マザーズ史上最年少上場:大野暉社長1
2020年6月23日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 協 働 く だ さ る 同 志 皆 様
Forbes JAPAN 編集部 UNDER 30 LOGO 2020/06/18 18:00
ご参考URL=https://forbesjapan.com/articles/detail/35267
【独白】プロ経営者としてマザーズ史上最年少上場、
サイバーセキュリティクラウド大野暉社長の29年①
人はなぜ経営者を志すのだろうか。
この人の場合は「飢えとコンプレックス」、そして「規模と社会性の追求」にあった。
コロナショック真っ只中の今年3月、プロ経営者としては29歳という東証マザーズ史上最年少で上場を果たした。4月21日には時価総額が1000億円に達し、市場の注目を浴びたサイバーセキュリティクラウドの大野暉(おおの・ひかる)代表取締役社長である。
「世界中の人々が安心安全に使えるサイバー空間を創造する」というビジョンのもと、ウェブアプリケーションの情報セキュリティサービスをサブスクリプションで世界に提供している。
SaaS型セキュリティ市場において急成長中で、主力の「攻撃遮断くん」は累計導入社数、導入サイト数ともに国内No.1※。米アマゾンのクラウドサービスAWSに特化したセキュリティサービスも好調だ。
※出典:「クラウド型WAFサービス」に関する市場調査(2019年6月16日現在)<ESP総研調べ>(2019年5〜6月調査)
また米国シアトルにある子会社では、そのAWSマーケットプレイスで購入できる、WebアプリやAPIをネットの脅威から迅速に保護できる独自のルールセットを販売。世界60カ国超の1000以上のクライアントに恵まれている。
1990年生まれ。起業家は同世代にも少なくないが、いかにして彼はこの若さで「上場企業のプロ経営者」になったのか。波乱に富んだ過去と自身の原動力を明かす。
恩師との運命的な出会い
横浜で生まれ育った。中学3年の頃、運命のような出会いがあった。三木谷浩史氏とともに楽天を創業し基盤を構築、取締役副社長まで務めた後、教育の道へ転身した本城慎之介氏だ。
2005年に楽天を退社、公募により新設校である横浜市立東山田中学校の校長となった。同校に移籍し学級委員長を務めていた大野氏は、本城氏と1年間、学校づくりに携わることになった。
当時本城校長は32歳。国内公立学校の校長として最年少だった。これまでに見たことのない世界の大人が、目の前に現れた。企業に就職するのではなく、事業をつくり世の中に価値を生み出す経営者という生き方があるということを初めて知り、大いに影響を受けた。「人としての厚みが違う」と感じた。
高校受験の時期、選択肢はいくつかあった。決して裕福な家庭ではなかった。現実を鑑みると、「高校に行かずに消防士になる」「自衛官になる」という選択肢もあった。
自身の人生を大切にするよう、本城校長に諭されたのをきっかけに一念発起。念願の早稲田大学高等学院への進学が叶った。
学費のために、15歳で130万円の借金
15歳、学費のために周囲から借金を背負った。1年後には130万円に一定の利子をつけて返さなければいけなかった。生活が困窮する中、飲食チェーン店でアルバイトに励んだが、とても返済額には追いつかない。常に「飢え」を感じていた。
そんな時、先輩に誘われて家庭用品を手掛ける世界的消費財メーカーの広告づくりのグループインタビューに参加した。求められるままに、若者としての意見を提案した。
2時間で8000円。謝礼の額に驚いた。「なんで8000円ももらえるのですか?」と尋ねた。広告会社の担当者は、クライアント企業には巨額の予算があること、グループインタビューの意見を反映してマーケティングが成功すれば大きな売り上げが立つため、8000円の謝礼を払う価値があることを説明した。
これが社会なんだな、面白い! そう思った瞬間、思わずこう言っていた。「なんでも手伝わせてください」。それから若者向けの市場調査や商品企画、広告企画などの依頼を片っ端から受けた。
強みは、若者のホンネをぶつけること
実は最初にグループインタビューに誘ったのは、後にオンライン診療システムで知られるメドレーを創業することになる瀧口浩平氏だった。瀧口氏が調査の設計を手掛けていたのだ。瀧口氏や広告代理店などから仕事が持ち込まれるようになった。それ以降瀧口氏に対し、高校生起業家の先輩ということもあり、兄のような関係として慕うようになった。
クライアントは巨額の予算を持ち、シビアな結果が求められる大企業ばかり。こちらが高校生であろうが、プロの仕事を求められている。ハイレベルな期待に応えようと奮闘する中で、自身の仕事への向き合い方も磨かれた。
クライアントとしても本気で商品開発やマーケティングに若者の意見を採り入れようとしてくれている。しっかり価値提供していきたいと思った。
強みは若者のホンネを正直にぶつけることだった。同世代の意見を聴くため、友人や休学中の大学生を集め、率直な意見を出し合った。「クライアントの意向を忖度して言って欲しいことを言う」のではなく、「若者の生の意見をしっかり言う」ことに重点を置いた。
「課題を突きつけられたのが、誰よりも早かったのだと思う」と当時を振り返る。同世代が学校の課題に勤しむ傍ら、日々、何らかの仕事の締め切りに追われた。一つひとつの壁を乗り越えていかないと、待っているのは脱落だ。スピードとクオリティを意識していく中で、「正しい価値を提供したら、正しい対価をもらえることに気づいた」。
気がつくと案件がどんどん舞い込むようになり、単価も上がっていった。個人事業として大金を稼げるようになった。学費のために背負った借金も、すっかり返すことができた。
仕事に励み、収入も増えていく中で、急激に世界は広がっていった。周囲には面白い若者が集まった。元祖SNSと言われる「前略プロフィール」の自身のページには1日100万の閲覧が集まる人気者になっていた。近年生まれた概念だが、当時の大野氏は若者の「インフルエンサー」と呼べる存在だったのだろう。
一方で、個人で仕事をしていくこと以上に、さらに大きな事業をつくっていきたいと思うようになった。自身は理系だと自負していたが、経営者としての将来に生かしたいと早稲田大商学部に進んだ。
18歳になったタイミングで人生設計を立てた。30歳までと、30歳から40歳まで、そしてそれ以降に分けて考えた。
事業はその頃に法人化し、大部分を譲渡した。「大野じゃないと」とのニーズの強い一部のクライアントだけは残し、子会社にマーケティング会社をつくった。その分の売り上げだけでも年間数千万円に及んでいた。
18歳、「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」
当時、世界的なITバブルに沸き、インターネットサービスやゲーム会社を立ち上げた起業家が一世を風靡していた。そんな時代と逆行するように、18歳の大野氏が次に立てた目標は「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」だった。
世の中の基盤となり、人々の役に立つようなことをやりたい。そう考えた結果、エコロジーに取り組むことにした。BtoBで、企業が出すゴミを効率よく処理できて、環境にやさしい社会循環ができるようにするためのコンサルテーションをする事業を立ち上げた。
コスト管理につながるにもかかわらず、企業のゴミ収集においてはまだまだ競争原理が働いていなかった。そこに目をつけた。企業の責任として、ゴミをリサイクルするよう社会的要請が強まっていた時期でもあった。
ファーストステップとして、まずは企業にゴミの分別や回収を適正化するコンサルとして入っていき、回収業者にゴミを効率的に引き取ってもらうよう提案した。何をどう処理したかを当局に報告する業務も代行した。適切なゴミ処理により削減したコストの一部を成果報酬的に受け取るビジネスモデルだった。
2009年、企業のゴミ管理をクラウドシステムで行うサービスを生み出すために、株式会社ユニフェクトを設立した。
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 協 働 く だ さ る 同 志 皆 様
Forbes JAPAN 編集部 UNDER 30 LOGO 2020/06/18 18:00
ご参考URL=https://forbesjapan.com/articles/detail/35267
【独白】プロ経営者としてマザーズ史上最年少上場、
サイバーセキュリティクラウド大野暉社長の29年①
人はなぜ経営者を志すのだろうか。
この人の場合は「飢えとコンプレックス」、そして「規模と社会性の追求」にあった。
コロナショック真っ只中の今年3月、プロ経営者としては29歳という東証マザーズ史上最年少で上場を果たした。4月21日には時価総額が1000億円に達し、市場の注目を浴びたサイバーセキュリティクラウドの大野暉(おおの・ひかる)代表取締役社長である。
「世界中の人々が安心安全に使えるサイバー空間を創造する」というビジョンのもと、ウェブアプリケーションの情報セキュリティサービスをサブスクリプションで世界に提供している。
SaaS型セキュリティ市場において急成長中で、主力の「攻撃遮断くん」は累計導入社数、導入サイト数ともに国内No.1※。米アマゾンのクラウドサービスAWSに特化したセキュリティサービスも好調だ。
※出典:「クラウド型WAFサービス」に関する市場調査(2019年6月16日現在)<ESP総研調べ>(2019年5〜6月調査)
また米国シアトルにある子会社では、そのAWSマーケットプレイスで購入できる、WebアプリやAPIをネットの脅威から迅速に保護できる独自のルールセットを販売。世界60カ国超の1000以上のクライアントに恵まれている。
1990年生まれ。起業家は同世代にも少なくないが、いかにして彼はこの若さで「上場企業のプロ経営者」になったのか。波乱に富んだ過去と自身の原動力を明かす。
恩師との運命的な出会い
横浜で生まれ育った。中学3年の頃、運命のような出会いがあった。三木谷浩史氏とともに楽天を創業し基盤を構築、取締役副社長まで務めた後、教育の道へ転身した本城慎之介氏だ。
2005年に楽天を退社、公募により新設校である横浜市立東山田中学校の校長となった。同校に移籍し学級委員長を務めていた大野氏は、本城氏と1年間、学校づくりに携わることになった。
当時本城校長は32歳。国内公立学校の校長として最年少だった。これまでに見たことのない世界の大人が、目の前に現れた。企業に就職するのではなく、事業をつくり世の中に価値を生み出す経営者という生き方があるということを初めて知り、大いに影響を受けた。「人としての厚みが違う」と感じた。
高校受験の時期、選択肢はいくつかあった。決して裕福な家庭ではなかった。現実を鑑みると、「高校に行かずに消防士になる」「自衛官になる」という選択肢もあった。
自身の人生を大切にするよう、本城校長に諭されたのをきっかけに一念発起。念願の早稲田大学高等学院への進学が叶った。
学費のために、15歳で130万円の借金
15歳、学費のために周囲から借金を背負った。1年後には130万円に一定の利子をつけて返さなければいけなかった。生活が困窮する中、飲食チェーン店でアルバイトに励んだが、とても返済額には追いつかない。常に「飢え」を感じていた。
そんな時、先輩に誘われて家庭用品を手掛ける世界的消費財メーカーの広告づくりのグループインタビューに参加した。求められるままに、若者としての意見を提案した。
2時間で8000円。謝礼の額に驚いた。「なんで8000円ももらえるのですか?」と尋ねた。広告会社の担当者は、クライアント企業には巨額の予算があること、グループインタビューの意見を反映してマーケティングが成功すれば大きな売り上げが立つため、8000円の謝礼を払う価値があることを説明した。
これが社会なんだな、面白い! そう思った瞬間、思わずこう言っていた。「なんでも手伝わせてください」。それから若者向けの市場調査や商品企画、広告企画などの依頼を片っ端から受けた。
強みは、若者のホンネをぶつけること
実は最初にグループインタビューに誘ったのは、後にオンライン診療システムで知られるメドレーを創業することになる瀧口浩平氏だった。瀧口氏が調査の設計を手掛けていたのだ。瀧口氏や広告代理店などから仕事が持ち込まれるようになった。それ以降瀧口氏に対し、高校生起業家の先輩ということもあり、兄のような関係として慕うようになった。
クライアントは巨額の予算を持ち、シビアな結果が求められる大企業ばかり。こちらが高校生であろうが、プロの仕事を求められている。ハイレベルな期待に応えようと奮闘する中で、自身の仕事への向き合い方も磨かれた。
クライアントとしても本気で商品開発やマーケティングに若者の意見を採り入れようとしてくれている。しっかり価値提供していきたいと思った。
強みは若者のホンネを正直にぶつけることだった。同世代の意見を聴くため、友人や休学中の大学生を集め、率直な意見を出し合った。「クライアントの意向を忖度して言って欲しいことを言う」のではなく、「若者の生の意見をしっかり言う」ことに重点を置いた。
「課題を突きつけられたのが、誰よりも早かったのだと思う」と当時を振り返る。同世代が学校の課題に勤しむ傍ら、日々、何らかの仕事の締め切りに追われた。一つひとつの壁を乗り越えていかないと、待っているのは脱落だ。スピードとクオリティを意識していく中で、「正しい価値を提供したら、正しい対価をもらえることに気づいた」。
気がつくと案件がどんどん舞い込むようになり、単価も上がっていった。個人事業として大金を稼げるようになった。学費のために背負った借金も、すっかり返すことができた。
仕事に励み、収入も増えていく中で、急激に世界は広がっていった。周囲には面白い若者が集まった。元祖SNSと言われる「前略プロフィール」の自身のページには1日100万の閲覧が集まる人気者になっていた。近年生まれた概念だが、当時の大野氏は若者の「インフルエンサー」と呼べる存在だったのだろう。
一方で、個人で仕事をしていくこと以上に、さらに大きな事業をつくっていきたいと思うようになった。自身は理系だと自負していたが、経営者としての将来に生かしたいと早稲田大商学部に進んだ。
18歳になったタイミングで人生設計を立てた。30歳までと、30歳から40歳まで、そしてそれ以降に分けて考えた。
事業はその頃に法人化し、大部分を譲渡した。「大野じゃないと」とのニーズの強い一部のクライアントだけは残し、子会社にマーケティング会社をつくった。その分の売り上げだけでも年間数千万円に及んでいた。
18歳、「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」
当時、世界的なITバブルに沸き、インターネットサービスやゲーム会社を立ち上げた起業家が一世を風靡していた。そんな時代と逆行するように、18歳の大野氏が次に立てた目標は「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」だった。
世の中の基盤となり、人々の役に立つようなことをやりたい。そう考えた結果、エコロジーに取り組むことにした。BtoBで、企業が出すゴミを効率よく処理できて、環境にやさしい社会循環ができるようにするためのコンサルテーションをする事業を立ち上げた。
コスト管理につながるにもかかわらず、企業のゴミ収集においてはまだまだ競争原理が働いていなかった。そこに目をつけた。企業の責任として、ゴミをリサイクルするよう社会的要請が強まっていた時期でもあった。
ファーストステップとして、まずは企業にゴミの分別や回収を適正化するコンサルとして入っていき、回収業者にゴミを効率的に引き取ってもらうよう提案した。何をどう処理したかを当局に報告する業務も代行した。適切なゴミ処理により削減したコストの一部を成果報酬的に受け取るビジネスモデルだった。
2009年、企業のゴミ管理をクラウドシステムで行うサービスを生み出すために、株式会社ユニフェクトを設立した。
コメント