福士蒼汰:戦争体験/聞けるのは今だけ
2015年8月14日 お仕事 朝日新聞DijitalサイトURL=http://www.asahi.com/articles/ASH7W7JM5H7WPITB01R.html?ref=wmailm_0814_14で「継ぐ記憶:4」に掲載された下記俳優/福士蒼汰氏の戦争体験継ぐ記憶の転載記事をご紹介したい。
70年前の敗戦直前、広島原爆の史上最大悲惨な被災を浴びた爆心地:県産業奨励館の原爆ドーム見学をして「その戦争体験を聞けるのは今だけ」と悟り、直接行動に移した、生き残り被災者の2名から貴重な「継ぐ記憶」を学べたのは、本当に得難い人生体験だ。
被災後の生涯心身の苦痛を背負って語る者と、その人生苦悩を聴く者の両世代をつなげる二度と人類が犯すべきでない “ 戦争体験を、直接「聞けるのは今だけ」” の機会も心して、ぜひ70年節目の明日『終戦の日』を迎えたいと願う。
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俳優の福士蒼汰さん(22)は今年6月、フジテレビの終戦特番の取材で初めて広島の原爆ドームを訪れた。被爆前、県産業奨励館と呼ばれ官公庁などの事務所として使われていた。建物は全焼し、ほとんどの壁が崩れ落ちた。
「骨組み以外何もない」。福士さんはドームを見上げてつぶやいた。「原爆が落とされてなければ、今でも産業奨励館としてやってたかもしれない」。周囲には修学旅行生や観光客の姿。今の平和な広島からは、当時を想像するのは難しかったと話す。「真実を見いだすには時間や知識が足りない。もっと知らないと、と思いました」
福士さんは被爆者の増野幸子さん(85)、児玉豊子さん(87)に会った。当時2人は広島電鉄家政女学校の生徒。男性社員が次々戦地に赴き、路面電車の運転士や車掌を任せられていた。
どう話を切り出したらいいのか悩みつつ、福士さんは2人に尋ねた。あの日、何が起きたのか。どうやって助かったのか。
増野さんは体調を崩し学校の寮で休んでいた時に被爆し、背中に無数のガラス片が突き刺さった。児玉さんは電車を運転中、爆風で地面に飛ばされ、頭にけがを負った。
あちこちで火の手があがる中、逃げる途中で2人は会い、児玉さんは増野さんの肩を担ぎ10キロ以上先の避難所まで歩いた。全身に痛みが走る増野さんは「先に逃げて」と繰り返したが、児玉さんは「しっかりしんさい」と増野さんを励まし続けた。3日後、児玉さんは復旧した電車を運転したという。
福士さんは「10代の少女が自分や家族より他の人のことを考えて行動した。強い心を持っていたからできたんだろうな」。自分もそうありたいと思ったという。
「戦争はあってはならない。どんな自分でいたいか、どんな日本でいたいかを考えるべきだと思った」
70年前の敗戦直前、広島原爆の史上最大悲惨な被災を浴びた爆心地:県産業奨励館の原爆ドーム見学をして「その戦争体験を聞けるのは今だけ」と悟り、直接行動に移した、生き残り被災者の2名から貴重な「継ぐ記憶」を学べたのは、本当に得難い人生体験だ。
被災後の生涯心身の苦痛を背負って語る者と、その人生苦悩を聴く者の両世代をつなげる二度と人類が犯すべきでない “ 戦争体験を、直接「聞けるのは今だけ」” の機会も心して、ぜひ70年節目の明日『終戦の日』を迎えたいと願う。
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俳優の福士蒼汰さん(22)は今年6月、フジテレビの終戦特番の取材で初めて広島の原爆ドームを訪れた。被爆前、県産業奨励館と呼ばれ官公庁などの事務所として使われていた。建物は全焼し、ほとんどの壁が崩れ落ちた。
「骨組み以外何もない」。福士さんはドームを見上げてつぶやいた。「原爆が落とされてなければ、今でも産業奨励館としてやってたかもしれない」。周囲には修学旅行生や観光客の姿。今の平和な広島からは、当時を想像するのは難しかったと話す。「真実を見いだすには時間や知識が足りない。もっと知らないと、と思いました」
福士さんは被爆者の増野幸子さん(85)、児玉豊子さん(87)に会った。当時2人は広島電鉄家政女学校の生徒。男性社員が次々戦地に赴き、路面電車の運転士や車掌を任せられていた。
どう話を切り出したらいいのか悩みつつ、福士さんは2人に尋ねた。あの日、何が起きたのか。どうやって助かったのか。
増野さんは体調を崩し学校の寮で休んでいた時に被爆し、背中に無数のガラス片が突き刺さった。児玉さんは電車を運転中、爆風で地面に飛ばされ、頭にけがを負った。
あちこちで火の手があがる中、逃げる途中で2人は会い、児玉さんは増野さんの肩を担ぎ10キロ以上先の避難所まで歩いた。全身に痛みが走る増野さんは「先に逃げて」と繰り返したが、児玉さんは「しっかりしんさい」と増野さんを励まし続けた。3日後、児玉さんは復旧した電車を運転したという。
福士さんは「10代の少女が自分や家族より他の人のことを考えて行動した。強い心を持っていたからできたんだろうな」。自分もそうありたいと思ったという。
「戦争はあってはならない。どんな自分でいたいか、どんな日本でいたいかを考えるべきだと思った」