「生涯現役社会のつくり方」の意見・提言①
2013年12月5日 お仕事 老後を明るい将来にしたいと、人口の約半分が高齢者の町で「葉っぱビジネス」を創業、まさに“好期”高齢社会を20数年で実現、全国に「上勝」の名を高めた横石知二氏。自著『生涯現役のつくり方』や「平成の世にサムライを探して/日立ソリューションズ」(http://www.hitachi-solutions.co.jp/column/samurai/feature/44/)のサイトから、私たちも『生涯現役社会づくり』への下記記事を真剣に参考にしていきたいと存じます。
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【横石知二氏:1958年生まれ。1979年徳島県農業大学校 卒業、同4月上勝町農業協同組合へ営農指導員として入社。86年から妻物(つまもの)を主力商品とした彩事業を開発、販売。99年第三セクター株式会社いろどり取締役。2005年同社代表取締役副社長。2002年アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー日本大会特別賞受賞 。ニューズウィーク日本版 「世界を変える社会起業家100人」に選出される。著書に『そうだ、葉っぱを売ろう!』『生涯現役社会のつくり方』(ソフトバンククリエイティブ刊)がある。】
ビ ジ ネ ス と は 、 仕 事 を つ く る こ と
過 疎 の 町 を 再 生 し た 葉 っ ぱ ビ ジ ネ ス の 軌 跡
徳島県上勝町、人口約2,000人の四国で最も人口が少ない町。この山あいに位置する町で注目のビジネスを展開する会社がある。和食を中心に料理を飾る“妻物(つまもの)”を主力商品とする株式会社いろどりである。商品は、“ 彩 ”というブランド名で出荷され、全国各地の有名料亭の料理を彩る。注目すべきは、ここではたらく人々。70代、80代のおばあちゃんが彩ブランドの商品を作り出す。もともとこの地域に自生する葉っぱを売ることを思いついたのが、取締役を務める横石知二氏。きっかけは実に些細であるが、ひらめきを逃さず、事業として確立するまでの軌跡を追う。
ふ る さ と に 誇 り を 持 て な い 悲 し さ
株式会社いろどりは、徳島市から車でおよそ1時間、勝浦川流域を除いてほとんどが山間という徳島県勝浦郡上勝町にある。高級料亭の妻物を主力商品とし、その全国シェアは80%と他を圧倒している。
徳島市から上勝町へ向かう途中、あたり一面の緑に包まれる。うっそうと茂る森林に囲まれた山道をしばらく行くと、道端や山の斜面に色とりどりの花々が迎えてくれる。その花々が、すでに上勝町に着いたことを知らせてくれる。町の至るところに咲く花々は、訪れた人々を歓迎してくれるかのようだ。
横石さんがこの地に赴任して、もうすぐ30年が経とうとしている。当時は、これほど長い間、上勝町で働くことになるとは思っていなかったという。徳島市出身の横石さんが、親の勧めで農協職員として上勝町に赴任したのは、1979年の春のこと。地元の徳島県立農業大学校を卒業したばかりの20歳のときだった。上勝町農協に営農指導員として採用され、農業経営を指導するのが主な業務であった。
当時の上勝町の主な産業は、林業とみかんの栽培。しかし、高度経済成長後、輸入により海外の安価な木材が国内の林業を圧迫、さらにもう1つの主な産業であるみかんは生産過剰で値崩れを起こし、産業は衰退の兆しをみせていた。横石さんが赴任した当時、産業の衰退が人々の生活を、さらには心をも圧迫し、人々は、ふるさとに誇りを持てない日々を送っていた。
「上勝町の女性たちは、一日中、家人の悪口や近所のうわさ話ばかりしている。男性たちといえば、酒をあおり、ぐうたらする始末。雨が降ったらもう大変。雨で農作業ができないので、昼間から酒をのみ、夕方には赤い顔をした人ばかりになってしまう。なんて町に来てしまったのか、というのが正直な気持ちでしたね。そんな光景をみているのが本当に嫌で、なんとかしなければと常に思っていましたよ。」
「することがない、仕事がない」というのは、こうまで人の心を曇らせてしまうとは・・・。さらに横石さんの心を傷めたのは、自分の子どもだけはこの町から抜け出させたいと思っていることへの失望だった。
「自分は、質素に暮らし、節約したお金を子どもの教育資金にする。子どもをいい学校にいれて、とにかく上勝町から離れた土地で生活させたい。その思いの根幹には、住民が自分の町を誇りに思っていない、この町には未来がないということを悟っているからでしょ。自分が生まれ、育った土地をそんな風にしか思えないことは、悲しいことですよ」
ふ る さ と を 誇 れ る 町 に … 。 ここでしかできないことがあるはずだ。このときの思いが、今の彩事業の源になっている。
生まれ持ったチャレンジ精神と上勝町を良くしたいという気持ちで、赴任当時からどんどん新しい提案を行なってきた。しかし、横石さんの思いをよそに、人々の反発は大きかった。よそ者、そして当時20代前半という若さが邪魔をし、人々にその思いが伝わるはずもなかった。
そんな逆風にも負けず、若き日の横石さんは次々と農業経営改革の提案をする。しかし、「よそ者のお前が、えらそうなことをぬかすな!」とはねつけられるばかり。上勝町、そして世界の状況を冷静に考えても、みかん栽培での生き残りは難しい。
ここでしか出来ないことを始めてみようと提案しても、当時生活のすべてを支えるみかん栽培。それを否定する、よそ者の若造ときたら疎ましいことこの上ない。横石さんと上勝町の人々との間には完全な溝ができてしまった。
そんな折に、記録的な自然災害が上勝町を襲う。 つづく
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【横石知二氏:1958年生まれ。1979年徳島県農業大学校 卒業、同4月上勝町農業協同組合へ営農指導員として入社。86年から妻物(つまもの)を主力商品とした彩事業を開発、販売。99年第三セクター株式会社いろどり取締役。2005年同社代表取締役副社長。2002年アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー日本大会特別賞受賞 。ニューズウィーク日本版 「世界を変える社会起業家100人」に選出される。著書に『そうだ、葉っぱを売ろう!』『生涯現役社会のつくり方』(ソフトバンククリエイティブ刊)がある。】
ビ ジ ネ ス と は 、 仕 事 を つ く る こ と
過 疎 の 町 を 再 生 し た 葉 っ ぱ ビ ジ ネ ス の 軌 跡
徳島県上勝町、人口約2,000人の四国で最も人口が少ない町。この山あいに位置する町で注目のビジネスを展開する会社がある。和食を中心に料理を飾る“妻物(つまもの)”を主力商品とする株式会社いろどりである。商品は、“ 彩 ”というブランド名で出荷され、全国各地の有名料亭の料理を彩る。注目すべきは、ここではたらく人々。70代、80代のおばあちゃんが彩ブランドの商品を作り出す。もともとこの地域に自生する葉っぱを売ることを思いついたのが、取締役を務める横石知二氏。きっかけは実に些細であるが、ひらめきを逃さず、事業として確立するまでの軌跡を追う。
ふ る さ と に 誇 り を 持 て な い 悲 し さ
株式会社いろどりは、徳島市から車でおよそ1時間、勝浦川流域を除いてほとんどが山間という徳島県勝浦郡上勝町にある。高級料亭の妻物を主力商品とし、その全国シェアは80%と他を圧倒している。
徳島市から上勝町へ向かう途中、あたり一面の緑に包まれる。うっそうと茂る森林に囲まれた山道をしばらく行くと、道端や山の斜面に色とりどりの花々が迎えてくれる。その花々が、すでに上勝町に着いたことを知らせてくれる。町の至るところに咲く花々は、訪れた人々を歓迎してくれるかのようだ。
横石さんがこの地に赴任して、もうすぐ30年が経とうとしている。当時は、これほど長い間、上勝町で働くことになるとは思っていなかったという。徳島市出身の横石さんが、親の勧めで農協職員として上勝町に赴任したのは、1979年の春のこと。地元の徳島県立農業大学校を卒業したばかりの20歳のときだった。上勝町農協に営農指導員として採用され、農業経営を指導するのが主な業務であった。
当時の上勝町の主な産業は、林業とみかんの栽培。しかし、高度経済成長後、輸入により海外の安価な木材が国内の林業を圧迫、さらにもう1つの主な産業であるみかんは生産過剰で値崩れを起こし、産業は衰退の兆しをみせていた。横石さんが赴任した当時、産業の衰退が人々の生活を、さらには心をも圧迫し、人々は、ふるさとに誇りを持てない日々を送っていた。
「上勝町の女性たちは、一日中、家人の悪口や近所のうわさ話ばかりしている。男性たちといえば、酒をあおり、ぐうたらする始末。雨が降ったらもう大変。雨で農作業ができないので、昼間から酒をのみ、夕方には赤い顔をした人ばかりになってしまう。なんて町に来てしまったのか、というのが正直な気持ちでしたね。そんな光景をみているのが本当に嫌で、なんとかしなければと常に思っていましたよ。」
「することがない、仕事がない」というのは、こうまで人の心を曇らせてしまうとは・・・。さらに横石さんの心を傷めたのは、自分の子どもだけはこの町から抜け出させたいと思っていることへの失望だった。
「自分は、質素に暮らし、節約したお金を子どもの教育資金にする。子どもをいい学校にいれて、とにかく上勝町から離れた土地で生活させたい。その思いの根幹には、住民が自分の町を誇りに思っていない、この町には未来がないということを悟っているからでしょ。自分が生まれ、育った土地をそんな風にしか思えないことは、悲しいことですよ」
ふ る さ と を 誇 れ る 町 に … 。 ここでしかできないことがあるはずだ。このときの思いが、今の彩事業の源になっている。
生まれ持ったチャレンジ精神と上勝町を良くしたいという気持ちで、赴任当時からどんどん新しい提案を行なってきた。しかし、横石さんの思いをよそに、人々の反発は大きかった。よそ者、そして当時20代前半という若さが邪魔をし、人々にその思いが伝わるはずもなかった。
そんな逆風にも負けず、若き日の横石さんは次々と農業経営改革の提案をする。しかし、「よそ者のお前が、えらそうなことをぬかすな!」とはねつけられるばかり。上勝町、そして世界の状況を冷静に考えても、みかん栽培での生き残りは難しい。
ここでしか出来ないことを始めてみようと提案しても、当時生活のすべてを支えるみかん栽培。それを否定する、よそ者の若造ときたら疎ましいことこの上ない。横石さんと上勝町の人々との間には完全な溝ができてしまった。
そんな折に、記録的な自然災害が上勝町を襲う。 つづく
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