行 き 先 の 違 う 切 符 で 再 出 発

  浪人とはいえ、なるだけ父に負担をかけたくない気持ちで朝は四時半から一、二時間、新聞配達に精を出した。

  型の古い大型自転車が私の“ 武器 ”であった。あのギィーギィー音のする自転車を駆ってである。一地区、およそ百軒くらいの配達だったが、当時、それでも月、二千円か三千円のアルバイト料になったし、おかげで体力と忍耐も身につけることができた。

  夏場には、夕刻、義兄の手伝いとして、サイダーやジュースといった清涼飲料水を売って歩いたこともある。自転車の荷台にビンを積み込み、チリン、チリンと鈴を鳴らしながらである。

  ときには、古ぼけた“ 愛車 ”に乗って、神戸―大阪間を何回か往復したこともあった。神戸―大阪間、約四〇キロの道のりを、およそ二時間ほどかけて、疾走するのだ。ポンコツ自転車だったので、現在のように変速ギアがあるわけでなし、「サイクリング」とはほど遠い気分だったが、それも自分の体力への挑戦のつもりだった。もっとも、大阪に住んでいた姉宅へ転がり込めば、その日の夕飯がタダになるという“ 打算 ”がないわけではなかったが・・・。

  一年後、万全を期して、神戸大学経営学部に再挑戦したが、再び“ 不合格 ”の烙印を押され、さすがにこの時は、がっくり落ち込んでしまった。だが、思いがけずも、二次志望の国立二期校、大阪外語大インド語学科から、
日ならずして合格の通知が届いた。予期しないことで、まるで行き先の違う切符をもらったような気分になってしまった。

  この頃、私には人生のはっきりした夢やライフ・プランがあったわけではない。

  いわば、両親の元を離れ、はじめて人生のマラソンレースの出発点に立って、スタート姿勢をとろうと身構えたばかりのような気がする。あれほど熱情を注ぎ、これしかないと突き進んだ神戸大に、いってみれば“ 歯牙 ”にもひっかけなかった大阪外語大から“ 大学生 ”の通知を受けようなんて、予想だにしなかったのだ。

そんなことから、私は数日間、ポカンとした状態のまま、何かしら人生の皮肉とか、人や社会の機縁の不可思議さといったものを実感せざるを得なかった次第である。

しかし、人生という“ マラソンレース ”に挑戦し、のっけからその妙味を直かに与えられたということは、今なお“ マラソン人生 ”を歩み続けている私にとって、最初の、“ 正解 ”だったような気がしてならない。

そのごの大学生活で、キリストと出会い、私の人生の“ 路 ”が定まったことを思えば、その若い日の機縁に今でも私は感謝したい気持ちである。    つづく

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