津波に故郷を奪われた人達への灯台に①
2014年4月7日 お仕事 「日本を元気にする話題提供の日立ソリューション」WEBより下記転載させていただきます。
提供URL=https://premium-service.jp/psw/premium/fea_samurai/130/index.html
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東日本大震災時の津波によって壊滅的な被害を受けた福島県浪江町の請戸地区。この土地で200年近くにわたって酒造りを続けてきたのが鈴木酒造店だ。地元の人たちから「壽」と呼ばれ愛されてきたその酒「磐城(いわき)壽」の歴史は、震災でいったんは絶たれたかに見えた。
しかし、山形県の長井という別天地で「磐城壽」は奇跡の復活を遂げた。蔵も設備もすべてが海の藻屑となった中で酒はどのようにして復活したのだろうか。江戸・天保年間から続く酒蔵の歴史を背負って奮闘する鈴木大介氏に酒造りに懸ける思い、そして、故郷・浪江に寄せる思いを聞いた。
【鈴木大介氏プロフィール】1973年福島県浪江町生まれ。東京農業大学農学部の小泉武夫研究室で醸造を学ぶ。奈良県の酒造会社で4年間働いた後、父が社長を務める1830年創業の鈴木酒造店の社員となる。
現在は専務の立場で、常務である弟・荘司氏と共に酒造りの現場を取り仕切っている。
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「 甑 倒 し 」 の 日 を 襲 っ た 地 震 と 津 波
── 3月11日の震災発生時のことを覚えていますか。
あの日はちょうど、シーズン最後の仕込みの日で、「甑(こしき)倒し」という行事を行うことになっていました。酒蔵では原料米をふかすせいろを「甑」と呼びます。仕込みが終われば、甑の役目もいったん終わりとなります。甑を休ませ、仕事が無事に終わったことを祝う。それが甑倒しです。
その行事を早く済ませて、5時くらいから宴会を始めよう。そんな話をしている時に、地震が来ました。地面が揺れる前に地鳴りがあったのですが、それは今まで経験したこともない大きな地鳴りでした。何か大変なことが起きようとしていると感じて建物の外に出ると、まもなく本格的な揺れが来ました。普通の地震は、初めは大きく揺れて、だんだん収まっていくものです。しかし、あの地震はどんどん揺れが大きくなっていきました。ただごとではない──。そう思いました。
しかし、その時点では津波が来るとは考えていませんでした。蔵があった浪江町の請戸地区は、津波の大きな被害を受けたことのない土地だったからです。しかし、海を見に行こうとしてすぐに異常に気づきました。海岸近くを流れる川の水が完全に無くなっていて、海を見るとすとんと潮位が落ちている状態だったからです。漁師たちは津波に備えて船を出し始めていました。私はすぐに家に走って、家族たちを高台に避難させました。家族から一人も犠牲者が出なかったのは、たまたま行事があって、全員が蔵に集まっていたからです。
── 蔵は最初の津波で流されてしまったのですか。
いいえ。最初の津波は腰から上くらいの高さでした。しかし、その10分ほど後に西から海に向かって強い風が吹いたかと思うと、ものすごい波が海からやって来るのが見えました。以前に映像で見たスマトラ島の津波と全く同じでした。恐らく十数メートルはあったと思います。
私は地域の消防団のメンバーだったものですから、その時はポンプ車に乗って避難誘導をしていました。しかし、警察の方から「消防団員も早く逃げろ」と言われて、ポンプ車を乗り捨てて内陸の方に向かって走りました。すでに避難する車が渋滞になっていました。私は車中の人たちに、「津波が来るぞ」と伝えながら、大平山という近くの山を目指しました。
── 山の上から見た風景は…。
すべてが波にのみ込まれていました。海の水も、空の色も変に黒かったことをよく覚えています。蔵はもうだめだ──。そう思いました。
次の日の早朝にもう一度山の上から見下ろしましたが、本当に何も無くなっていて呆然とする他ありませんでした。請戸地区全体が真っ平らになっていました。
す べ て 無 く な っ た け れ ど 魂 だ け は 残 っ た
── すべてを失ったところから、どのようにして酒造りを再開できたのですか。
震災から3日たった頃、浪江の人たちが集まっている避難所に行くと、多くの人から「酒を造ってくれ」と言われました。その頃は、誰もが何かにすがらないと気持ちが保てないような状態でした。その中で、酒を心の支えとしている人たちがいる。それを知って、「もう造れない」とは言えませんでした。
父親、さらにはその先代、先々代らが、地元と真面目に向かい合ってきたからこそ、地元の人に自分たちの酒を愛していただけている。その歴史を絶やしてはいけない。そう思いました。
しかし、どうしていいかは全く分かりませんでした。造った酒はすべて流されてしまいました。設備ももうありません。残っているのは、自分たちの酒造りの感覚だけです。最初に家族や親戚で避難した米沢で、逃げる時に誰かが持ってきた「磐城壽」の一升瓶を16人で少しずつ分けながら飲んだのですが、その時は正直、「これが最後の壽だ」と思いました。
その気持ちが大きく変わったのは、4月1日に、蔵の酒母が会津若松の工業試験場に残っているという連絡をもらってからです。酒母というのは酵母を培養して増殖させたもので、酒造りのもととなるものです。ちょうどエイプリルフールでしたから、信じられない気持ちでした。
── なぜ、試験場に酒母が残っていたのでしょうか。
私たちが造ってきた酒は主に熟成タイプでした。熟成させる酒の場合、香りが立ち過ぎる酒母は不向きなんです。しかし、その酒母は香りが強かったものですから、試験場に預けてどのような酒に向く酒母かを分析してもらっていました。それがたまたま残っていたわけです。
酒母には、蔵に居着いたいろいろな微生物が入っています。また、蔵人の癖などによって自然に選抜された菌が残っています。つまり、蔵の長年の仕事の積み重ねが凝縮されているのが酒母ということです。それが残っていることを知った時は、「蔵の歴史が残った、何もかも無くなったけれど、魂だけは残った」と思いました。暗がりの中に蜘蛛の糸がすうっと下りてきた。そんな感覚でしたね。 つづく
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東日本大震災時の津波によって壊滅的な被害を受けた福島県浪江町の請戸地区。この土地で200年近くにわたって酒造りを続けてきたのが鈴木酒造店だ。地元の人たちから「壽」と呼ばれ愛されてきたその酒「磐城(いわき)壽」の歴史は、震災でいったんは絶たれたかに見えた。
しかし、山形県の長井という別天地で「磐城壽」は奇跡の復活を遂げた。蔵も設備もすべてが海の藻屑となった中で酒はどのようにして復活したのだろうか。江戸・天保年間から続く酒蔵の歴史を背負って奮闘する鈴木大介氏に酒造りに懸ける思い、そして、故郷・浪江に寄せる思いを聞いた。
【鈴木大介氏プロフィール】1973年福島県浪江町生まれ。東京農業大学農学部の小泉武夫研究室で醸造を学ぶ。奈良県の酒造会社で4年間働いた後、父が社長を務める1830年創業の鈴木酒造店の社員となる。
現在は専務の立場で、常務である弟・荘司氏と共に酒造りの現場を取り仕切っている。
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「 甑 倒 し 」 の 日 を 襲 っ た 地 震 と 津 波
── 3月11日の震災発生時のことを覚えていますか。
あの日はちょうど、シーズン最後の仕込みの日で、「甑(こしき)倒し」という行事を行うことになっていました。酒蔵では原料米をふかすせいろを「甑」と呼びます。仕込みが終われば、甑の役目もいったん終わりとなります。甑を休ませ、仕事が無事に終わったことを祝う。それが甑倒しです。
その行事を早く済ませて、5時くらいから宴会を始めよう。そんな話をしている時に、地震が来ました。地面が揺れる前に地鳴りがあったのですが、それは今まで経験したこともない大きな地鳴りでした。何か大変なことが起きようとしていると感じて建物の外に出ると、まもなく本格的な揺れが来ました。普通の地震は、初めは大きく揺れて、だんだん収まっていくものです。しかし、あの地震はどんどん揺れが大きくなっていきました。ただごとではない──。そう思いました。
しかし、その時点では津波が来るとは考えていませんでした。蔵があった浪江町の請戸地区は、津波の大きな被害を受けたことのない土地だったからです。しかし、海を見に行こうとしてすぐに異常に気づきました。海岸近くを流れる川の水が完全に無くなっていて、海を見るとすとんと潮位が落ちている状態だったからです。漁師たちは津波に備えて船を出し始めていました。私はすぐに家に走って、家族たちを高台に避難させました。家族から一人も犠牲者が出なかったのは、たまたま行事があって、全員が蔵に集まっていたからです。
── 蔵は最初の津波で流されてしまったのですか。
いいえ。最初の津波は腰から上くらいの高さでした。しかし、その10分ほど後に西から海に向かって強い風が吹いたかと思うと、ものすごい波が海からやって来るのが見えました。以前に映像で見たスマトラ島の津波と全く同じでした。恐らく十数メートルはあったと思います。
私は地域の消防団のメンバーだったものですから、その時はポンプ車に乗って避難誘導をしていました。しかし、警察の方から「消防団員も早く逃げろ」と言われて、ポンプ車を乗り捨てて内陸の方に向かって走りました。すでに避難する車が渋滞になっていました。私は車中の人たちに、「津波が来るぞ」と伝えながら、大平山という近くの山を目指しました。
── 山の上から見た風景は…。
すべてが波にのみ込まれていました。海の水も、空の色も変に黒かったことをよく覚えています。蔵はもうだめだ──。そう思いました。
次の日の早朝にもう一度山の上から見下ろしましたが、本当に何も無くなっていて呆然とする他ありませんでした。請戸地区全体が真っ平らになっていました。
す べ て 無 く な っ た け れ ど 魂 だ け は 残 っ た
── すべてを失ったところから、どのようにして酒造りを再開できたのですか。
震災から3日たった頃、浪江の人たちが集まっている避難所に行くと、多くの人から「酒を造ってくれ」と言われました。その頃は、誰もが何かにすがらないと気持ちが保てないような状態でした。その中で、酒を心の支えとしている人たちがいる。それを知って、「もう造れない」とは言えませんでした。
父親、さらにはその先代、先々代らが、地元と真面目に向かい合ってきたからこそ、地元の人に自分たちの酒を愛していただけている。その歴史を絶やしてはいけない。そう思いました。
しかし、どうしていいかは全く分かりませんでした。造った酒はすべて流されてしまいました。設備ももうありません。残っているのは、自分たちの酒造りの感覚だけです。最初に家族や親戚で避難した米沢で、逃げる時に誰かが持ってきた「磐城壽」の一升瓶を16人で少しずつ分けながら飲んだのですが、その時は正直、「これが最後の壽だ」と思いました。
その気持ちが大きく変わったのは、4月1日に、蔵の酒母が会津若松の工業試験場に残っているという連絡をもらってからです。酒母というのは酵母を培養して増殖させたもので、酒造りのもととなるものです。ちょうどエイプリルフールでしたから、信じられない気持ちでした。
── なぜ、試験場に酒母が残っていたのでしょうか。
私たちが造ってきた酒は主に熟成タイプでした。熟成させる酒の場合、香りが立ち過ぎる酒母は不向きなんです。しかし、その酒母は香りが強かったものですから、試験場に預けてどのような酒に向く酒母かを分析してもらっていました。それがたまたま残っていたわけです。
酒母には、蔵に居着いたいろいろな微生物が入っています。また、蔵人の癖などによって自然に選抜された菌が残っています。つまり、蔵の長年の仕事の積み重ねが凝縮されているのが酒母ということです。それが残っていることを知った時は、「蔵の歴史が残った、何もかも無くなったけれど、魂だけは残った」と思いました。暗がりの中に蜘蛛の糸がすうっと下りてきた。そんな感覚でしたね。 つづく
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