毎日jp/AFLAC創業:大竹美喜氏紹介①
2012年10月14日 お仕事 2004年6月発足の私たち日本生涯現役推進協議会創設に先立つ9年も前のことである。当時私どもクラブ仲間のうち、海外ビジネス活動で時流に乗った事業で鼻息も荒かったW&Sの両会員から、向学のため米国シニア民間団体の現地訪問をすべきだとの熱心な勧めがあった。
両会員の強力なベンチャー意欲と優れた語学力の同行支援もOKだとの熱意に従い、幸運にも直前に1ドル80円割れ円高最高値に恵まれ、1998年5月9日~14日の期間思わぬ低予算の旅行費用でAARP(全米退職者協会)のワシントン本部を訪問する好機を得た。
当時でも会員数が3,200万人の超マンモス級、国会活動での政策ロビィストが100名を優に超すシニア権利保護最大団体と聞かされていたが、AARP広報担当のMs.Sally Brunnerから初対面の私たちに対し率直に聞かされた次の言葉には、大いに驚かされながらも啓発されたことが脳裏を離れない。
“凡そ年間に70~80名もの日本人AARP見学者が来られるが、その後日本に帰国されても、来訪の実地見学成果をどう日本での活動に反映させておられるのか連絡が皆無なのが残念です。”と。その意見には、日本人の顔が見えないと海外で評価されているのと同様の発言であり、わが国シニア団体の貧弱な発信力の不備を指摘された・・・と否応なく実感させられた。
そので帰国後に早速、同年末の12月16日(土)に私どもライフ・ベンチャー・クラブが各種シニア団体に呼び掛けた合同望年会を開催し、AARP見学報告記事掲載の会報配布も準備した上、日本ウエルエイジング協会故吉田寿三郎会長ほか90余名(内会員45名)の皆さんに「生涯現役社会づくり」民間ネットワークの夢を訴えた次第である。
その3年後に「医療ビッグバンのすすめ」を出版されたアフラック創業者大竹美喜氏の講演会で「これでいいのか日本」の著書を贈られたご縁で新宿本社に訪問の機会を得、日米のビジネス架け橋第一人者から生涯現役塾第150回記念ご講演(1998.7.28)をご快諾いただけたのは、本当に有難いことだった。
その大切な大恩人でもある大竹美喜氏に図らずもBlogでご近況を拝読できたことから、嬉しさの余りご自宅へご連絡することを許され、毎日jpでの毎日新聞連載でのアメリカンファミリー生命保険ご創業の記事を仲間の人たちに伝えたく、以下その貴重な記事の転載をぜひお許し願いたい。
【転載元URL】= http://mainichi.jp/opinion/column/kakeru/archive/
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時 代 を 駆 け る : 大 竹 美 喜(おおたけ・よしき)
略歴: アフラック日本社創業者・最高顧問。73歳 / 聞き手・倉重篤郎
1 が ん 保 険 、認 可 へ の 苦 行 毎日新聞 2012年10月10日 東京朝刊
73歳のその男はいまだに毎朝「今日という日は人生のうちで最も重要な日」と30回唱えて仕事にとりかかる。長年続いた習慣だ。そうでもしなければ、霞が関の強固な規制の壁を突破できず、がん保険がヒットすることはなかったかもしれない。この物語は、アメリカンファミリー(アフラック)日本社創業者、大竹美喜さんの愚直にさえ見える自分探しの旅である。
《日本のがん保険の総数は1,900万件超。アフラックだけでも年間3,000億円の保険金・給付金が支払われるが、大竹さんが創業する1974年まではゼロだった。なぜなら、がんは死の病とされ口の端に上ることさえ忌み嫌われた。まして保険なんて。何より監督官庁の大蔵省(当時)銀行局保険部の認可を取るのが至難の業だった》
このゼロの壁を突破するのに2年半かかりました。駄目かと思った時も10回以上はあった。まず担当者と会えない。やっと会えても、がん保険をなかなか理解してもらえない。何とか理解してもらえたと思ったら、今度は人事異動。そのたびに一からやりなおしです。つらい仕事でした。
そこでアポイントも取らずにいきなり保険部長の所へ乗り込みました。留守で空振りもあったが、在室なら門前払いできず会わざるを得ない。30分、1時間、いかにがん保険が社会的に重要で、日本の生保業界に大きな刺激を与えるか、と延々と語りました。相手もあきれて聞いているが、言いたいことはそれだけか、と合図が出て、スゴスゴ地下鉄で引き揚げる毎日でした。大蔵の担当者から「大竹さんは職員より出勤率がいい」とまで言われました。
職場から帰ってもさまざまなアイデアが浮かんでは消え、緊張感で眠れない日々が続きました。知恵がわくと、隣の妻を起こさないよう枕元のテープレコーダーに小声で内容を吹き込み、翌日霞が関に行く地下鉄の中でそれを聞き返しました。
《大竹さんにとって「人生でもっとも重要な日」が続いた。蟷螂(とうろう)の斧(おの)がいつの間にか規制官庁の牙城に風穴を開けたのだ。なぜ、それができたのか》 つづく
両会員の強力なベンチャー意欲と優れた語学力の同行支援もOKだとの熱意に従い、幸運にも直前に1ドル80円割れ円高最高値に恵まれ、1998年5月9日~14日の期間思わぬ低予算の旅行費用でAARP(全米退職者協会)のワシントン本部を訪問する好機を得た。
当時でも会員数が3,200万人の超マンモス級、国会活動での政策ロビィストが100名を優に超すシニア権利保護最大団体と聞かされていたが、AARP広報担当のMs.Sally Brunnerから初対面の私たちに対し率直に聞かされた次の言葉には、大いに驚かされながらも啓発されたことが脳裏を離れない。
“凡そ年間に70~80名もの日本人AARP見学者が来られるが、その後日本に帰国されても、来訪の実地見学成果をどう日本での活動に反映させておられるのか連絡が皆無なのが残念です。”と。その意見には、日本人の顔が見えないと海外で評価されているのと同様の発言であり、わが国シニア団体の貧弱な発信力の不備を指摘された・・・と否応なく実感させられた。
そので帰国後に早速、同年末の12月16日(土)に私どもライフ・ベンチャー・クラブが各種シニア団体に呼び掛けた合同望年会を開催し、AARP見学報告記事掲載の会報配布も準備した上、日本ウエルエイジング協会故吉田寿三郎会長ほか90余名(内会員45名)の皆さんに「生涯現役社会づくり」民間ネットワークの夢を訴えた次第である。
その3年後に「医療ビッグバンのすすめ」を出版されたアフラック創業者大竹美喜氏の講演会で「これでいいのか日本」の著書を贈られたご縁で新宿本社に訪問の機会を得、日米のビジネス架け橋第一人者から生涯現役塾第150回記念ご講演(1998.7.28)をご快諾いただけたのは、本当に有難いことだった。
その大切な大恩人でもある大竹美喜氏に図らずもBlogでご近況を拝読できたことから、嬉しさの余りご自宅へご連絡することを許され、毎日jpでの毎日新聞連載でのアメリカンファミリー生命保険ご創業の記事を仲間の人たちに伝えたく、以下その貴重な記事の転載をぜひお許し願いたい。
【転載元URL】= http://mainichi.jp/opinion/column/kakeru/archive/
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時 代 を 駆 け る : 大 竹 美 喜(おおたけ・よしき)
略歴: アフラック日本社創業者・最高顧問。73歳 / 聞き手・倉重篤郎
1 が ん 保 険 、認 可 へ の 苦 行 毎日新聞 2012年10月10日 東京朝刊
73歳のその男はいまだに毎朝「今日という日は人生のうちで最も重要な日」と30回唱えて仕事にとりかかる。長年続いた習慣だ。そうでもしなければ、霞が関の強固な規制の壁を突破できず、がん保険がヒットすることはなかったかもしれない。この物語は、アメリカンファミリー(アフラック)日本社創業者、大竹美喜さんの愚直にさえ見える自分探しの旅である。
《日本のがん保険の総数は1,900万件超。アフラックだけでも年間3,000億円の保険金・給付金が支払われるが、大竹さんが創業する1974年まではゼロだった。なぜなら、がんは死の病とされ口の端に上ることさえ忌み嫌われた。まして保険なんて。何より監督官庁の大蔵省(当時)銀行局保険部の認可を取るのが至難の業だった》
このゼロの壁を突破するのに2年半かかりました。駄目かと思った時も10回以上はあった。まず担当者と会えない。やっと会えても、がん保険をなかなか理解してもらえない。何とか理解してもらえたと思ったら、今度は人事異動。そのたびに一からやりなおしです。つらい仕事でした。
そこでアポイントも取らずにいきなり保険部長の所へ乗り込みました。留守で空振りもあったが、在室なら門前払いできず会わざるを得ない。30分、1時間、いかにがん保険が社会的に重要で、日本の生保業界に大きな刺激を与えるか、と延々と語りました。相手もあきれて聞いているが、言いたいことはそれだけか、と合図が出て、スゴスゴ地下鉄で引き揚げる毎日でした。大蔵の担当者から「大竹さんは職員より出勤率がいい」とまで言われました。
職場から帰ってもさまざまなアイデアが浮かんでは消え、緊張感で眠れない日々が続きました。知恵がわくと、隣の妻を起こさないよう枕元のテープレコーダーに小声で内容を吹き込み、翌日霞が関に行く地下鉄の中でそれを聞き返しました。
《大竹さんにとって「人生でもっとも重要な日」が続いた。蟷螂(とうろう)の斧(おの)がいつの間にか規制官庁の牙城に風穴を開けたのだ。なぜ、それができたのか》 つづく