日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &  
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週刊女性2017年11月21日号PRIME URL=http://www.jprime.jp/articles/-/11056
人間ドキュメント
     生涯現役を貫いた医師・日野原重明先生、
              105年間の「命」の使い方をたどる


 病院の現場に、講演に、医療の刷新運動に……100歳を越えてなお、新しいことに挑戦し、他人の命のために自分の命を使い続けてきた日野原重明さん。人生の最後まで実践し続けてきた「命」の使い方に迫る──。
  ◇   ◇   ◇  
 この人ほど「命」について伝わる言葉で話した医師はいないかもしれない。
 日野原重明さん。7月、105歳で亡くなったが、人生の後半は、子どもたちに「いのちの授業」を通して、命とは何かを伝える活動を続けていた。その授業をそばで聞いた人たちの話をまとめると次のような要旨になる。
 生命誕生から40億年という時間軸でみると、私たちがいま生きているときは、砂粒程度の小さな存在かもしれない。でも何億年もの間、受け継がれてきたいのちをあなたたちは授かった。何か意味があるはずだ。
 いのちはどこにあると思う? 心臓? 頭? 心臓は血液を全身に送るポンプ、頭は考えたりするとき使う。でもそれらは身体の一部にすぎない。では、いのちは何かといえば、目に見えないものなんだ。掴むことも触ることもできない。でも感じることはできる。
 葉っぱがそよいでいるのを見て、風が吹いているのを感じるみたいに。空気は見えないけど必要なように、いのちも同じように見えないけど大切なものだ。
 私は、いのちとはあなたたちが持っている時間だと思う。それをあなたたちは自分のためだけのものだと思っているかもしれない。でも大きくなったら、そのいのちと時間を自分以外の人のために使ってほしいんだ。そうして人の幸せのためにも。
 もし世界中の人たちがそういう考え方をすれば、戦争なんて絶対に起きないよ。自分の幸せばかりみているから、人は争ってしまう。戦争はいのちを奪うから絶対にやってはいけないんだ。
 日野原さんの人生を振り返るとき、これはまさに自身の「命」の使い方だった。人や人の命のために、自らの命を使った人生をたどりたい。    つづく
     戦争で医師としての無力感を感じた
 「僕はね、タイタニック号が沈没した年の1年前に生まれたんですよ
」 日野原さんは講演などで自己紹介するときに、よくこう言って会場を沸かせた。
 1911(明治44)年10月4日生まれである。6人きょうだいの次男。父親はプロテスタントの牧師である。生まれは山口市だが、少年時代は神戸で過ごす。日野原さんが書いた初めての自叙伝『僕は頑固な子どもだった』によれば、幼いころは丸顔で「西郷さん」と呼ばれたり、人前に出るとすぐに赤面するので「金時さん」とも呼ばれたという。
 しかし内面は、強烈な負けず嫌い。同書の編集をし、10年以上、日野原さんを担当した、雑誌『ハルメク』副編集長・岡島文乃さんはこう話す。「きょうだいでトランプ遊びをしていたとき、自分が負けそうになると、妹の脚をつっついたそうです。後年、妹さんがそのことを言ったら、“そうだよ、僕は負けず嫌いだからね”とすましていたとおっしゃったようです」
 そんな日野原さんをよく知る日曜学校の先生は、母親にこう言ったという。「しいちゃん(重明君)はよい方向に育てばいいけれど、悪い方向に向かえば、大変な子になりますよ」
 よい方向に育つきっかけになったのは、母親の病気だったかもしれない。重い腎臓病にかかり死線をさまよったことがあった。日野原さんは、神様に「お母さんを助けてください」と祈るぐらいしかできなかったが、医師が適切な治療をした結果、危機を脱出する。その一部始終を見た重明少年は、「人の命を助けるお医者さんになろう」(前掲書)と決意するのである。
 京都帝国大学医学部を卒業後、研修医として働くが、ひとりの少女の死に接し、医師の仕事とは何かという問題に直面する。少女は16歳。紡績工場で働いていたが、結核性腹膜炎という病名で入院していた。腹痛と吐き気で、次第にやせ衰えていった。母親はなかなか見舞いに来ることができない。母子家庭で、母親は働き詰めだったからである。
 症状は悪化の一途をたどる。入院から3か月後、打つ手なしの状態に。彼女は死を悟ったようにこう言った。「先生、どうも長い間、お世話になりました。……私はもうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。・・・ 先生、お母さんには心配をかけ続けで、申し訳なく思っていますので、先生から、お母さんによろしく伝えてください」(『死をどう生きたか』)
 日野原さんは、このとき、「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」と、励ましてしまう。強心剤を打つも身体は反応せず、茶褐色の胆汁を吐く。不要な治療を加え、安らかな最期を妨げていた。少女を苦しめてしまったことを、日野原さんは後悔する。
 死を受容した彼女に、どうして「安心して成仏しなさい」と言ってあげられなかったのか。なぜ彼女の手を握っていてあげなかったのかと。
 医師としての無力さを痛感する体験もした。太平洋戦争である。大学時代にかかった結核の後遺症があり、すぐには召集されず、勤務していた聖路加国際病院で診療にあたっていたのだ。後年、日野原さんの活動を支えた看護師の石清水由紀子さんは、当時の話を聞いたことがある。「東京大空襲のときなどは、ケガをした人が次から次へと運ばれてきたといいます。でも薬が満足に足りませんから、大ヤケドを負った人にも、新聞紙を燃やした粉しかかけられない。亡くなっていく人の死亡診断書を書くばかりで、本当につらかったそうです。特に100歳を過ぎてからでしょうか、そういう話をされるときは、苦渋の表情を浮かべておられました」
 そんな経験から、「戦争をしない」「軍隊は持たない」ことを明記した日本国憲法は大切だと訴え、改正には反対し続けた。一昨年、安全保障関連法が成立した際も、記者会見で強い口調で言った。「私は絶対反対です。全く反対。本当の憲法というのはもっと恕しがある。それが憲法のエッセンスです」      つづく