大竹美喜氏著『これでいいのかニッポン』(1994年:NHK出版)第2章では、危機感一杯の日本現状で多岐にわたる規制や伝統的因習の閉塞感があっても、希望はあると・・・。政治や行政の力を借りなくても勇気ある人々と協力者が絶望社会を変革できると強く主張される。

  「一人の主婦が国を動かした」の実話として、高福祉高負担北欧のスウェーデンで1980年代に多くの若者が高失業社会へのやる気を喪失していた頃、23歳で二人の母親だったカーシャ・ベルグリンドさんが書いた『もっと勇気を出しなさい』(Skaffa Dig Mod Och Javlar Anamma)を紹介されている。

  彼女の著書が出た7年後の30歳当時に、大竹氏は直接会いに行き彼女から、「出版した頃の同世代の若者多くに会うと健康なのに社会参加意欲が乏しいことに気付いた。受身で諦めに満ち、消極否定思考で自己エネルギーを非創造的に浪費している。そこで、誰でも周囲に影響を与えられることを訴え、人生目標の意味を語り、アイデア提供への本を書いた」と聴かされた。

  別れ際に彼女から聴かされた日本の若者へのメッセージは、「自分を信じることです!! ポジティブ・チェンジは可能なんだと信じなさい!! そしてより良い将来のために社会貢献してください!!」だったと。どの国の若者もちょっとした動機付けで自分の人生や社会との関わりに目を開き、意欲的に成り得ることを僅か30歳の女性から知らされたという。
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6  田 中 首 相 に も 助 け ら れ  毎日新聞 2012年10月17日 東京朝刊

  《1974年4月、大竹さんの元にアフラック米本社から1枚のテレックスが届いた》

 米側も辛抱強く待ってはいたんです。「ペイシャンス(忍耐)、ペイシャンス」が口癖でした。 その年3月の日経新聞に「アフラックを認可か」との記事が出ました。米側から早速「まだ下りないのか」と矢の催促。「もう少し待ってください」。その後に来たのがそのテレックスでした。

 「大竹、ご苦労だった。このプロジェクトは解散する。大蔵省への申請を取り下げ、あなたが雇った人間には再就職をあっせんするように」

 《1人で認可申請に飛び回っていた大竹さんだが、この時期にはスタッフを何人か雇っていた》

 驚き、すぐに返事を出しました。「絶対に大丈夫。任せてくれ」。大蔵の雰囲気は悪くなく、近いうちに認可の感触がありましたから。だが本社は納得しません。テレックスでの応酬があり、業を煮やしこう言ってしまいました。「これから先のリスクは私が全部負う。認可が下りたらアフラックは日本に来るのか来ないのか」

 「もちろん、それなら喜んで行く」との返事。

 たんかを切った以上、事務所家賃や経費はすべて自腹でやりくりしなければなりません。さらに信念を強化するために退路を断ちました。軌道に乗りかけていた損保代理店業を人に譲渡し、自宅を担保に銀行から多額の運転資金を借金しました。もし成功しなければ国外脱出しかない、まで自らを追い込んだ。「大竹はおかしくなったんじゃないか」と言われました。

 ただ、捨てる者あれば拾う者あり、です。政治家の秘書時代の知人、友人が気の毒に思い、多方面に支持者を拡大してくれたのです。当時首相だった田中角栄さんは「大竹君のやっていることは民間厚生省だ。日本の社会保障制度なんか持ちっこないんだから応援しなければダメじゃないか」と言ってくれました。

 規制緩和の流れも追い風でした。大蔵省も保険業界の秩序ある自由化は必要だと考えており、具体例で示す渡りに船でもあったようです。

 《1974年10月1日ついに営業認可が下りた》

7  バ ブ ル に も 踊 ら ず  毎日新聞 2012年10月18日 東京朝刊

 《1974年11月15日、アフラック日本社が営業をスタートした》

 私はまだ35歳。この若さでは信用されないと思い自らは副社長に、初代社長にはお願いして元大蔵省保険部長の渡部信さんにきていただきました。他の社員は保険の素人ばかり。元自衛隊員やマスコミ勤務者など経歴もバラバラでした。理屈ばかり並べる専門家は必要なかったのです。目的さえ共有できれば、互いに知恵を絞り合えます。

 最初は10人でスタートしたのですが、どんどん人材が必要になってきました。だが、無名な会社なので有名大からの応募は少ない。そこで私は女子大に着目、就職難の時代、お茶の水女子大、日本女子大、東京女子大を回り、多くの優秀な方に来ていただいた。彼女たちが最初の10年、15年の会社の基礎を固めてくれた。わが社は女性によって築かれたといっても言い過ぎではありません。

 私も、猛烈に働きました。朝7時に出社して夜は11時頃まで。休むのは年10日前後。社員からセブンイレブンというあだ名も頂戴しました。

 《社員の一人は、7時に出社すると、すでに自分の机の上には、仕事の進捗
(しんちょく)度を問う大竹さんのメモが置いてあった、と振り返る。やがて80年代後半、日本経済はバブルに踊り金融機関は軒並み不良債権を抱えた》

 当時のアマコスト駐日米大使に何度も呼ばれ、不動産や株を持っているならばすぐに手放すよう執拗(しつよう)に勧められました。まだ、地価、株価共に右肩上がりを続けている時です。米当局にはこのバブルはまもなく崩壊する、ということがわかっていたのでしょう。

 ただ、わが社は慌てる必要がありませんでした。石橋をたたいて渡らないような超保守的な運用しかしていませんでした。お客様からのお金は金庫で一時預かっているものと割り切っていました。クリスチャンとしての理念、哲学でもありました。だから、金融業界では珍しく無傷でバブル崩壊を乗り切れたのです。

 《このほか、生保業界では異例の代理店方式の導入など大竹さんの経営革新は社業を拡大、がん保険では他社の追随を許さない地歩を築いた》  つづく

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