濵田江里子 / 比較政治学「社会への投資」2
2019年7月4日 お仕事日 本 生 涯 現 役 推 進 協 議 会 &
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
【昨Blogの続き】
「社会への投資」から考える日本の雇用と社会保障制度 -
濵田江里子 / 比較政治学2
「投資」に対する二種類の「見返り」
社会的投資は福祉に「投資」の視点を導入した点に特徴がある。就労に必要な知識や技能の欠落を補うための教育・訓練、育児や介護責任の負担を減らすための社会サービス、就学前教育や良質な保育による子どもの養育の支援という社会保障や福祉に、人的資本に対する投資的な効果を持たせた。社会保障や福祉を財政負担が増える「再分配」ではなく、「見返り」を生む「投資」と捉える発想に立つ。
それでは社会的投資における「見返り」とは何を意味するのだろうか。ここで重要なことは、想定される「見返り」が二種類あることだ。一つは経済成長や税収の増加といった経済的な見返りであり、もう一つはすべての人のより良質な生活と連帯意識の強い社会の構築という社会的な見返りである(パリエ2014)。
連帯意識の強い社会とは、一生の間に誰もが「支える側」と「支えられる側」の両方の立場を経験しながら、多様な生き方を認め、異なる立場の人たちがお互いを支え合い、共に生きることができる社会を意味する。「投資」という用語からは、将来的に経済的見返りが多く得られそうな子どもや若者をその対象として想定しやすいだろう。だが、こうした発想に基づくと高齢者の社会的な孤立の防止も社会的な見返りに含まれ、社会的投資の重要な一角を担う。
社会的投資の「見返り」を考えるあたり、もう一つ重要となるのが、経済的な見返りと社会的な見返りが、同時に実現可能な目標として設定されている点である。つまり社会的投資は、経済成長と社会的公正を相反するものではなく、両立可能な目標として据える。
そもそも従来の福祉国家においても、生産性の向上と再分配は矛盾しないものとされた。だが、その後登場した新自由主義は、充実した社会保障や福祉は経済成長の足かせになるため不要とした。これに対し社会的投資は、「社会的公正なくしては、成長なし」を核に据え、人的資本への投資を通じた経済成長と社会的な公正の実現の両立を志す。
社会的投資への批判
社会的投資は、その考えが登場してからすでに20年近くが経つ。21世紀における新しい社会保障の政策パラダイム(支配的な考え方、認識枠組み)として定着したとする理解がある一方、批判も残る。経済的な言葉である「投資」という用語を使って福祉を語ることへの懸念は少なくない。福祉の投資的側面を強調することは、見返りに対する期待を高め、見返りが得られる見込みの低い対象や政策への支援を削減することを正当化しかねない。
社会的投資が追求する経済的見返りと社会的見返りは、いずれも成果が現れるまでに時間がかかる。たとえば、就学前教育の充実が子どもの能力を向上させ、学歴や成人後の人生にプラスの影響を与えたのか、そしてそれが本当に社会的投資の結果であるのか、そこに因果関係を立証することは実際には非常に難しい。 「投資」をした子どもが労働者や納税者となるまでには、20年近くの年月が必要となる。貧困の削減や社会的な連帯に関しても費用対効果の測定や直接的な因果関係を実証することは困難だ。
そのため社会的投資は、従来なされてきた現金給付を社会サービスに置き換えることを正当化し、むしろ貧困を増加させているのではないかという批判も存在する。社会的投資の最も代表的な政策にあげられる、保育サービスや子育て支援の恩恵を一番大きく受けるのは、中高所得層の共働き世帯だ。つまり社会的投資は、低所得層の良質な生活を犠牲にしながら、中間層を優遇する政策ではないかという批判も依然として根強い(Cantillon 2011)。
日本における社会的投資の静かな浸透?
ここまで社会的投資の特徴とそうした考えが登場した経緯について検討してきた。それでは社会的投資は、日本においても実践されているのだろうか。
日本でも社会的投資の論理に近い政策は導入されている。ヨーロッパのように大々的な政策転換が生じたわけではないが、保育サービスの拡充や女性の就労支援、人材育成は政策課題として取り組みが進んできた。しかし、留意しなければいけないのは、日本で展開する一連の政策は、知識基盤型経済や「新しい社会的リスク」への対応という文脈から出てきたわけではない点である。
社会的投資は、新しい経済社会を主体的に担い、リスク回避できる人材を育成するために人的資本への投資を行う。就学前教育や良質な保育といった子育て支援の拡充に力を入れるが、日本の場合、政策が講じられたきっかけは少子化対策であった。出生率の低下が続くなか、少子化に伴う労働力人口の減少への危機感と社会保障制度の持続性の確保から政策が展開し、次世代支援が政策課題化するなかで、保育サービスの拡大が図られた。だがそこには保育の質を、人的資本形成の観点から強化する問題意識や、子どもの貧困撲滅の視点は希薄であった。
成人に関しては、就労支援や人材育成に関する政策が成長戦略の一環として展開してきた。資源が乏しい日本にとり経済成長の源となるのは人的資源であり、労働力を流動化することで高付加価値を生み出す産業へと人材の移動を促し、労働生産性と産業競争力を高めるというのが政策論理となっている。
個人の能力開発を行い、就労を通じた経済社会への参加促進と経済成長の達成という考え方は、第四次産業革命が起きているという認識とともに、2012年末に発足した第二次安倍政権以降、本格的に強化されている。だが、そこでは人材育成や就労支援は社会政策としてではなく、あくまでも経済成長を成し遂げる手段と位置づけられている。
日本の子育て支援や就労支援政策を見返りからの視点から検討すると、経済的な見返りを強調する一方、社会的な見返りへの関心が薄いことを指摘できる。安倍政権が謳う「未来への投資」は、つねに「投資」を受けた人材をいかにして「活用」ないしは「活躍」させるのかという観点とセットになって論じられている。これは女性活躍政策を社会政策ではなく、経済政策として行うと明言した点にも端的に現われる。
つまり、日本では人的資本への「投資」とは、「投資」を受けた人材が労働生産性の向上と経済成長という「経済的な見返り」を生み出す活動に貢献することを前提に議論がなされ、政策が展開してきたのである。そこには個人の尊厳の保障、働くことを通じた良質な生活の保障、誰もが「支える側」と「支えられる側」になれる社会をつくるという社会的な見返りの発想は抜け落ちている。
社会的投資から「社会への投資」へ
社会的投資の効果や是非については、すでに多くの議論が積み重ねられており、日本においても社会的投資に見える言説や政策の実践がなされてきた。それでは、これからの日本の雇用や社会保障を考えていく上で、社会的投資にはどのような発展の可能性があるのだろうか。本小文では、社会的投資を下敷きにしつつ、「社会への投資」という発想に依って立つことが重要となることを指摘したい。
社会的投資は個人の人的資本への投資が中心となるが、「社会への投資」では、社会関係資本と呼ばれる人びとの間の信頼や協調関係への投資も含むものとなる。つまり、個人の能力を高め、就労を中心とした社会への参加を促すだけでなく、社会的な「つながり」の再構築もその目的となってくる。そうした社会的な「つながり」のなかで存在が認められ、一人ひとりの尊厳が守られた社会、誰もが安心して暮らせる社会の基盤づくりが「社会への投資」が目指すものだ。成長と分配を社会的公正と民主主義の観点から再度捉え直し、持続的な経済モデルをつくるための社会ビジョンでもある(三浦・大沢2018)。
「社会への投資」を見返りの観点から捉えると、見返りは個人だけでなく、広く社会全体に還元されるものとならなければならない。貧困の削減、地域コミュニティや市民社会を基盤とした自律的な助け合い、社会的な連帯の再生といった社会的な見返りこそが「社会への投資」が追い求めるものである。教育や訓練といった人的資本への投資が、より高い教育を受けた人がより高い経済的報酬を得ることにしか結びつかないのであれば、見返りは個人にしかもたらされず、格差を再生産することになる。
その一方で、「社会への投資」は、経済的な見返りを放棄するわけではない。経済成長第一主義でもなく、脱経済成長でもなく、社会全体に還元されるかたちでの経済成長、つまりすべての階層の人びとに恩恵をもたらす経済成長の実現を目指す。公正な社会をつくることが経済の活性化につながり、同時に成長をもたらす。そのためには適切な再分配が必要になってくると考える。
このようにして考えると、「社会への投資」では所得保障や国家による労働規制も重要な役割を占める。社会的投資は「補償から準備へ」を重視するため、所得保障と教育・訓練や社会サービスを代替的な関係で捉えがちである。実際にイギリスや韓国のように社会的投資に則り政策を行った国では、所得保障が減らされている。他方、「社会への投資」は両者を相互補完的な関係に位置づける。高付加価値を生み出す人材への「投資」と引き換えに、生活保護を始めとする「補償・保障」を減らすことを意味するのではない。最低限の所得保障は、そもそも個人が貧困に陥ることを防ぐ役割を果たすものであり、社会的見返りの観点から両者は矛盾しない。
さらに、就労が貧困を予防するためには、良質で働き続けられる雇用が不可欠となる。正規雇用と非正規雇用の待遇格差が大きく、正規雇用の労働条件も劣悪化し、労働規制が底抜けしている状況で人びとを労働市場に送り返すことは、ワーキングプアを増加させるだけである。
「社会への投資」は、社会的投資と同様に、福祉や教育に投資的な意味合いをもたせるが、投資を福祉として進めることを正当化するものではない。「社会への投資」が持続可能な経済社会モデルとして機能するためには、経済的な見返りと社会的な見返りを組み合わせることに意義がある。その際には、人への経済的な投資だけを強調するのではなく、異なる立場の人たちがお互いを支え合い、共に生きることができる「社会」への投資が肝となるのだ。
NPO法人 ラ イ フ ・ ベ ン チ ャ ー ・ ク ラ ブ 活 動 で
ご 支 援 く だ さ る 会 員 皆 様
【昨Blogの続き】
「社会への投資」から考える日本の雇用と社会保障制度 -
濵田江里子 / 比較政治学2
「投資」に対する二種類の「見返り」
社会的投資は福祉に「投資」の視点を導入した点に特徴がある。就労に必要な知識や技能の欠落を補うための教育・訓練、育児や介護責任の負担を減らすための社会サービス、就学前教育や良質な保育による子どもの養育の支援という社会保障や福祉に、人的資本に対する投資的な効果を持たせた。社会保障や福祉を財政負担が増える「再分配」ではなく、「見返り」を生む「投資」と捉える発想に立つ。
それでは社会的投資における「見返り」とは何を意味するのだろうか。ここで重要なことは、想定される「見返り」が二種類あることだ。一つは経済成長や税収の増加といった経済的な見返りであり、もう一つはすべての人のより良質な生活と連帯意識の強い社会の構築という社会的な見返りである(パリエ2014)。
連帯意識の強い社会とは、一生の間に誰もが「支える側」と「支えられる側」の両方の立場を経験しながら、多様な生き方を認め、異なる立場の人たちがお互いを支え合い、共に生きることができる社会を意味する。「投資」という用語からは、将来的に経済的見返りが多く得られそうな子どもや若者をその対象として想定しやすいだろう。だが、こうした発想に基づくと高齢者の社会的な孤立の防止も社会的な見返りに含まれ、社会的投資の重要な一角を担う。
社会的投資の「見返り」を考えるあたり、もう一つ重要となるのが、経済的な見返りと社会的な見返りが、同時に実現可能な目標として設定されている点である。つまり社会的投資は、経済成長と社会的公正を相反するものではなく、両立可能な目標として据える。
そもそも従来の福祉国家においても、生産性の向上と再分配は矛盾しないものとされた。だが、その後登場した新自由主義は、充実した社会保障や福祉は経済成長の足かせになるため不要とした。これに対し社会的投資は、「社会的公正なくしては、成長なし」を核に据え、人的資本への投資を通じた経済成長と社会的な公正の実現の両立を志す。
社会的投資への批判
社会的投資は、その考えが登場してからすでに20年近くが経つ。21世紀における新しい社会保障の政策パラダイム(支配的な考え方、認識枠組み)として定着したとする理解がある一方、批判も残る。経済的な言葉である「投資」という用語を使って福祉を語ることへの懸念は少なくない。福祉の投資的側面を強調することは、見返りに対する期待を高め、見返りが得られる見込みの低い対象や政策への支援を削減することを正当化しかねない。
社会的投資が追求する経済的見返りと社会的見返りは、いずれも成果が現れるまでに時間がかかる。たとえば、就学前教育の充実が子どもの能力を向上させ、学歴や成人後の人生にプラスの影響を与えたのか、そしてそれが本当に社会的投資の結果であるのか、そこに因果関係を立証することは実際には非常に難しい。 「投資」をした子どもが労働者や納税者となるまでには、20年近くの年月が必要となる。貧困の削減や社会的な連帯に関しても費用対効果の測定や直接的な因果関係を実証することは困難だ。
そのため社会的投資は、従来なされてきた現金給付を社会サービスに置き換えることを正当化し、むしろ貧困を増加させているのではないかという批判も存在する。社会的投資の最も代表的な政策にあげられる、保育サービスや子育て支援の恩恵を一番大きく受けるのは、中高所得層の共働き世帯だ。つまり社会的投資は、低所得層の良質な生活を犠牲にしながら、中間層を優遇する政策ではないかという批判も依然として根強い(Cantillon 2011)。
日本における社会的投資の静かな浸透?
ここまで社会的投資の特徴とそうした考えが登場した経緯について検討してきた。それでは社会的投資は、日本においても実践されているのだろうか。
日本でも社会的投資の論理に近い政策は導入されている。ヨーロッパのように大々的な政策転換が生じたわけではないが、保育サービスの拡充や女性の就労支援、人材育成は政策課題として取り組みが進んできた。しかし、留意しなければいけないのは、日本で展開する一連の政策は、知識基盤型経済や「新しい社会的リスク」への対応という文脈から出てきたわけではない点である。
社会的投資は、新しい経済社会を主体的に担い、リスク回避できる人材を育成するために人的資本への投資を行う。就学前教育や良質な保育といった子育て支援の拡充に力を入れるが、日本の場合、政策が講じられたきっかけは少子化対策であった。出生率の低下が続くなか、少子化に伴う労働力人口の減少への危機感と社会保障制度の持続性の確保から政策が展開し、次世代支援が政策課題化するなかで、保育サービスの拡大が図られた。だがそこには保育の質を、人的資本形成の観点から強化する問題意識や、子どもの貧困撲滅の視点は希薄であった。
成人に関しては、就労支援や人材育成に関する政策が成長戦略の一環として展開してきた。資源が乏しい日本にとり経済成長の源となるのは人的資源であり、労働力を流動化することで高付加価値を生み出す産業へと人材の移動を促し、労働生産性と産業競争力を高めるというのが政策論理となっている。
個人の能力開発を行い、就労を通じた経済社会への参加促進と経済成長の達成という考え方は、第四次産業革命が起きているという認識とともに、2012年末に発足した第二次安倍政権以降、本格的に強化されている。だが、そこでは人材育成や就労支援は社会政策としてではなく、あくまでも経済成長を成し遂げる手段と位置づけられている。
日本の子育て支援や就労支援政策を見返りからの視点から検討すると、経済的な見返りを強調する一方、社会的な見返りへの関心が薄いことを指摘できる。安倍政権が謳う「未来への投資」は、つねに「投資」を受けた人材をいかにして「活用」ないしは「活躍」させるのかという観点とセットになって論じられている。これは女性活躍政策を社会政策ではなく、経済政策として行うと明言した点にも端的に現われる。
つまり、日本では人的資本への「投資」とは、「投資」を受けた人材が労働生産性の向上と経済成長という「経済的な見返り」を生み出す活動に貢献することを前提に議論がなされ、政策が展開してきたのである。そこには個人の尊厳の保障、働くことを通じた良質な生活の保障、誰もが「支える側」と「支えられる側」になれる社会をつくるという社会的な見返りの発想は抜け落ちている。
社会的投資から「社会への投資」へ
社会的投資の効果や是非については、すでに多くの議論が積み重ねられており、日本においても社会的投資に見える言説や政策の実践がなされてきた。それでは、これからの日本の雇用や社会保障を考えていく上で、社会的投資にはどのような発展の可能性があるのだろうか。本小文では、社会的投資を下敷きにしつつ、「社会への投資」という発想に依って立つことが重要となることを指摘したい。
社会的投資は個人の人的資本への投資が中心となるが、「社会への投資」では、社会関係資本と呼ばれる人びとの間の信頼や協調関係への投資も含むものとなる。つまり、個人の能力を高め、就労を中心とした社会への参加を促すだけでなく、社会的な「つながり」の再構築もその目的となってくる。そうした社会的な「つながり」のなかで存在が認められ、一人ひとりの尊厳が守られた社会、誰もが安心して暮らせる社会の基盤づくりが「社会への投資」が目指すものだ。成長と分配を社会的公正と民主主義の観点から再度捉え直し、持続的な経済モデルをつくるための社会ビジョンでもある(三浦・大沢2018)。
「社会への投資」を見返りの観点から捉えると、見返りは個人だけでなく、広く社会全体に還元されるものとならなければならない。貧困の削減、地域コミュニティや市民社会を基盤とした自律的な助け合い、社会的な連帯の再生といった社会的な見返りこそが「社会への投資」が追い求めるものである。教育や訓練といった人的資本への投資が、より高い教育を受けた人がより高い経済的報酬を得ることにしか結びつかないのであれば、見返りは個人にしかもたらされず、格差を再生産することになる。
その一方で、「社会への投資」は、経済的な見返りを放棄するわけではない。経済成長第一主義でもなく、脱経済成長でもなく、社会全体に還元されるかたちでの経済成長、つまりすべての階層の人びとに恩恵をもたらす経済成長の実現を目指す。公正な社会をつくることが経済の活性化につながり、同時に成長をもたらす。そのためには適切な再分配が必要になってくると考える。
このようにして考えると、「社会への投資」では所得保障や国家による労働規制も重要な役割を占める。社会的投資は「補償から準備へ」を重視するため、所得保障と教育・訓練や社会サービスを代替的な関係で捉えがちである。実際にイギリスや韓国のように社会的投資に則り政策を行った国では、所得保障が減らされている。他方、「社会への投資」は両者を相互補完的な関係に位置づける。高付加価値を生み出す人材への「投資」と引き換えに、生活保護を始めとする「補償・保障」を減らすことを意味するのではない。最低限の所得保障は、そもそも個人が貧困に陥ることを防ぐ役割を果たすものであり、社会的見返りの観点から両者は矛盾しない。
さらに、就労が貧困を予防するためには、良質で働き続けられる雇用が不可欠となる。正規雇用と非正規雇用の待遇格差が大きく、正規雇用の労働条件も劣悪化し、労働規制が底抜けしている状況で人びとを労働市場に送り返すことは、ワーキングプアを増加させるだけである。
「社会への投資」は、社会的投資と同様に、福祉や教育に投資的な意味合いをもたせるが、投資を福祉として進めることを正当化するものではない。「社会への投資」が持続可能な経済社会モデルとして機能するためには、経済的な見返りと社会的な見返りを組み合わせることに意義がある。その際には、人への経済的な投資だけを強調するのではなく、異なる立場の人たちがお互いを支え合い、共に生きることができる「社会」への投資が肝となるのだ。
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