月光仮面・バットマン:桑田二郎氏訃報
2020年8月11日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
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ニコニコニュース 2020/08/11 06:00文春オンライン
ご参考URL=https://news.nicovideo.jp/watch/nw7857461
家計を支えるため13歳でプロデビュー
『月光仮面』『バットマン』桑田二郎さんのマンガ家人生
『8マン』(’63)で知られる漫画家の桑田二郎(旧筆名・桑田次郎)さんが去る本年7月2日(木)に亡くなっていたことが、秋田書店の発表で分かった。同社発行の「チャンピオンRED」に遺作となった『8マンVSサイボーグ009』が連載中で、そのため同社webサイトを通じての公表となったようだ。享年85。死因は老衰。生涯、現役漫画家を貫いた。
昭和42年生まれの筆者が桑田さんの存在を意識したのは「月刊テレビマガジン」(講談社)に連載されていた『電人Xマン』(’73年)だった。レーサーの本条ケンが、電子頭脳となった父・本条博士の手で、脳髄だけを残した電人Xマンに生まれ変わり、地球の平和を脅かすメカニ怪獣と戦う……というじつに桑田さんらしい漫画だ。そのときの第一印象は「絵のうまい漫画家さんだなぁ」だった。絵の上手な漫画家さんはそれだけで脳裏に焼きつく。桑田さんは脳裏に“焼きついた”漫画家のひとりだった。
家計を支えるため13歳でプロ漫画家デビュー
その桑田さんの出自を後から知って二度びっくり! 桑田さんは昭和10(1935)年4月17日に大阪府吹田市に生まれた。幼少時は当時の他の子供達と同じように「少年倶楽部」(講談社)などの児童向け雑誌、『のらくろ』(’31年)や『タンク・タンクロー』(’34年)などの漫画を愛読していたという。13歳のときに青雅社の『奇怪星團』を執筆。貸本漫画家として商業誌デビューを飾った。
これはプロ漫画家デビューの最年少記録と言われているが、この事実を知ったとき驚嘆した。藤子不二雄(A)(正しくは○にA)先生の半自伝漫画『まんが道』(’70年)を読んで、藤子先生が高校生で毎日小学生新聞に4コマ漫画『天使の玉ちゃん』でプロデビューを果たしたことを知り、「やはり天才は早熟なんだなぁ……」と感嘆し、己の無能を恥じ入ることしきりだった。ところが桑田さんはさらに4年も早い中学生デビュー! 上には上が……でもないが、自分の中学時代などを振り返っても、桑田さんの天才ぶりに舌をまく他はなかった。
それもどうやら半分くらい、病気で失職した父親の代わりに家計を助けるため、というのが漫画家デビューした目的だったようで、その点にも頭が下がる。桑田さんは事ある毎に「自分は好きで漫画家になった訳ではない」と言われており、てっきり照れ隠しかと思っていたが、デビュー経緯を聞いて納得した。
当時は桑田さんのように家計を支えるために漫画を描いていた作家も多く、『ドカベン』(’72年)の水島新司先生や『あしたのジョー』(’67年)のちばてつや先生もそうだったと聞く。もっともお二人とも漫画家には好きでなられたようだが。桑田さんは高校進学を希望するも、家庭環境が許さずに断念。中学3年生でひとり神奈川県の横浜に転居。漫画を描いて、実家に仕送りを続けていたという。今でも同じ事情で漫画家を志す方はいるかもしれないが、戦後直後と今ではその環境に隔世の感があるだろう。いい悪いやクオリティといった問題でなく、作品の持つ味や作風というものは、それを描く者の人生そのものが滲み出るものだと思った。
『まぼろし探偵』と『月光仮面』で大ブレイク テレビヒーロー漫画の旗手に
そんな苦労人の桑田さんの転機となったのが、昭和32(’57)年に発表した『まぼろし探偵』だった。少年探偵・富士進が、アイマスクと専用コスチュームを装着してまぼろし探偵に扮装! 紅こうもりや白仮面などの悪人やギャング団を相手に戦う姿を描いたこの作品は、ラジオ、そしてテレビドラマ化もされて大ヒットした。
面白いのは桑田さんがその翌’58年に『月光仮面』のコミカライズを手がけている点。『月光仮面』は我が国のテレビ・ヒーローの元祖だが、自身のオリジナル作品『まぼろし探偵』がブレイクした直後に、桑田さんは『月光仮面』のコミカライズを描き、それも大ヒットさせている。
大抵の漫画家はオリジナル・ヒット作が出るまでの、言い方は悪いが“繋ぎ”として、テレビや映画のコミカライズを引き受けるものだが、桑田さんは『8マン』の大ヒット後も『ウルトラセブン』(’67年)やSFドラマ『怪奇大作戦』(’68年)、未テレビ化に終わった、ピー・プロ企画の『豹(ひょう)マン』(’68年)などのコミカライズを描き続けた。そこに先の「好きで漫画家になった訳ではない」の言葉が蘇る。桑田さんは“食べるために”漫画家になったのだ。それは“嫌イヤ漫画家になった”ということでなく“生きるために漫画家という仕事を選んだ”ことを意味する。
だから、ベテランになろうが大作家と呼ばれようがコミカライズでも平気で引き受ける。その作家としてのスタンスは、終生変わることはなかった。
『8マン』で押しも押されもせぬ 大ヒット漫画家の仲間入り
昭和38(’63)年に「週刊少年マガジン」(講談社)に連載した『8マン』は桑田さんはもとより、「少年マガジン」にとっても初の大ブレイク作品となった。SF小説家の平井和正先生に原作を求めたこの作品は、テレビアニメ化されさらに大ヒットした。とある事件で殉職し、脳髄を移植したロボット戦士の8マンとして復活した警視庁刑事・東八郎の孤独な戦いを描くこの作品は、以降、桑田さんの描くヒーロー・コミックのスタンダードとなる。
後の『バットマン』(’66年)や『豹マン』のコミカライズでも、基本設定に“苦悩するヒーロー像”はあったものの、桑田さんはその部分をより膨らませ、心血を注いで描いていた。ここでもやはり「好きで漫画家になった訳ではない」を思い出す。
8マンやバットマン、豹マンも好きでヒーローになった訳ではない。だからといって嫌イヤ戦っている訳でもない。時には自分の努力で、人々に平和や笑顔が戻った事実を喜び、誇りに思うことすらある。そこにあるのは、どんな仕事にも通じる“プロ魂”だ。桑田さんは、ヒーローを通じて、漢(おとこ)が仕事に向き合う、かくある姿を少年読者に伝え続けていたのだろう。
『8マン』の人気絶頂期に……紆余曲折を経た作家生活
“好事魔多し”とはよくいったもので、人気絶頂のさなか、『8マン』は突如打ち切りとなる。銃刀法違反で桑田さんが逮捕されたからだ。桑田さんが趣味で入手した実銃の存在が警察にリークされたため……これも今となっては真相は藪の中だが、実際にそれ以上でも以下でもなかったようだ。『8マン』ブームは終息。桑田さんも大ヒット漫画家の座から降りることに。
だが、その僅か1年後の昭和41(’66)年、桑田さんは「少年マガジン」の講談社に返り咲く。掲載は同社の「月刊ぼくら」。それも『月光仮面』で知られる川内康範原作の『黄色い手袋X』のコミカライズで、だ。普通なら講談社も康範先生も「俺の顔に泥を塗りやがって!」というところだろうが、この温情にもびっくりする。これも桑田さんのお人柄と才能によるものだろうが、同時に“昭和の人の心の優しさ”も痛感させられる。
さらにその1年後には因縁の「少年マガジン」誌上に『ウルトラセブン』のコミカライズで完全復帰した。以降、桑田さんは先の『豹マン』等のコミカライズや、平井和正原作で『デスハンター』(’69年)などの新作をコンスタントに発表していく。いずれも『8マン』的、“影を背負った主人公”の孤独な戦いを描いていた。『巨人の星』(’66年)の梶原一騎とも組んだり、様々な原作者とのコラボも厭わなかった桑田さんだが、やはり平井先生との相性が一番よかった気がする。『電人Xマン』は、桑田さんのオリジナルだが、デザインも含めてどこか『8マン』的だ。桑田さんの中に平井先生っぽさが残っていたのかもしれないし、それが桑田作品の“色”にもなっていた。
そんな桑田さんは、昭和52(’77)年、少年漫画界からの引退を宣言。以降は、仏教や精神世界の漫画や作品、エッセイ等を積極的に描いていく。仕事に生きる漢(おとこ)の生き様を描き切り、出し切った桑田さんが、次なる次元へ段階を踏んだと見るのが妥当だろうか。
13年ぶりに描いた『ウルトラセブン』の仕上がりは
平成10(’98)年、筆者は桑田さんにウルトラセブンの描き下ろしカラーイラストを依頼する好機を得た。『ウルトラセブン』がビデオ・オリジナル作品、平成『ウルトラセブン』シリーズとして復活することになり、その解説書を任された筆者は、ぜひ!桑田さんにセブンを描いてもらおうと、ご自宅に電話をかけ、直談判した。
最初は「いや、セブンなんてもう30年近く描いてないから、全然描けないよ」と仰っていたが、桑田版『セブン』のどこに自分が感動したかを語っている内に桑田さんの方から折れ、「じゃあわかりましたから、資料を送ってください」と、ようやくお引き受けいただいた。実際には昭和56(’81年)にSF特撮雑誌の「季刊宇宙船」(朝日ソノラマ/現・朝日新聞出版)で、13年ぶりにセブンのイラストを描かれているのだが、そのことはすっかり忘れられていた。
そうして送られてきたイラストは、噂にたがわぬものだった。曰く“桑田先生の原稿は、ホワイトの修正や描き直しなどの汚れもいっさいない、美麗な絵画のよう”だったが、セブンの新作イラストはまさにその噂を体現するもので、初めて手にした際、20分近くひとりニヤニヤしながら、飽きることなくずっと眺めていた覚えがある。
“好きでなった訳ではない”仕事で、決して手を抜くことなく至高のものをクライアントに提供する……原稿から桑田さんの、そんな声が聞こえた気がした。同時に“好きでなった訳では”と言いながら、やはり漫画や絵をこよなく愛されていたことを理解した。
自身が突き詰めた世界に……
桑田さんは今、自身で描かれた般若心経、仏教の世界にいることだろう。そこは人生を生き抜いた、“達人”の行き着く先なのだろう。果たして自分がそこに行き着くことができるか、再会してセブンのイラストを発注することができるであろうか?……まだ未だ全然修行が足りないことを痛感しつつ、桑田先生のご冥福を祈る次第です。 (岩佐 陽一)
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ご 協 働 く だ さ る 同 志 皆 様
ニコニコニュース 2020/08/11 06:00文春オンライン
ご参考URL=https://news.nicovideo.jp/watch/nw7857461
家計を支えるため13歳でプロデビュー
『月光仮面』『バットマン』桑田二郎さんのマンガ家人生
『8マン』(’63)で知られる漫画家の桑田二郎(旧筆名・桑田次郎)さんが去る本年7月2日(木)に亡くなっていたことが、秋田書店の発表で分かった。同社発行の「チャンピオンRED」に遺作となった『8マンVSサイボーグ009』が連載中で、そのため同社webサイトを通じての公表となったようだ。享年85。死因は老衰。生涯、現役漫画家を貫いた。
昭和42年生まれの筆者が桑田さんの存在を意識したのは「月刊テレビマガジン」(講談社)に連載されていた『電人Xマン』(’73年)だった。レーサーの本条ケンが、電子頭脳となった父・本条博士の手で、脳髄だけを残した電人Xマンに生まれ変わり、地球の平和を脅かすメカニ怪獣と戦う……というじつに桑田さんらしい漫画だ。そのときの第一印象は「絵のうまい漫画家さんだなぁ」だった。絵の上手な漫画家さんはそれだけで脳裏に焼きつく。桑田さんは脳裏に“焼きついた”漫画家のひとりだった。
家計を支えるため13歳でプロ漫画家デビュー
その桑田さんの出自を後から知って二度びっくり! 桑田さんは昭和10(1935)年4月17日に大阪府吹田市に生まれた。幼少時は当時の他の子供達と同じように「少年倶楽部」(講談社)などの児童向け雑誌、『のらくろ』(’31年)や『タンク・タンクロー』(’34年)などの漫画を愛読していたという。13歳のときに青雅社の『奇怪星團』を執筆。貸本漫画家として商業誌デビューを飾った。
これはプロ漫画家デビューの最年少記録と言われているが、この事実を知ったとき驚嘆した。藤子不二雄(A)(正しくは○にA)先生の半自伝漫画『まんが道』(’70年)を読んで、藤子先生が高校生で毎日小学生新聞に4コマ漫画『天使の玉ちゃん』でプロデビューを果たしたことを知り、「やはり天才は早熟なんだなぁ……」と感嘆し、己の無能を恥じ入ることしきりだった。ところが桑田さんはさらに4年も早い中学生デビュー! 上には上が……でもないが、自分の中学時代などを振り返っても、桑田さんの天才ぶりに舌をまく他はなかった。
それもどうやら半分くらい、病気で失職した父親の代わりに家計を助けるため、というのが漫画家デビューした目的だったようで、その点にも頭が下がる。桑田さんは事ある毎に「自分は好きで漫画家になった訳ではない」と言われており、てっきり照れ隠しかと思っていたが、デビュー経緯を聞いて納得した。
当時は桑田さんのように家計を支えるために漫画を描いていた作家も多く、『ドカベン』(’72年)の水島新司先生や『あしたのジョー』(’67年)のちばてつや先生もそうだったと聞く。もっともお二人とも漫画家には好きでなられたようだが。桑田さんは高校進学を希望するも、家庭環境が許さずに断念。中学3年生でひとり神奈川県の横浜に転居。漫画を描いて、実家に仕送りを続けていたという。今でも同じ事情で漫画家を志す方はいるかもしれないが、戦後直後と今ではその環境に隔世の感があるだろう。いい悪いやクオリティといった問題でなく、作品の持つ味や作風というものは、それを描く者の人生そのものが滲み出るものだと思った。
『まぼろし探偵』と『月光仮面』で大ブレイク テレビヒーロー漫画の旗手に
そんな苦労人の桑田さんの転機となったのが、昭和32(’57)年に発表した『まぼろし探偵』だった。少年探偵・富士進が、アイマスクと専用コスチュームを装着してまぼろし探偵に扮装! 紅こうもりや白仮面などの悪人やギャング団を相手に戦う姿を描いたこの作品は、ラジオ、そしてテレビドラマ化もされて大ヒットした。
面白いのは桑田さんがその翌’58年に『月光仮面』のコミカライズを手がけている点。『月光仮面』は我が国のテレビ・ヒーローの元祖だが、自身のオリジナル作品『まぼろし探偵』がブレイクした直後に、桑田さんは『月光仮面』のコミカライズを描き、それも大ヒットさせている。
大抵の漫画家はオリジナル・ヒット作が出るまでの、言い方は悪いが“繋ぎ”として、テレビや映画のコミカライズを引き受けるものだが、桑田さんは『8マン』の大ヒット後も『ウルトラセブン』(’67年)やSFドラマ『怪奇大作戦』(’68年)、未テレビ化に終わった、ピー・プロ企画の『豹(ひょう)マン』(’68年)などのコミカライズを描き続けた。そこに先の「好きで漫画家になった訳ではない」の言葉が蘇る。桑田さんは“食べるために”漫画家になったのだ。それは“嫌イヤ漫画家になった”ということでなく“生きるために漫画家という仕事を選んだ”ことを意味する。
だから、ベテランになろうが大作家と呼ばれようがコミカライズでも平気で引き受ける。その作家としてのスタンスは、終生変わることはなかった。
『8マン』で押しも押されもせぬ 大ヒット漫画家の仲間入り
昭和38(’63)年に「週刊少年マガジン」(講談社)に連載した『8マン』は桑田さんはもとより、「少年マガジン」にとっても初の大ブレイク作品となった。SF小説家の平井和正先生に原作を求めたこの作品は、テレビアニメ化されさらに大ヒットした。とある事件で殉職し、脳髄を移植したロボット戦士の8マンとして復活した警視庁刑事・東八郎の孤独な戦いを描くこの作品は、以降、桑田さんの描くヒーロー・コミックのスタンダードとなる。
後の『バットマン』(’66年)や『豹マン』のコミカライズでも、基本設定に“苦悩するヒーロー像”はあったものの、桑田さんはその部分をより膨らませ、心血を注いで描いていた。ここでもやはり「好きで漫画家になった訳ではない」を思い出す。
8マンやバットマン、豹マンも好きでヒーローになった訳ではない。だからといって嫌イヤ戦っている訳でもない。時には自分の努力で、人々に平和や笑顔が戻った事実を喜び、誇りに思うことすらある。そこにあるのは、どんな仕事にも通じる“プロ魂”だ。桑田さんは、ヒーローを通じて、漢(おとこ)が仕事に向き合う、かくある姿を少年読者に伝え続けていたのだろう。
『8マン』の人気絶頂期に……紆余曲折を経た作家生活
“好事魔多し”とはよくいったもので、人気絶頂のさなか、『8マン』は突如打ち切りとなる。銃刀法違反で桑田さんが逮捕されたからだ。桑田さんが趣味で入手した実銃の存在が警察にリークされたため……これも今となっては真相は藪の中だが、実際にそれ以上でも以下でもなかったようだ。『8マン』ブームは終息。桑田さんも大ヒット漫画家の座から降りることに。
だが、その僅か1年後の昭和41(’66)年、桑田さんは「少年マガジン」の講談社に返り咲く。掲載は同社の「月刊ぼくら」。それも『月光仮面』で知られる川内康範原作の『黄色い手袋X』のコミカライズで、だ。普通なら講談社も康範先生も「俺の顔に泥を塗りやがって!」というところだろうが、この温情にもびっくりする。これも桑田さんのお人柄と才能によるものだろうが、同時に“昭和の人の心の優しさ”も痛感させられる。
さらにその1年後には因縁の「少年マガジン」誌上に『ウルトラセブン』のコミカライズで完全復帰した。以降、桑田さんは先の『豹マン』等のコミカライズや、平井和正原作で『デスハンター』(’69年)などの新作をコンスタントに発表していく。いずれも『8マン』的、“影を背負った主人公”の孤独な戦いを描いていた。『巨人の星』(’66年)の梶原一騎とも組んだり、様々な原作者とのコラボも厭わなかった桑田さんだが、やはり平井先生との相性が一番よかった気がする。『電人Xマン』は、桑田さんのオリジナルだが、デザインも含めてどこか『8マン』的だ。桑田さんの中に平井先生っぽさが残っていたのかもしれないし、それが桑田作品の“色”にもなっていた。
そんな桑田さんは、昭和52(’77)年、少年漫画界からの引退を宣言。以降は、仏教や精神世界の漫画や作品、エッセイ等を積極的に描いていく。仕事に生きる漢(おとこ)の生き様を描き切り、出し切った桑田さんが、次なる次元へ段階を踏んだと見るのが妥当だろうか。
13年ぶりに描いた『ウルトラセブン』の仕上がりは
平成10(’98)年、筆者は桑田さんにウルトラセブンの描き下ろしカラーイラストを依頼する好機を得た。『ウルトラセブン』がビデオ・オリジナル作品、平成『ウルトラセブン』シリーズとして復活することになり、その解説書を任された筆者は、ぜひ!桑田さんにセブンを描いてもらおうと、ご自宅に電話をかけ、直談判した。
最初は「いや、セブンなんてもう30年近く描いてないから、全然描けないよ」と仰っていたが、桑田版『セブン』のどこに自分が感動したかを語っている内に桑田さんの方から折れ、「じゃあわかりましたから、資料を送ってください」と、ようやくお引き受けいただいた。実際には昭和56(’81年)にSF特撮雑誌の「季刊宇宙船」(朝日ソノラマ/現・朝日新聞出版)で、13年ぶりにセブンのイラストを描かれているのだが、そのことはすっかり忘れられていた。
そうして送られてきたイラストは、噂にたがわぬものだった。曰く“桑田先生の原稿は、ホワイトの修正や描き直しなどの汚れもいっさいない、美麗な絵画のよう”だったが、セブンの新作イラストはまさにその噂を体現するもので、初めて手にした際、20分近くひとりニヤニヤしながら、飽きることなくずっと眺めていた覚えがある。
“好きでなった訳ではない”仕事で、決して手を抜くことなく至高のものをクライアントに提供する……原稿から桑田さんの、そんな声が聞こえた気がした。同時に“好きでなった訳では”と言いながら、やはり漫画や絵をこよなく愛されていたことを理解した。
自身が突き詰めた世界に……
桑田さんは今、自身で描かれた般若心経、仏教の世界にいることだろう。そこは人生を生き抜いた、“達人”の行き着く先なのだろう。果たして自分がそこに行き着くことができるか、再会してセブンのイラストを発注することができるであろうか?……まだ未だ全然修行が足りないことを痛感しつつ、桑田先生のご冥福を祈る次第です。 (岩佐 陽一)
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