命の危険も感じたが、無事解放される。
当時、日野原さんは58歳。この経験を通して、残りの人生を与えられた寿命ととらえ、こう考えるようになる。「第二の人生が多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと希ってやみません」(日野原さん夫妻が出した関係者への挨拶状より)
日野原さんは、人の命を守る先駆的な試みを、次々に行い始める。
例えば、全人医療。病気を治すには、病気の部位だけに注目するのではなく、患者それぞれの人生、食生活や住環境といった生活環境も把握し、なおかつ心にも寄り添いながら行われなければならないというスタンスだ。
興味深いエピソードがある。語るのは、障害のある人の施設『ねむの木学園』理事長の宮城まり子さん。40年ぐらい前のこと。過労で体調を崩し、聖路加国際病院に入院していた。脚も腫れていて歩けなかったのだ。
ある日、日野原さんが宮城さんの病室に入ってきた。旧知の仲だから、言葉遣いも態度もフランクだ。「まりちゃん、僕の脚のほうが腫れているよ、ほら」そう言って、ズボンの裾をまくり上げてみせた。まず目に飛び込んできたのは、毛むくじゃらのすね。次に見たのは腫れているふくらはぎ。ジッと脚を見入る宮城さんに、日野原さんは言った。「一日、仕事をしていれば脚も腫れるよ。仕事に負けていてはダメだよ。君は大切な仕事をしているんだから。もっと頑張らなきゃダメ」
「はい」と宮城さんが応えると、「もう治った!」と励まして、病室を出ると日野原さんは、エレベーターは使わず、階段を上がっていった。
「お医者さまが自分の脚を見せる。ほかのお医者さまはそんなことをしないと思うけど、日野原先生はそこから感じるものを望まれたのだと思う。私のような者には、こういう治療法がいちばん効くことをおわかりになっていたのです。私の脚、まだ腫れていたけど、気持ちの面で立ち直って、数日後に退院した。名医だと思う。
あれから何度も入院したり、“先生、もう疲れた、もうやめる”と弱音を吐いたりすると、“何言っているんだ、僕はまりちゃんより15歳も上なんだよ、頑張らなきゃ!”と言ってくださって。そんなふうに私のことを励ましてくださいました」
それから約20年後、宮城さんが最愛の作家、吉行淳之介さんを看取った際、日野原さんが横にいた。聖路加国際病院の病室で、宮城さんは、作品を書いてきた吉行さんの右手を持ち、日野原さんが左手を持って見送った。当時、吉行さんはねむの木学園理事。死後、日野原さんが引き継ぎ理事長代行に就任した。日野原さんらしいエピソードだ。
“新しい老人”の生き方を探る
それ以外にも日野原さんは、医療の世界に、命を守るための革命的な発想を次々に世に問うていく。
例えば、人間ドック。病気の早期発見・早期治療が大事だと、日野原さんはごく早い段階で病院に導入したが、それでも十分でないと考えた。そこで始めたのが、「予防医療」である。当時、活動をともにした紀伊國献三さん(笹川記念保健協力財団最高顧問)は、次のように話す。
「それまでの医療は、治療に大きな力点が置かれていました。そこから一歩進んで、予防医療をやらなければと、日野原先生は考えたのです。そして自分の健康は自分で守ることの大切さを説いたわけです」 日常生活に、病気にならないような食生活や運動習慣といった、いわば「生活習慣」の概念を広めようとした。
いまでは誰でも知っていることだが、日野原さんは’70年代から予防の大切さを訴えていた。それを普及するために、’73年、「ライフ・プランニング・センター」という財団法人を立ち上げた。途中、聖路加国際病院院長の誘いもあったが、それを断っても、この財団に力を注いだ。
「成人病」を「生活習慣病」に変えるよう、厚生省(当時)に働きかけたのも、そうした活動の一環である。家庭で血圧を測れるようにしたのも、日野原さんの運動の賜物だ。同財団に’80年から職員として関わった前出の石清水さんはこう話す。
「血圧の自己測定運動も、最初、多くの専門家は“とんでもないことだ”と反対しました。でも、先生は自ら全国を回り、聴診器を用いた血圧計の使い方を主婦にも教えていました。勇気のいることだったと思います」 その後、電子血圧計が普及し、自己測定は当たり前になった。負けず嫌いで頑固な日野原さんの面目躍如である。
さらに日野原さんは、「新老人の会」を、2000年に立ち上げる。新しい老人の生き方を探る会だ。設立当初から同会の事務局長を務める前記の石清水さんが語る。
「それまでの老人は人に迷惑をかけないように生きるという考えが一般的でした。でも日野原先生は、高齢者だからこそ持っている知恵や経験を社会に還元することを考えました。また新しいことにチャレンジして生きがいを見いだすことも大事だと訴えました。老いることを“新しい価値”ととらえたわけです。仲間を増やして、あの人がやるなら私もと刺激しあうような国民運動にしたのです」
3、4年前までは、年間30か所で講演をし、「新老人の会」が全国組織になるよう努めた。そのかいあって、ピークの2011年には、会員は1万2千人を数えた。「新老人の会」のいちばんのモデルが日野原さんであったことは誰もが認めるところだろう。
連載を何本も抱え、生き方などいろいろな考えを広めた。80歳で聖路加国際病院の院長を引き受け、その3年後に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。日野原さんはその日の外来診察を中止し、被害にあった640人を引き受けることを決断、命を救ったこともあった。
90歳を越えても、若い人がエレベーターを使っているのを横目に、書類がいっぱいに入った紙袋を抱えながらでも階段を上がる。100歳になってようやく「徹夜はそろそろやめようか」というスタミナにも驚かされる。新しいことに挑戦するのが大好きで、90代後半から俳句や絵画を始め、100歳からFacebookを使って「新老人の会」会員にメッセージを伝えるようになった。 つづく