毎日jp/AFLAC創業:大竹美喜氏紹介②
2012年10月15日 お仕事 AFLAC JAPAN創業者の当時大竹美喜会長に初めてお会いしたのは、1996年2月10日(土)午後に東京YMCAで開催された『これでいいのか日本』(1994年9月NHK出版で同名著書『これでいいのかニッポン』を出版)講演会に出席して、大いに感銘を与えられた。
米国AFLAC本社創業者のエイモス氏が親日派として、米国での日本市場の閉鎖性非難が高まっていた1980年代に米議会での証言やウォールストリート・ジャーナル紙意見広告などで、AFLAC JAPANの成功例を語り、率先して日本擁護に尽力したといわれるが、大竹氏の同社創設に至るまでの国を動かす水面下の壮絶な労苦があったことがよくわかるという毎日jpでの今般ご紹介する内容である。
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2 米 国 留 学 、洗 礼 受 け る 毎日新聞 2012年10月11日 東京朝刊
《6歳で敗戦を迎え、20歳で渡米する》
生まれたのは、中国山地の山麓(さんろく)部にある広島県庄原市です。小学校でも通学には片道1時間半、往復3時間。冬は2メートルの雪。私の独立心と反骨精神は厳しい自然環境の中ではぐくまれました。加えて父母からは「世のため人のために役立つ仕事をしなさい」とたたき込まれ、敗戦後の騒然とした世相の中、日本はどう生きていくべきなのか、を大人たちに交じって議論する変な子供でした。
「単独講和か全面講和か」
「全面講和と決まっていると思います」
「なんじゃお前」
「米国とだけ仲よくしていても平和な世の中にはなりません」
「子供ははよ寝とれ」
「子供が物をいうたらいかんですか。そういう考えは古いと思います」
高校ではサッカー部を創設、地元出身の作家、倉田百三に傾倒しました。農業を継げという父とけんかして16歳の春に家出、大阪で新聞配達しながら定時制に通った。結局地元高校の担任に諭され4ヶ月で挫折、作家の夢はあきらめました。
夢にはDNAがある、というのが私の考えです。リスクを恐れず真正面から夢に挑む。たとえ一つの夢をあきらめても次の夢がより強固になる。私の場合は人のためになりたいという夢です。広島農業短期大学(現県立広島大学)で畜産学を修め、米国に渡りました。日本に勝った国を見たくなったのです。実際に肌で触れ、なぜこんな国と戦争したのか、バカげたことをしたことがよくわかりました。
《カリフォルニア州サンタマリアのカレッジに通った。キリスト教と出合い次の夢を抱く》
勉強とアルバイトの孤独の日々。対日戦で死んだ米兵の遺族も多く、日本への差別感情も残っていました。疲れ切ったある日、友人が日系人の多く集うメソジスト教会の礼拝に誘ってくれ、間もなく洗礼を受けました。
《そんな大竹さんに、宣教師となってアフリカ・コンゴへ農業指導と布教に行かないか、との誘い。渡米から2年半。宣教師資格を取るため青山学院大神学科に進学するつもりで帰国した》
3 自 分 探 し 、 天 職 見 え た 毎日新聞 2012年10月12日 東京朝刊
《帰国はしたが、コンゴ動乱(1960〜1965年)で宣教師の夢も破れた。再び大竹さんの自分探しが始まる》
しばらくして郷里選出の自民党衆院議員、永山忠則(1897〜1984年)に誘われ秘書になりました。政治家となり国民に奉仕する道もあると考えたのです。でも、すぐその世界が自分にふさわしくないとわかりました。私が描いていた無償の奉仕とはかけ離れていた。政治家だけでなく支持者も自分の利益優先が日常茶飯事でした。
違和感が嫌悪感に変わり、ノイローゼで病院通い。その時出会ったのが、聖路加国際病院の日野原重明先生です。「意に反することをしているから心の病にかかる。自分を解放してあげなさい。職業を変えるのが一番だと思いますよ」。かくして秘書稼業は3年間で卒業。ただ自分探しの人生体験は無駄がない。この時の人脈が後に生きます。
天職と思った保険の世界との出会いもここでした。永山は国民健康保険中央会会長を長く務めた保険のプロで、事務所には関係者が出入りしていました。その一人のやり手保険外交員が俺のところに来いよ、と助手として雇ってくれたのです。
保険という仕事は、私には理想的な選択に見えました。社会的弱者が共に助け合う頼母子講(たのもしこう)。私の求めていた「一人は万人のため、万人は一人のため」との奉仕の精神に近いものがありました。
《大竹さんはメキメキと頭角を現す。助手はすぐやめ外資系損保「AIU」で6年間働きトップセールスマンに》
完全歩合制ですから契約が取れないと1円にもなりません。1人で大きな契約をどう取るかを考えました。結論は、顧客ニーズを徹底調査し、それに合致したオリジナル商品を開発すること。電力会社の電気工事を請け負っている作業員のための保険を作り、これがあたりました。マーケットというのは自分で作りだすんだ、と学びました。
《大竹さんは、アリコジャパン(当時)でも保険を日本人向けに手直しする仕事を成功させた。新しい夢は「日本一の代理店網を作って東証に上場する」。そこに運命の出会いが舞い込んだ》 つづく
米国AFLAC本社創業者のエイモス氏が親日派として、米国での日本市場の閉鎖性非難が高まっていた1980年代に米議会での証言やウォールストリート・ジャーナル紙意見広告などで、AFLAC JAPANの成功例を語り、率先して日本擁護に尽力したといわれるが、大竹氏の同社創設に至るまでの国を動かす水面下の壮絶な労苦があったことがよくわかるという毎日jpでの今般ご紹介する内容である。
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2 米 国 留 学 、洗 礼 受 け る 毎日新聞 2012年10月11日 東京朝刊
《6歳で敗戦を迎え、20歳で渡米する》
生まれたのは、中国山地の山麓(さんろく)部にある広島県庄原市です。小学校でも通学には片道1時間半、往復3時間。冬は2メートルの雪。私の独立心と反骨精神は厳しい自然環境の中ではぐくまれました。加えて父母からは「世のため人のために役立つ仕事をしなさい」とたたき込まれ、敗戦後の騒然とした世相の中、日本はどう生きていくべきなのか、を大人たちに交じって議論する変な子供でした。
「単独講和か全面講和か」
「全面講和と決まっていると思います」
「なんじゃお前」
「米国とだけ仲よくしていても平和な世の中にはなりません」
「子供ははよ寝とれ」
「子供が物をいうたらいかんですか。そういう考えは古いと思います」
高校ではサッカー部を創設、地元出身の作家、倉田百三に傾倒しました。農業を継げという父とけんかして16歳の春に家出、大阪で新聞配達しながら定時制に通った。結局地元高校の担任に諭され4ヶ月で挫折、作家の夢はあきらめました。
夢にはDNAがある、というのが私の考えです。リスクを恐れず真正面から夢に挑む。たとえ一つの夢をあきらめても次の夢がより強固になる。私の場合は人のためになりたいという夢です。広島農業短期大学(現県立広島大学)で畜産学を修め、米国に渡りました。日本に勝った国を見たくなったのです。実際に肌で触れ、なぜこんな国と戦争したのか、バカげたことをしたことがよくわかりました。
《カリフォルニア州サンタマリアのカレッジに通った。キリスト教と出合い次の夢を抱く》
勉強とアルバイトの孤独の日々。対日戦で死んだ米兵の遺族も多く、日本への差別感情も残っていました。疲れ切ったある日、友人が日系人の多く集うメソジスト教会の礼拝に誘ってくれ、間もなく洗礼を受けました。
《そんな大竹さんに、宣教師となってアフリカ・コンゴへ農業指導と布教に行かないか、との誘い。渡米から2年半。宣教師資格を取るため青山学院大神学科に進学するつもりで帰国した》
3 自 分 探 し 、 天 職 見 え た 毎日新聞 2012年10月12日 東京朝刊
《帰国はしたが、コンゴ動乱(1960〜1965年)で宣教師の夢も破れた。再び大竹さんの自分探しが始まる》
しばらくして郷里選出の自民党衆院議員、永山忠則(1897〜1984年)に誘われ秘書になりました。政治家となり国民に奉仕する道もあると考えたのです。でも、すぐその世界が自分にふさわしくないとわかりました。私が描いていた無償の奉仕とはかけ離れていた。政治家だけでなく支持者も自分の利益優先が日常茶飯事でした。
違和感が嫌悪感に変わり、ノイローゼで病院通い。その時出会ったのが、聖路加国際病院の日野原重明先生です。「意に反することをしているから心の病にかかる。自分を解放してあげなさい。職業を変えるのが一番だと思いますよ」。かくして秘書稼業は3年間で卒業。ただ自分探しの人生体験は無駄がない。この時の人脈が後に生きます。
天職と思った保険の世界との出会いもここでした。永山は国民健康保険中央会会長を長く務めた保険のプロで、事務所には関係者が出入りしていました。その一人のやり手保険外交員が俺のところに来いよ、と助手として雇ってくれたのです。
保険という仕事は、私には理想的な選択に見えました。社会的弱者が共に助け合う頼母子講(たのもしこう)。私の求めていた「一人は万人のため、万人は一人のため」との奉仕の精神に近いものがありました。
《大竹さんはメキメキと頭角を現す。助手はすぐやめ外資系損保「AIU」で6年間働きトップセールスマンに》
完全歩合制ですから契約が取れないと1円にもなりません。1人で大きな契約をどう取るかを考えました。結論は、顧客ニーズを徹底調査し、それに合致したオリジナル商品を開発すること。電力会社の電気工事を請け負っている作業員のための保険を作り、これがあたりました。マーケットというのは自分で作りだすんだ、と学びました。
《大竹さんは、アリコジャパン(当時)でも保険を日本人向けに手直しする仕事を成功させた。新しい夢は「日本一の代理店網を作って東証に上場する」。そこに運命の出会いが舞い込んだ》 つづく
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