1994年9月に出版された大竹美喜氏著『こえでいいのかニッポン』は、あくまでも個人の立場で書かれたと述べられているが、随所に世界における日本社会への真剣な危機感が18年後の今日でも的確に指摘されておられることを痛感する。

  例えば、第1章の「何がいま問題なのか」から独断と偏見で引用させていたsだくと、著者は保護社会の綻びを明確に訴えられながら、“極論するなら、たとえ経済が停滞しようが、外国から批判を浴びて孤立しようが、日本人に自立心があれば、再び繁栄と国際協調を取り戻すこともできます。”

  “しかし、自立心がなくなったら、経済的な繁栄も国際協調も見せかけにすぎず、長続きするものではありません。規制と保護のもとで、日本人はどんどん自立心を失っているのではないかと私は心配しているのです。”と。

  その日本を愛するが故に、政治が「議会制民主主義」というよりも、「利害性民主主義」とも揶揄されるような国会議員が得票のため、地方自治体レベルに任すべき仕事の許認可権や補助金配分決定の中央官庁権限に浅ましい出番づくりをしていると嘆かれている。

  「産業空洞化と雇用」「不況対策の甘え」や「型にはめる教育」「家庭崩壊から社会不安」「会社人間の没落」等々・・・が少子超高齢社会の構造変化にどう対応すべきかの『生涯現役社会づくり』国家レベルでの国民主導運動の展開策を私たちはぜひ協働で推進したいと願望している。 
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4   半 年 悩 み 「 人 生 か け る 」  毎日新聞 2012年10月13日 東京朝刊

  《米留学経験のある外資系保険のトップセールスマン。そんな大竹さんを見込みアフラックからがん保険の話が持ち込まれたのは1972年春のこと。知己の在日米国人弁護士を通じてだった》

 こ う 口 説 か れ ま し た。

  「日本の生保と合弁したいと働きかけたが、どの会社からも断られた。でもあきらめられません。がんの啓発と対策は世界共通課題と考えているからです。米で始めたがん保険をぜひ日本にも広めたい。あなたは生保実務に豊富な経験と知識をお持ちと聞いている」

  半年悩みました。アフラックといっても当時は、米国内で1,800社ほどがひしめく中で中下位の無名企業でした。初回でも述べたようにがん保険という新商品の特殊性もありました。病名ですら隠そうとする日本の風土に合うかどうか。認可だって簡単ではない。

  相談すると、10人中8、9人が半m対でした。ただ、二つのことがもんもんと悩む私の尻を押してくれました。一つは、がんを患い2人の娘を残して50歳で亡くなった半田寛子さんという主婦の闘病記。信頼する方に薦められ、一晩で読み切りました。この仕事は神様が私にプレゼントしてくれたものだと感じました。

  もう一つは、ジョン・B・エイモスというアフラックの創業者の存在です。フロリダの漁村の貧しい雑貨商の家に生まれ、英国に渡って保険学を学びました。父親をがんで亡くし、使命感から保険会社を自ら設立して懸命に経営する反骨精神にもひかれました。

 《アフラックは、1955年米国南部ジョージア州で創立、3年後に世界初のがん保険を発売した》

  リスクゆえに挑戦の価値がある。後発の中小が大手と同じ商品で勝負しても勝ち目はありません。がんとの闘いは長く苦しい。費用もかかる。保険会社の使命かもしれない。ちょうどその時、短大時代の恩師が事務所を訪ねてきました。

  「大竹君、こけのつく石になれ」。私のようにあちこち転がってばかりではいずれ砂粒になってしまう、どこかで止まってこけをつけろ、という諭しでした。これは人生をかけるに値する。迷いは吹っ切れました。

5    上 か ら 下 ま で ア タ ッ ク  毎日新聞 2012年10月16日 東京朝刊

  《1972年にアフラックの申し出を受けた大竹さん。この日から2年半にわたる監督官庁との長い孤独な闘いが始まった》

  大蔵省の厚い壁は初回にお話しした通りです。日本の保険業法には、生命保険と損害保険についての規定しかない。がん保険しか扱わない米保険会社をどう位置付ければいいのか、当局も判断できなかったのです。

  階層別アタックも考えました。当時の愛知揆一蔵相以下、事務次官、銀行局長、保険部長、課長……。上から下まで一気通貫になる戦略です。もちろん、正面作戦だけではありません。

 《東京・赤坂に政治家がよく利用する「佳境亭」という料亭があった(現在は閉店)。大竹さんはそこのおかみに信頼され人脈を広げた》

  広島から上京する際、1冊の本を読んだんです。そこに、何か始めようと思ったら料亭のおかみに信頼されることという1行がありました。佳境亭には最初ずぶぬれになってドブネズミ状態で行った。大雨の日でした。おかみさんが可哀そうに思ってくれたのでしょう。政治家との打ち合わせのために呼ばれていた大蔵官僚に一生懸命私のことをPRしてくれました。
 
  1年半後、大蔵省から厚生省(当時)の承認も必要だと言われました。1973年に当時の田中角栄首相が福祉元年を宣言し、高齢者の医療費は自己負担ゼロになりました。国の医療保険制度が医療費をほとんどカバーしていました。厚生省は当初、公的医療保険に抵触するような商品を民間が作って参入するのは認められない、との構えでした。

  しかし、あと一歩のところです。ある時「米の保険をそのままではなく日本の医療保険制度と競合させず、補完するような商品にすればいい」とひらめき、がんによる入院は1日1万円など定額給付としました。差額ベッド代や交通費、入院に必要な物品購入に充当できる保険にしたのです。生命保険でも損害保険でもない、第3の分野です。厚生省の承認は取れる見込みが立ちました。あとは再び大蔵省です。
 
  そんな苦労を続けるある日、米本社からとんでもないテレックスが入りました。   つづく

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