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【昨Blog のつづき】日経ビジネス 2020年8月24日 北西 厚一 日経ビジネス記者
ご参考=https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00181/081900016/?P=2
   
  チームラボ 猪 子 氏「 人 は 生 き て い る 意 味 を 求 め る よ う に な る」②
 
   キ ー ワ ー ド は 「 反 分 断 」
 
   人と組織との関係は、どのように変わっていくと考えますか。


猪子氏:より協働的になっていく。分業が進んでいると、組織に属しているように見えて、実は別々の行動をしている。例えばベルトコンベヤーの仕事では、隣のセクションの人が何をやっているかは関係ない。今はデジタルが中心になり、仕事の切り分けがしにくくなっている。仕事が自己完結型になれば、人はより協力して動くようになる。そして、組織にも意味を求めるようになる。

 働くことにも、お金ではなく意味を強く求めるようになり、それを提供できる組織を優秀な人材が形成していく。このシフトは、生存への心配が少ない地域で一気に進むだろう。

 重要なキーワードが「反分断」だ。あらゆるレイヤーにおいて、すべてが境界なく連動していることを認め、肯定できる地域・組織がより発達しやすい。歴史を見れば、人口爆発以外で栄えてきたのはグローバル化した場所。情報が重要となる中、様々な考え方を受け入れる素養が問われる。

 世界では超大国のナショナリズム化が進んでいる。仮に、日本がナショナリズムの低い大国として存在すれば、競争優位性が極めて高くなる。格差の拡大も分断につながる。ありとあらゆる局面で、分断が起こりにくいようにすることが重要だ。

    個人の能動的な動きは、どのようにしてつくられるのでしょうか。 我々は答えを教えられて育っており、その環境に慣れている面があります。

猪子氏:自らの意思のある身体で社会が変わるという体験を重ねていくべきだ。福岡市内に「チームラボフォレスト」という新たな施設を7月にオープンした。森みたいな空間を歩き回り、携帯電話のカメラをかざして動物を見つける。矢を射たり罠(わな)を仕掛けたりして動物を捕らえると、携帯電話が図鑑になり、動物について学習できる。自ら見つけ、自ら学習する。捕らえた動物は最後にリリースする。

 カメラが見ているものをAIで認識し、携帯電話と空間を連動させる技術も売りだが、より大事なのは自ら意思のある身体で歩き回り、能動的に見つけて捕まえ、その上で知るということ。これこそが人間の本来あるべき姿だ。前の産業の時にできた受け身の教育には何の意思もない。普段の教育においても、能動的に動く機会を増やし、社会と能動的に向き合える素養を育てる必要があるのだと思う。

   能動的に動くためには、自分のことを改めて知る必要がありそうです。日本や日本人の強み、特徴をどう考えますか。

猪子氏:絵画で見るとわかりやすい。例えば、1500年代に狩野永徳が描いた「洛中洛外図」は街の風景だ。この頃、欧州で絵画といえば、基本的に肖像画。日本を含めた東洋の人は空間全体にフォーカスする傾向が強く、西洋人は基本的には物を見る。

 これはポエムにも出ている。松尾芭蕉は「古池や蛙飛び込む水のおと」と詠んだ。遠いところを歌っていて、見てもいない。音を聞いているだけだ。無限の広い世界、森の静けさに気がつき、その空間を歌っている。英国人には怒られそうだが、シェークスピアは己のことばかりだ。

 ウィキペディアに世界で何カ国語に訳され、どれだけの人が見たかを示す指標がある。いかに影響を与えているかがわかるが、日本人で最もその数値が高いのが松尾芭蕉だそうだ。現存する人物では映画監督の宮崎駿さん。日本が世界に最も影響を与えているのは、科学でも産業でもなく、文化なのかもしれない。この特徴は、これからの世界における競争力になる。アート性、意味こそが重要となる世界は、ある意味、文化の世界とも言えるからだ。

 「脳の拡張」のキーワードにも掲げている「アート」とはどういったものですか。

猪子氏:これまで価値を認識されていない領域において美の力によって美を拡張すること、美の領域を美の力によって広げることだ。1917年、マルセル・デュシャンというアーティストが、既製品の便器を買ってきて「泉」という名前で展示会に出した。結果的にこれをきっかけとして「コンセプチュアル・アート」というものができた。

 100年たった今、コンセプトは人類にとって格好いいものになった。ベンチャー企業が「コンセプトはない」と言うのは恥ずかしいくらいで、ありとあらゆる分野に普及した。つまり、コンセプトが美になった。ただ、コンセプトがある方が成功するという証拠などない。成功においてコンセプトは重要ではないかもしれないが、なぜかあった方が格好いいと思っている。

 ピカソは1つの視点で物事を見るのはダサいという概念を提供した。「キュービズム」というもので、多くの視点で見た方が美しいとした。植民地政策の頃の欧州は世界を1つの視点で見ていた。それが今は、ダイバーシティーを強調し、多様性がある方がうまくいくと言っている。そんなエビデンスがないにもかかわらず、ダイバーシティーがある方が美しいことになった。多くの視点で見た方が美しいというのはフィクションかもしれないが、いつしか、それが高級なものになった。

 ピカソのような例はある意味、力業かもしれないが、汎用性が高いものもある。例えば、モネなど印象派の表現だ。ものを描くよりも光を描いた方が美しいという発想で、あえて色を混ぜないで、網膜で混ぜるようにした。紫色は絵にすると沈む。赤と青を混ぜないでドットで置いて、目の中で紫にしてあげると、絵の具で混ぜる紫よりも輝く。絵は輝いた方が美しいということで、その手法を編み出した。美の力によって美を拡張するのがアート。そして、美とは究極的には、生きていることを肯定すること、肯定されることだと思う。

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