歴史を“情報”とし、自らの生き方に役立てる1
2019年7月21日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
「応仁の乱」「刀剣女子」など、近年“日本史ブーム”が到来し、あらためて歴史を学ぶ大人が増えている。歴史小説の第一人者でもある童門氏も、「一流の人は、歴史を“情報”として捉え、自分の生き方に役立てている」という。もはや「歴史=重圧感、固い」というイメージは薄れ、現代人にとって歴史は、自身を磨くツールとして変化してきているのかもしれない。そこで前回に続き『なぜ一流ほど歴史を学ぶのか』(青春出版社)から、現代のビジネスマンでも生かせる、歴史上の人物における「リーダーシップの在り方」を紹介する。
江戸幕府を築いた徳川家康は“部下不信”だった!
戦国時代の部下はある意味で自由な時代だから、どんな価値観を持とうと互いに干渉しない。海千山千の曲者もいる。これを管理するためには、“情”一辺倒ではダメだ。時には“非情さ”も必要だし、さらに“合理性”もいる。
そういう点でのリーダーシップや部下管理の達人は、何といっても徳川家康だろう。家康は、少年時代から青年に達するまで、駿河(静岡県)の駿府(静岡市)城の今川義元の人質だった。約12年間をここで過ごしている。人質というのは、他人の冷や飯を食わされることだから人格にも影響する。家康の最後まで抜けることのなかった一種の“人間不信”の考えは、この時代に培われているのだ。
その考えは部下にも及んだ。かれの有名な言葉に、「主人は船、部下は水だ」というのがある。これは家康の座右の書『貞観政要』にある「君は船、民は水」(治者がよい政治をおこなっているときは、民衆はこれを支持し、静かに支えてくれる。しかし一旦悪政をおこなえば、船をひっくり返してしまう)の転用だ。それはとりもなおさず、「何よりも民を畏れよ」ということであり、親しいものに対して家康は常に、「部下も同じだ。油断すれば、主人にいつ背くかわからない」と告げている。駿河時代に培われた“人間不信”が“部下不信”に発展していたということだろう。
人質から解放された家康が行った画期的な人事とは
織田信長が今川義元を桶狭間の合戦で殺すと、家康は解放され、拠点である故郷の岡崎城に戻り信長と同盟を結んだ。そして岡崎城主としてかれが最初におこなった人事は、「岡崎奉行」の設置である。つまり「政治でもっとも畏るべきは民だ」という認識を持った家康は、領民のために奉行を設置したのだ。
しかし一人の人間に奉行を命じたわけではない。家康は常に、「すべての能力を一人の人間が備えているはずがない。必ず欠点もあるはずだ」という人間観を持っていた。したがって、互いに欠点を補い合うような組み合わせが必要だ、と考えていた。そこで、岡崎奉行には三人の武士を任命した。高力清長・本多重次(通称作左衛門)・天野康景(通称三郎兵衛)である。
これが布告されると、岡崎の城下町の住民は、こんなことをいった。「ホトケ高力オニ作左どちへんなし(どっちでもない)の天野三郎兵衛」。この例えは、三人の性格をよく見抜いている。ホトケのように人情深い高力、気が短く法律を重んずる本多重次、そのどちらの性格も併せもっている天野康景ということだ。わたしはこの人事を、「歴史上における名人事」だと考えている。家康の「マルチ人間はいない」という人間観のあらわれだけでなく、この人事方針が260年も徳川幕府を続けさせたからである。いってみればこの人事は、「各人の長所の相乗効果を期待する」ということであり、長所の相乗効果とともに、それぞれの欠点を補完させるということでもある。 つづく
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「応仁の乱」「刀剣女子」など、近年“日本史ブーム”が到来し、あらためて歴史を学ぶ大人が増えている。歴史小説の第一人者でもある童門氏も、「一流の人は、歴史を“情報”として捉え、自分の生き方に役立てている」という。もはや「歴史=重圧感、固い」というイメージは薄れ、現代人にとって歴史は、自身を磨くツールとして変化してきているのかもしれない。そこで前回に続き『なぜ一流ほど歴史を学ぶのか』(青春出版社)から、現代のビジネスマンでも生かせる、歴史上の人物における「リーダーシップの在り方」を紹介する。
江戸幕府を築いた徳川家康は“部下不信”だった!
戦国時代の部下はある意味で自由な時代だから、どんな価値観を持とうと互いに干渉しない。海千山千の曲者もいる。これを管理するためには、“情”一辺倒ではダメだ。時には“非情さ”も必要だし、さらに“合理性”もいる。
そういう点でのリーダーシップや部下管理の達人は、何といっても徳川家康だろう。家康は、少年時代から青年に達するまで、駿河(静岡県)の駿府(静岡市)城の今川義元の人質だった。約12年間をここで過ごしている。人質というのは、他人の冷や飯を食わされることだから人格にも影響する。家康の最後まで抜けることのなかった一種の“人間不信”の考えは、この時代に培われているのだ。
その考えは部下にも及んだ。かれの有名な言葉に、「主人は船、部下は水だ」というのがある。これは家康の座右の書『貞観政要』にある「君は船、民は水」(治者がよい政治をおこなっているときは、民衆はこれを支持し、静かに支えてくれる。しかし一旦悪政をおこなえば、船をひっくり返してしまう)の転用だ。それはとりもなおさず、「何よりも民を畏れよ」ということであり、親しいものに対して家康は常に、「部下も同じだ。油断すれば、主人にいつ背くかわからない」と告げている。駿河時代に培われた“人間不信”が“部下不信”に発展していたということだろう。
人質から解放された家康が行った画期的な人事とは
織田信長が今川義元を桶狭間の合戦で殺すと、家康は解放され、拠点である故郷の岡崎城に戻り信長と同盟を結んだ。そして岡崎城主としてかれが最初におこなった人事は、「岡崎奉行」の設置である。つまり「政治でもっとも畏るべきは民だ」という認識を持った家康は、領民のために奉行を設置したのだ。
しかし一人の人間に奉行を命じたわけではない。家康は常に、「すべての能力を一人の人間が備えているはずがない。必ず欠点もあるはずだ」という人間観を持っていた。したがって、互いに欠点を補い合うような組み合わせが必要だ、と考えていた。そこで、岡崎奉行には三人の武士を任命した。高力清長・本多重次(通称作左衛門)・天野康景(通称三郎兵衛)である。
これが布告されると、岡崎の城下町の住民は、こんなことをいった。「ホトケ高力オニ作左どちへんなし(どっちでもない)の天野三郎兵衛」。この例えは、三人の性格をよく見抜いている。ホトケのように人情深い高力、気が短く法律を重んずる本多重次、そのどちらの性格も併せもっている天野康景ということだ。わたしはこの人事を、「歴史上における名人事」だと考えている。家康の「マルチ人間はいない」という人間観のあらわれだけでなく、この人事方針が260年も徳川幕府を続けさせたからである。いってみればこの人事は、「各人の長所の相乗効果を期待する」ということであり、長所の相乗効果とともに、それぞれの欠点を補完させるということでもある。 つづく
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