昨11月30日(土)西日本新聞夕刊トップで大きく曻地三郎氏(しょうち・さぶろう=福岡教育大名誉教授)の死去報道が掲載されました。かって西日本新聞記者時代に曻地氏インタビューの連載記事で見事に担当された高村充一学友が、その掲載紙を速達便でご送付いただきましたので、以下に同掲載紙の内容を転載ご報告いたします。
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  1 0 7 歳  生 涯 現 役 全 う  曻 地 三 郎 さ ん 死 去
     障 害 児 教 育  し い の み 学 園 創 設  
  日本初の知的障害児通園施設「しいのみ学園」の創設者で、107歳の現役教育学者として知られた曻地三郎(しょうち・さぶろう)さんが27日午後2時55分、心不全のため福岡市内の病院で死去した。福岡県内の男性で最高齢だった。自宅は福岡市南区井尻1の40の6。葬儀は近親者のみで29日に営まれた。喪主は養女の坪根千賀子さんが務めた。
  広島文理科大(現広島大)卒。小学校教師として大阪府で勤務していたが、長男が生後間もなく脳性まひとなったことから、福岡市に転居して九州大学医学部で精神医学を専攻。次男も脳性まひとなったことから1954年、私費を投じて同市南区井尻にしいのみ学園を創設。園を創るまでの軌跡を描いた手記「しいのみ学園」はベストセラーになり、55年には映画化もされた。
  2003年、西日本文化賞(社会文化部門)を受賞。特別支援教育や幼児教育に長年携わり、福岡教育大名誉教授や韓国・建陽大名誉教授なども務めた。95歳で妻子全員を亡くして以降は、「99歳までは助走、100歳からが本番」をモットーに4カ国語の勉強を開始。99歳になった05年以降ほぼ毎年、世界一周講演旅行に出掛け、12年8月には公共交通機関だけを利用した「最高齢世界一周旅行者」としてギネス記録に認定された。
  手作りおもちゃを使った幼児向けの知能遊びや、ラップの芯で作った棒を使って体操する独自の「棒体操」など健康増進法でも知られ、10年9月には福岡県高齢者医療広域連合の健康長寿マスターに就任。シルクハットや蝶ネクタイをトレードマークに健康増進法の啓発に努めた。12年2月、しいのみ学園理事・園長を退任した。今年も活動を続け、11月14日にも同県久留米市で講演。27日未明に自宅で体の不調を訴えて入院。約12時間後に死亡した。

  障 害 が あ ろ う と な か ろ う と 、 人 間 は 同 じ
  「しいのみ学園」創設者で、日本の知的障害児教育の先駆者として知られた曻地三郎さんは、100歳を超えてなお、トレードマークのシルクハットと真っ赤なブレザー姿で各地を講演。106歳で公共機関での最高齢世界一周旅行者のギネス記録を作るなどエネルギッシュな活動で人々を魅了し続けた。近親者によると、亡くなる数日前から「わが人生は楽しかりけり。わが人生に悔いはない」とはなしていたという。
  最後の講演会は今月14日。福岡県久留米市の会場に車椅子で登壇、1300人を前に焼く1時間話した。1口で30回噛むことやユーモアの大切さ、新聞を読むことなど10項目の健康法を勧めた。主催した同市老人クラブ連合会の合原辰臣事務局長(61)は「退院直後だったにもかかわらず来てくれた。みんなに元気を与えてくれていたのでもう少し頑張ってほしかった・・・」。
  2012年2月に講演会を開いた飯塚竜王ライオンズクラブの諸冨賢一会長(60)=同県飯塚市=は、握手したときの手の柔らかさが印象的だったという。「いつもにこにこしている温かい人柄が伝わってきた。食事を有難くいただくことが健康の秘訣と学んだ。残念です」と悼んだ。
  脳性まひの障害があった息子2人を育て、一時資金難に陥った「しいのみ学園」の運営を続けた。「社会福祉法人葦の家福祉会」(福岡市城南区)の大石敏子理事長(76)は「障害があろうとなかろうと、人間は同じという考えを貫いてきた。それが今の障害児教育の土台になっていると思う」と功績をたたえた。
  100歳以降も計6回、世界一周旅行に出掛けた。50年間親交があった原土井病院(同市東区)の原 寛理事長(81)は「障害児教育を世界に広めようという大きな目標があったから、自分も元気でいなくてはという気持ちだっただろう。もう少し生きて日本や世界のために活動してほしかった」と悔やんだ。(以 上 西日本新聞11月30日付夕刊)

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