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     【わがまちの偉人】教育と音楽に生きる 
                鈴木リデヤ 1918~2010年

          羽咋市 地元の歌を多く手掛ける


 ♪東宝達 北眉丈(びじょう) 西ははてなき日本海 真日(まひ)に輝く国原(くにはら)よ ああうるわしき大自然

 羽咋市への郷土愛を、親しみやすいメロディーにのせ歌い上げる。市制十周年記念で一九六八年に制定された市歌。市から作曲を委嘱されたのが、羽咋工業高校の音楽教諭だった鈴木リデヤだ。同校や羽咋高校の応援歌を作曲しており、後年も多くの歌を手掛けた。(林修史)

 昨年、五十年を迎えた市歌。現在は、成人式や市職員の仕事始め、仕事納めで歌われる。「同い年」でおいの聡(50)によると、リデヤは歯科医師の父真と、羽咋白百合幼稚園長を務めた母ときわの長女で、クリスチャンとして生を受けた。リデヤは、新約聖書に登場し、使徒パウロに家を提供した女性、リディアに由来する。

 前半生は悲劇に包まれた。結婚後、わずか三カ月で夫は戦地フィリピンへと赴き、そのまま死別。悲しみに暮れたが、ときわの「泣いてばかりじゃだめよ」という励ましを受け東京から帰郷、「教育に生きよう」と誓い、生涯寡婦を貫いた。

 旧制県立羽咋中学校、津幡高校、羽咋工業高校、羽咋高校で教壇に立った。引退後は、西北台小学校、邑知小学校、邑知中学校の校歌や、羽咋の歌を数多く世に送り出した。民間では、県内初の女声コーラス「やまびこコーラス」を主宰。今も市民に「リデヤ先生」と呼ばれ親しまれている。

 「相談に来られると、応えたくなる人。みんなに『先生、先生』と言われたからがんばれたのでしょう」。末の妹、鏡子(88)は述懐する。

 晩年をささげたのが、幼稚園だ。元気なときは毎週歌を教えた。リデヤを師とし、出身の同幼稚園に就職した主幹保育教諭の横山ゆかり(51)は「ピアノを習うとき、必ず褒めてくれた。『いいのよ』が口癖だった」と振り返る。一方で、服を譲ったり、夕食に誘ったり。「遠い存在だけど、親しみのある人」と繁在家(はんざいけ)真紀園長(56)は思い出す。職員までも、わが子のようにかわいがった。

 作曲が中心のリデヤだが、園歌は作詞もした。

 ♪ゆりのおはなのおなまえが ついているいるようちえん それはぼくらのわたしらの かみさままもっていらっしゃる

 リデヤは、引退を宣言し最後の卒園式に出席した後の四月一日、すっと逝ってしまった。名前の通り、多くの人の心の家となり、生涯現役で過ごした九十二年だった。 =敬称略
     ◇ 
 すずき・りでや 羽咋市生まれ。父・真は仙台にルーツを持ち、歯科医師がいないことから請われて羽咋に。母・ときわは女性民権運動家でもあった。一九四七年から教員に。七三年に市教委委員長。七七年に市音楽文化協会会長。八七年、市顕彰。二〇〇六年、旭日双光章。

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