「 2 0 0 0 年 遡 行 の 旅 」 か ら 始 ま る

  若い日に見定めた目標を生涯つらぬく人生は、「初志貫徹」とか「一以貫之」とか言われて、幸せのひとつにちがいない。わたしの場合は、若い日の「初志」につながってはいるが、「初志展開」とでもいうことになるのだろうか。それでも若い日の熱気をつないでいるから幸せのうちである。それは志というよりはむしろ「夢」の領域に近く、夢としての心の奥のあちこちに移動させながら持ちこたえてきた。「2000年遡行の旅」がそれである。
  200年を遡る旅の行く先は、中国中原の古都洛陽。遠い日に周公旦が「土中」(大地の中心)と呼んだ華夏文明の揺籃の地である。日本史でご存知のように、西暦57年に倭の奴国王の遣いがはるばると朝貢に訪れた三国時代の魏の都だった洛陽。「日中交流の原点」といえば明確でわかりいいが、もっと漠とした目標であった。
  実際に果たすとなるとさまざまに惑いが生じる。職場のこと、家族のこと・・・。何か特別の力が、それも外からの衝撃的な力が必要だった。1972年に電撃的な日中国交回復があり、そのあと「雨過天青」といえるほどに暗雲が吹き払われて、わたしをせかせる衝撃的な力が何度もやってきた。
  契機はこれといって明確ではなかったが、いくつかの力に合わせ押されるようにして出奔した。1994年の秋、55歳で、通い慣れた新聞社を自主退社して、若い日の夢を果たすことになったのである。
  3年の滞在を終えて帰国したあとも、わたしを「2000年遡行の旅」に押し出した力が何であったのか、なお定かではなかった。それでも「平和裡」にこの国がなすべき役割があること、綺羅星のように輝いている高齢者(おおげさではなく)のみなさんとともになすべき事業であること、それだけは現地で確かめてきたのである。
  そして世紀末の1999年に、還暦とともに「国際高齢者年」を迎えたとき、「平和の証」である「日本高齢社会」達成への参加がその「初志展開」のひとつとなった。「平和裡の日本高齢社会の達成」を掲げる高連協の存在と活動は、それ以来かけがえのない支えとなっている。
  もうひとつは「平和裡のアジア共生への貢献」(先進国日本のアジア化と発展途上アジア諸国の日本化)である。わたしの知人であるシニア社員も、アジア諸国の現場で若き現地社員の教育係をつとめた。
  国内では熟年技術者は、途上国製の百円均一商品に囲まれながらリストラにも耐えて足踏みをしてきた。これから保持している知識と技術を駆使して「シニア市場」をにぎわす製品の生産者となり消費者となる。ひと味違った優れた製品を創り出し、暮らしを豊かにするだろう。また地域では高齢者が特性を活かした「モノ・居場所・しくみ」の創出に動きだす。かくしてアジアのモデルとして、高齢者が生き生きと暮らす「長寿社会」が推進される。
  このふたつの事業に参加して自己実現を果たすというのが「初志展開」としてのわたしの人生の夢となっている。
  つちかってきた知識と技術を活用してできること。わたしの場合、それは「Web月刊誌」の発行である。全国に水玉模様のように広がる活動と連携して、「衆口一詞」の拠点のひとつとして果たす役割は明解である。しかし課題は大きく個人の力はすこぶる小さい。上記ふたつの課題に関する著作を友人の支援を得て公刊することができたが、いずれも洛陽の紙価を高めるにはなお遠い。 (堀内 正範)  

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