【J.I.Mail News No.769】「山からの便り」
2016年8月11日 お仕事■□■ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
J.I.メールニュース No.769 2016.08.11 発行
「山からの便り・美山森林学校(9) 前編 」
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<寄稿文>「山からの便り・美山森林学校(9) 前編 」
美山森林学校校長 小林 直人
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今西錦司論を書くつもりではないのだけれど、美山森林学校を振り返っている間にある事に気がついたのでこういう書き出しになってしまった。
僕は中学生の頃からよく山に登るようになった。
京都には北山があって、標高こそ低いが日本海まで連なる山々は、いくら登っても飽きることが無い。先づは、近くにある手頃な山に登った。
出町柳から叡山電鉄に乗って鞍馬の手前まで行くと貴船口駅があって、そこから歩いて料理旅館を過ぎると一時間半ほどで北山荘という山小屋に着くことが出来る。北山荘は京都一中の生徒たちが建てた質素な山小屋であり、今西錦司さん達の関わりがいきなり僕の頭の中に入ってくる。
京都一中が、新生の洛北高校と鴨芹高校に分かれてから小屋は両校の管理となった。
高校生になった僕はもうあまり北山荘に通わなくなったが、山登りの興味は日増しに膨らんで行く。郷里の美山町に登山の大先輩が居ることに気づいたのはその頃であった。
穂高のジャンダルム飛騨尾根の初登攀記録、北朝鮮の白頭山遠征、ここでまた今西さんの名前が出てくる。大先輩 谷博さんは京都府立医大を出た医師であるが、京都一中の卒業生でもある。
美山町の谷家には、今西家の子供たちばかりでなく、梅棹忠夫少年や川喜田二郎少年や洛北・鴨芹高校山岳部の生徒がよく出入りしていたのである。
僕が美山町にUターンした理由は、父の高齢を実感した事が一番大きいけれど、経営する自家の山林を息子としてよく把握していなければならない使命感に突き動かされたのだと思う。しかし、谷博という人物が居て、僕のこれからの生き方に光明が射す様に感じたのでもあった。
谷家では料理の上手い奥様がいつもやさしくもてなして下さった。
その様に谷家に出入りしていた人脈の中から、先づ最初にインドを旅していた秋野子弦一家が美山町に移り住んできた。それから数年経って、日本画家の秋野不拒さんも、美山町を終の住処としてアトリエを建てるのである。
谷家の食堂には真っ赤なサリーを着たインド女性の絵が掛かっていて、不拒さんとの交流が、ずっと以前から続いていた事が分かる。
僕の友人である森茂明君も移り住んできた。物書きを目指していた彼は、鴨川の出曇寺橋のたもとで小さな釣り道具屋を営んでいたのである。川遊びの子供が10円玉を握りしめてミミズを買いにくる密やかな店であった。
そこは、今西さんがヒラタカゲロウの棲み分けを発見した場所に極近い。
美山町に住む住人として、彼が不時着する為のナビゲーターは僕の役割であった。
更に、梅棹マヤオ君が忠夫さんのナビゲートで不時着して来ることになった。
平成の現在、美山町は知名度の上がるにつれてもう何人移住しているのか分からないくらいに隆盛を極めている。
もうすでに出て行った人もいるのかもしれない。
この有様を、僕は墜落してきた人達と名付けるのだけれど少々意地悪だろうか。でも、未知への誘いにはナビゲーターが必要なのではないだろうか。
秋野さんも森君も谷さんもすでに鬼籍に入ってしまったけれど、今西錦司さんの水脈は今でも流れている。 (後編へ続く)
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小林 直人(こばやし なおと)
1941年生まれ。同志社大学文学部卒業。京都府南丹市で林業を生業にする。美山森林学校校長。
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J.I.メールニュース No.769 2016.08.11 発行
「山からの便り・美山森林学校(9) 前編 」
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<寄稿文>「山からの便り・美山森林学校(9) 前編 」
美山森林学校校長 小林 直人
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今西錦司論を書くつもりではないのだけれど、美山森林学校を振り返っている間にある事に気がついたのでこういう書き出しになってしまった。
僕は中学生の頃からよく山に登るようになった。
京都には北山があって、標高こそ低いが日本海まで連なる山々は、いくら登っても飽きることが無い。先づは、近くにある手頃な山に登った。
出町柳から叡山電鉄に乗って鞍馬の手前まで行くと貴船口駅があって、そこから歩いて料理旅館を過ぎると一時間半ほどで北山荘という山小屋に着くことが出来る。北山荘は京都一中の生徒たちが建てた質素な山小屋であり、今西錦司さん達の関わりがいきなり僕の頭の中に入ってくる。
京都一中が、新生の洛北高校と鴨芹高校に分かれてから小屋は両校の管理となった。
高校生になった僕はもうあまり北山荘に通わなくなったが、山登りの興味は日増しに膨らんで行く。郷里の美山町に登山の大先輩が居ることに気づいたのはその頃であった。
穂高のジャンダルム飛騨尾根の初登攀記録、北朝鮮の白頭山遠征、ここでまた今西さんの名前が出てくる。大先輩 谷博さんは京都府立医大を出た医師であるが、京都一中の卒業生でもある。
美山町の谷家には、今西家の子供たちばかりでなく、梅棹忠夫少年や川喜田二郎少年や洛北・鴨芹高校山岳部の生徒がよく出入りしていたのである。
僕が美山町にUターンした理由は、父の高齢を実感した事が一番大きいけれど、経営する自家の山林を息子としてよく把握していなければならない使命感に突き動かされたのだと思う。しかし、谷博という人物が居て、僕のこれからの生き方に光明が射す様に感じたのでもあった。
谷家では料理の上手い奥様がいつもやさしくもてなして下さった。
その様に谷家に出入りしていた人脈の中から、先づ最初にインドを旅していた秋野子弦一家が美山町に移り住んできた。それから数年経って、日本画家の秋野不拒さんも、美山町を終の住処としてアトリエを建てるのである。
谷家の食堂には真っ赤なサリーを着たインド女性の絵が掛かっていて、不拒さんとの交流が、ずっと以前から続いていた事が分かる。
僕の友人である森茂明君も移り住んできた。物書きを目指していた彼は、鴨川の出曇寺橋のたもとで小さな釣り道具屋を営んでいたのである。川遊びの子供が10円玉を握りしめてミミズを買いにくる密やかな店であった。
そこは、今西さんがヒラタカゲロウの棲み分けを発見した場所に極近い。
美山町に住む住人として、彼が不時着する為のナビゲーターは僕の役割であった。
更に、梅棹マヤオ君が忠夫さんのナビゲートで不時着して来ることになった。
平成の現在、美山町は知名度の上がるにつれてもう何人移住しているのか分からないくらいに隆盛を極めている。
もうすでに出て行った人もいるのかもしれない。
この有様を、僕は墜落してきた人達と名付けるのだけれど少々意地悪だろうか。でも、未知への誘いにはナビゲーターが必要なのではないだろうか。
秋野さんも森君も谷さんもすでに鬼籍に入ってしまったけれど、今西錦司さんの水脈は今でも流れている。 (後編へ続く)
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小林 直人(こばやし なおと)
1941年生まれ。同志社大学文学部卒業。京都府南丹市で林業を生業にする。美山森林学校校長。
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